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ウェラテヌス隆盛記  作者: 浅羽 信幸
第三十七章
1491/1590

孤独になったとしても Ⅰ

「アレッシアはエリポスを恐れていると見える」


 デオクシアのはっきりとした声に、マシディリは正中線を外したまま耳を傾けた。ただし、目に力は入れない。視線はけだるげに、聞き流しているのと変わらない温度で。


「事実を並べられた時に、敢然たる否定をすることができないのではありませんか?」


「否定するまでもありませんよ」

 すげなく返す。


 ディファ・マルティーマの熱を孕んだ風が、室内を吹き抜けた。

 ずずい、と日陰から日陰に。デオクシアが身を乗り出して机に手を置く。たらり、と陶器から垂れるのは内外の気温差で生じた水滴だ。



「エスピラ様がエリポス遠征を敢行された時、アレッシアは何一つ支援を行わなかった。

 イフェメラ様とディーリー様がエリポスに来た時、元老院は調印の条件を悉く否定した。

 マシディリ様がエリポスに兵を引き連れてこられた時、元老院はエリポスに情報を流し続けた。


 そして、今。ティツィアーノ様がエリポスに居ると言うのにクイリッタ様がエリポスにやってきた。しかも、アレッシア軍同士でにらみ合いも発生していると言う。


 これが妨害で無くして何と言うのか、お教え願えますか?」


「本人に聞かれては?」

 さらりと返す時に視線を向ける。

 発言が終われば、もちろん視線を切った。


「元老院で数に劣る者達がエリポスに来て、妨害にあっていたのがこれまで。今回の、元老院で幅を利かせているアスピデアウス派の者が来た時にも同じことが起こったと言う事実は、アレッシアがエリポスを恐れていると言う証左にもなりかねないとすら思わないと?」


「戦争がお望みならばティツィアーノ様かクイリッタの軍団をお殴りください」

「アフロポリネイオはもう勝てない」

「他の大神官たちはそうは思っていないようですよ」


「リングア様のことか」

「ええ」


 言葉と共に首も動かし、手を伸ばす。取ったのはマシディリ自身の陶器。いきなり口には含まず、くるりと中身を回す。からからと、貴重な氷が音を立てた。


 今は夏の盛りが終わりを迎えようかという頃。

 この時期まで氷があるのは、ウェラテヌスだからこそである。


「エリポスに来ても妨害されなかった者は、動員がままならなかった時のアスピデアウス派の面々。

 全てを思い通りに出来たのは、追放から復活したエスピラ様だけ。エスピラ様だけがエリポスでも自由に行動できた。エスピラ様だけが、エリポスの都市を幾つも地図から消した。


 だが、エスピラ様はもういない。


 この意味が分からぬマシディリ様では無いと思い、わざわざ此処まで足を運んだのですが」


「時に、デオクシア様はアレッシアに勝ったと言う功績を唯一のモノにしたいがために祖国を貶めている、という噂も耳に致しましたが」


「大神官長殿ですか?」

「デラコノス様だけでは無いでしょう」


「私がそのような人物であると?」

「いいえ。そのような人物であれば、恋い焦れ誘いをかけてはいませんよ。現に、今もお待ちしているのですが」

「お断りいたします」


 はっきりとした拒絶の色を宿した瞳と、断固とした意志を滲ませた顔。背筋もしっかりと伸びており、指作まではきはきとした動作である。こちらに気は無いと言ってるようだ。

 しかしながら、デオクシアがマシディリの前に置いたのは数枚の羊皮紙。一瞥しただけで分かる。ジュラメント様式の設計図だ。


(忠誠心は変わりませんが、私のことも前よりは信頼してくれているようですね)


 一先ずは、これで良しとすべきか。


 急ぐべきではないと思いながら、マシディリも少し体勢を変えた。正中線をしっかりとデオクシアに向ける訳では無いが、方向は近づける。


「写しのため、正確ではないかも知れません」


 デオクシアが言う。

 それすらも証拠になる、と言うことだ。


 マシディリは右手だけを机の上に置き、乱雑に羊皮紙を広げた。軽く目を滑らせただけでは違う場所は分からない。逆に言えば、それほどまでに情報を手に入れていると言うことである。


「エスピラ様のハグルラーク攻略戦。マシディリ様の東方遠征。エスピラ様とマルテレス様のフラシ遠征。いずれに於いても現れ、攻略されてきた壁です。

 しかしながら、例えばクルカル・メフタフのような優秀な将が入れば少数でも多数のアレッシア軍を足止めできてしまう。それほどまでに優れ、アレッシアの飛びぬけた攻城能力を著しく減退させる壁だと伺っております」


 眉が上がらないように、気を付ける。


(クルカル様を知っているとは)

 アレッシア人の顔の区別はつくようになったようだが、まさか、東方諸部族まで、しかも交渉に出てきたことの無い者まで把握しているとは思わなかった。



「事実、マシディリ様も攻略に失敗し、ノハ平原での敗北に繋がったとか。クルカル・メフタフとバーキリキ・テランと言う鬼才が二人いてこその偉業ではありますが、優秀な将が入れば万を超えるアレッシア軍ですら千で押しとどめられる世界最高の壁だと認識しております。


 発明者は、エスピラ様の義弟でありマシディリ様の義叔父であるジュラメント・ティバリウス。東方遠征時にクルカルの籠る砦を攻略したのは、ファリチェ・クルメルトと、クイリッタ・ウェラテヌス、でしたね」


「良くご存知で」


「先の戦いでお分かりでしょう。私の全力で以て、徹底的に調べ上げさせていただきました。アレッシアを。特に、ウェラテヌスを。その上でもう二度とアフロポリネイオは勝てないと判断しているのです」


(ああ)

 欲しい。

 欲しい欲しい。


 この人材は、確保しなければならない人物だ。


 バーキリキや、クルカルのように失ってはならない。確実に掌中に収めなければならない漢である。


「マシディリ様?」

 声音に僅かに滲むのは、怯え。

 マシディリは、気づけば噛んでいた右手人差し指の付け根を、そっと外した。


「ジュラメント様式は、東方で?」

「この壁は戦争の火種にしかなりません。私が、祖国に火種を持ち込むと?」

「建設を止めてほしいと」


 デオクシアが口を閉ざした。

 アフロポリネイオの復興を担っているのはアレッシア、もといティバリウスの被庇護者を中心とした者達だ。作るのも、止めるのも。ある意味では自由自在だろう。


「大神官長殿が、娘と引き換えに手に入れたと言えば、どうします?」


 今度は、マシディリが一時的に口を閉ざす番。


「信じるに足る証拠は?」

「マシディリ様が弟を疑われたこと、利用されたことに対して怒りよりもその言葉が先に出たのが、一番の証拠になるのではありませんか?」


 話になりませんね、と切り捨てるか。

 今からでも怒りを見せるか。

 冷静に話を進め、物的証拠を求めるか。


 僅かに迷うその時間すら、デオクシアにとっては十分すぎる時間となってしまう。


「知っての通り、私は大神官長殿に嫌われております。そこを利用し、リングア・ウェラテヌスをアレッシアに戻す。もちろん、身の安全は保証いたします。如何です? この手、取ってみませんか?」


「政治闘争に、リングアを巻き込まないでいただきたい」


 出そうと思った声よりも数段低くなる。

 同時に、安堵した。怒れると。リングアのために、怒っているのだ。怒ることができるのだ。


「私が仕掛けている政治闘争に巻き込んだのはマシディリ様だ。他ならぬ貴方が、リングアを巻き込んでいる。


 マシディリ様。私の求める条件はただ一つ。

 アフロポリネイオへの軍事介入はおやめください。しないと、誓っていただきたい。

 条件はそれだけです」


 デオクシアの手も、よりマシディリの方に置かれた。

 体も乗り出している。熱気も感じるほどだ。

 耳は、デオクシア以外の音を拾っていない。


「アレッシアは人質を認めない」

「人質ではありません。これは、戦争だ。侵略を続けるアレッシアを止めようと動いているだけだ」

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