一歩ずつ
グライオの葬式は、書斎にあった言伝により、アビィティロが主導することになった。ただし、その言伝にもさらなる言葉があったようで、結局は最高神祇官であるマシディリが遺言発表までを取り仕切ることになる。
ベロルスの当主は、ベロルスの娘を妻にしているスペンレセに。
アレッシアに付属する印などはマシディリに返還することになっていたが、アビィティロを経由するため、葬式と合わせて政治的な後継者はアビィティロであるとの言葉と同義である。
そして、フラシ、ハフモニおよびプラントゥム西端の政策に関してはマシディリが最も知っていると書き残されていた。メクウリオを現場主導官としつつ、マシディリが決定を下すのが最も混乱なく収まるのだと書かれていたのである。
加えて、グライオが『子供』と評した書もマシディリが受取人になっていた。これまでにエスピラから受け取っていた私財も、多くがマシディリに返還されている。
「決して『ベロルスだから』と言う形で後継を擁立し、あるいは引き立ててもらってはならない。全ては能力によって決まるものであり、マシディリ様にはマシディリ様の考えがあり、立場には立場に必要な力があるのだから何故自分達が引き立てられないのかと思ってはならない」
そう言った文言も、よく並んでいた。
ウェラテヌスに対しての恨み節も聞いたことはあるが、お門違いである。本来ならば潰されてもおかしくなかったところを、エスピラ様の格別の計らいによって再び貴族として恥ずかしくない地位まで戻ってきたのだと。故に、落ちぶれたそもそもの要因がウェラテヌスだと私の死後に口にした時点で、ベロルスは潰されて然るべき存在なのであるとまで言っている。
ベロルスの者がハフモニと手を組み、メルア様を狙ったことを決して忘れてはならない、と。
国家への裏切りに対し、多くの者の壁となり能力を発揮する場を誂えてくれたのはエスピラ様に他ならないのだから、ウェラテヌスへの大恩こそ忘れてはならないのだ、と。
「私がエスピラ様の築き上げたモノを崩壊させる鍵になるのは我慢ならない、ですか」
呟き、そこまででしたか、と思う。
我慢ならないことは何も不思議では無い。そこまでかと思うのは、中間層の離脱だ。いわば、マシディリでは無くグライオを、あるいは他の者をと思う者がそれだけ多かったのか、と。
元から、代替わりなどそんなモノだ。
悲しいことに、マシディリには出生について疑いも持たれたことがあるのだから、上手く行かないのも本来ならば自然なことなのだろう。優秀な弟妹がいる以上、余計にそちらで良いのでは無いかと思われるのも仕方の無いこと。
母の話をうのみにすれば、祖父タイリー・セルクラウスですら疑念に思っていたのだから。
ぐ、とマシディリの拳が赤くなる。
ありえない話だ。
母が、父以外に許すとは到底思えない。
父も、母に言い寄った男を許しておくとは全く以て想像がつかない。
(私は)
ちらり、と隣にいるべルティーナを見やる。
マシディリとて、マンフクスに対する怒りは今でもある。だが、べルティーナに手を出そうとした者を庇ったマンフクスを結局は許し、巡り巡って支持に繋がった。結局マンフクスは壊滅したが、それもまた天命である。
「疲れた?」
べルティーナが書物を閉じる。
「いえ」
言いつつも、手は愛妻の細い腰に。べルティーナも抵抗することなくマシディリに少々引き寄せられた。
良い匂いだ。
好ましい匂いである。
そのまま、ゆっくりと近づいて。
「兄上!」
扉が、豪快に開かれた。
ぴたり、と愛妻が止まる。三弟の声で「あ」と小さな音が鳴った。
特に気にせず口づけまでを考え、途中でやめる。代わりに、愛妻を胸に抱きしめた。顔は、アグニッシモから見えないように隠してしまう。
「でなおしたほうが、よき?」
アグニッシモの、小さな声。
マシディリは口元に小さく笑みを作って首を横に振った。
「此処は書斎だからね。仲睦まじくするところでは無いよ」
「あはは……」
困ったようなアグニッシモの笑い声だけが、かたからと部屋に落ちて転がっていく。
あなたが言うことでは無いと思うのだけど、なんて、いつもなら言いそうな妻も黙ったままだ。
「私にべルティーナが必要だろうからと此処にいてくれているだけだよ」
「あ、この度は」
「堅苦しいことは要らないよ」
ゆるり、とべルティーナを解放する。
愛妻が手櫛で髪を整える前に、マシディリも髪に手を伸ばした。べルティーナの体温は、少し高い。
「何かあったのかい?」
余裕と自信の表情。
例え偽りだったとしても、隣にいるのがアレッシアで、いや、世界で一番の女性であり心が通じ合っていると思えば、自信も湧いてくると言うモノだ。
「誓紙を書いてみたから、兄上に見てほしくて」
反対に自信なさげな愛弟の様子は、幼い時にすら見ることの少なかった幼い姿だ。
微笑みをそのままに、マシディリは手を伸ばした。何の誓紙だい、なんて、やさしく問いかけるのも忘れない。
「兄上への忠誠をしっかりと示しておこうと思って」
受け取る間際ではあるが、マシディリは目をアグニッシモに移した。
アグニッシモの声はいつもより小さくはあったが、目の奥底にある光は力強い。
「ほら。いちおーさ、兄上と俺には明確な上下関係というか、覆らないものがある訳じゃん。それは分かっていたし、示していたつもりだけど、その、出来ていたとは別だし。どう見えていたかも別だし。本当にそうなっていたかもわからないし。
それに、やっぱり、俺が我が儘過ぎたから、兄上じゃなくてもなんて奴らがでてきたんだよね」
怒りは、自分と他人へ。
自罰的な思考の下地は、奴隷との結婚を考えたことやその後に『マシディリに何かあった時』とみられ続けた反動か。
「気にする必要は無いけど、可愛い弟がそこまで思い悩んでしまうのなら、私も考えないといけないね」
やさしく、やわらかく、受け止め包み込むように言いながら、マシディリは誓紙に目を落とした。
多分、慣れていないのだろう。
筆圧が所々変わっているのが分かる文字だ。その文字で、上下を示している。マシディリの言ったとおりにする、と。例え人を上回る力があろうと、牛が人に代われぬように。荒々しい雄牛もまたこれぞと認めた主人には仕え続けるのだ、と。
「嬉しいよ、アグニッシモ。そして、すぐに、また前までの気兼ねない兄弟関係で問題ない状況に戻してみせるよ」
覚悟を胸に、アグニッシモに視線を向ける。
そのアグニッシモは首を横に振ってきた。
「父上が言っていたんだ、兄上。一歩ずつで良いって。
何だっけ。お爺様は最高神祇官と執政官になって、父上は最高神祇官と独裁官を兼ねて。でも、別にお爺様もすぐに二つを兼ねた訳じゃないし、父上だってお爺様が死んだあとすぐに最高神祇官になった訳でも独裁官になれた訳でもないからさ。
まずは、フロン・ティリドを片付けようよ」
(ああ)
立派な漢だ。
幼いだの、不安が残るだの、政治的にだの。色々思ってきたが、アグニッシモももう二十七。父がエリポス遠征を行っている年齢である。マシディリに至っては東方遠征を終えている歳だ。
「そうだね。私は、三十二で最高神祇官で広域に及ぶ軍事命令権を手にしているね」
一歩、父や祖父よりも上にいる。
立派な成長だ。
そん色ないどころでは無い。確実に、ウェラテヌスは成長している。
「そうだよ。父上の真似をしてたら、こう、階段降りちゃうよ」
「レピナに噛みつかれそうな発言だね」
くすり、と笑い、ユリアンナから送られてきていた手紙を手に取る。
少し遅れて、足音が近づいてきた。
レピナのモノでは無い。家内奴隷のモノだ。
「旦那様。今、よろしいでしょうか」
「構いませんよ」
お辞儀をした雰囲気のあと、壮年の家内奴隷が入ってくる。
「ティツィアーノ様が面会をお求めです」
「帰らせて」
はっきりとした拒絶は、べルティーナから発せられた言葉であった。




