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ウェラテヌス隆盛記  作者: 浅羽 信幸
第三十六章
1463/1589

月の女神に抱かれて

「グライオ様が自害されました」


 ぱちり、と火鉢の中身が爆ぜる。


 毛先も凍えるような冷たさだ。その中でマシディリは二度瞬きをし、二度ともレグラーレを瞳に映す。変化は、伝っている汗が動いていることぐらい。手の中に未だあるのは、ルカッチャーノがエリポスの宗教会議への参加権を手に入れるためにドーリスに近づいたことを記している手紙のまま。カナロイアからの招待状に応える必要は無いと言う妹の文章も、変わらずに残っている。



「まさか」


 震えそうになる声を、押さえつけるように。

 マシディリは、再びユリアンナからの報告に目を落とした。


「理由がありません」

 文字は、一つも入ってこない。


「奴隷が報告に来ております。エスピラ様の御墓の前で自害された、とも」


「父上の」


 即ち、ウェラテヌスの霊廟だ。

 しかも、他の父祖とは場所が違う。今は、父と母しか眠っていない場所だ。


「すぐに向かいます」

 手紙を置き、紫のペリースを手に取った。


 顔を見せただけで事態の深刻さを分かってくれたのか、べルティーナは何も言わずにラエテル以外の子供達を下げてくれる。そのラエテルには一言二言託し、愛妻と口づけを交わしてから外へ。


 冬だ。

 あまり好きな季節では無い。


 さくりさくりと冷えている道を踏みしめる。人通りの少なさは、何故か。分かるのは何となく地面が硬いような気がしていること。


 足の指から冷たさが上がってくるようだ。呼吸の冷たさは、思考の沸騰を防いでいるのか、それとも凍らせ、固めてしまっているのか。


 宗教会議には、ティツィアーノの参加が決まっている。主な推薦者はアフロポリネイオだ。ドーリスは同じく武門として名をはせられるタルキウスと組む可能性も高いだろう。マシディリはカナロイアから招待状が届いており、ジャンドゥールも添状を付けている。


 参加に至る格では上か。

 それとも、行けば同格か。


 いや、その前に、本当にグライオが死亡していた場合、どうすれば良いのか。


 フラシは? ハフモニは? 第一軍団は誰が統御する? スィーパスは積極的にならないか? プラントゥムの西端は維持できるのか?


 多くの思考が、結論など出ずにぐるぐると回る。

 生存と言う一縷の望みをかけて。


 ただし、それは叶わない。


 既に集まっていた野次馬をかき分け、静かな霊廟に入れば、既にスペランツァが場所を固めていた。


 声は、交わさない。

 見て、頷いて、弟が避けた道を堂々と行くのみ。


 そうして見えた景色は、霊廟に敷き詰められた干し草と、父母の墓の前に壁としてしっかりと敷かれた希少な絨毯。


 そして、首を掻き切ったと思われるグライオ・ベロルスの体だった。


「ぐらいお様」

 足は正座のまま、最後まで整った姿勢だったのだろうと思える状態で体が床に達している。

 近づいて、触れれば、外気とそん色ないほどに冷たくなっていた。


(何が。何で。どうして)


 すぐに思いつくのは、マフソレイオの第二王子とソルディアンナの婚姻話だ。

 だが、違うだろう。そのような男では無いし、グライオも自身の子だと明かすことはしないはずである。


「こちらが、傍に置いてありました」


 スペランツァが横に立つ。差し出されたのは、パピルス紙。此処に、と、ファニーチェが短剣を置く。グライオのすぐ横だ。


 パピルス紙の表題は、マシディリ様へ、との短い文言。


『マシディリ様に落ち度は何一つございません。私は、ただエスピラ様を失った時に生きる意味を失っていただけなのです。今まで生き永らえてきたのは、エスピラ様の願った通りになるよう、最後に力を尽くしていただけ。今命を絶つのは、エスピラ様の願いをマシディリ様ならば叶えられると信じられたからこそ。


 エスピラ様とマシディリ様は違います。


 私は、エスピラ様にしか仕えることは出来ません。


 されど、マシディリ様の才覚も知っております。もう十年もすればアレッシアに輝かしい栄光をもたらす最高の光となるでしょう。私はそう確信しました。勝負は時の運。勝つも負けるも絶対はありません。されど、その後の対応がどうなのかは今後に影響します。


 マシディリ様は、はっきりとエリポスの王族と対等であると示されました。敗戦後と考えれば、対等以上、相手から顔色を窺ってくる存在であるとも言えます。


 全て、報われました。

 エスピラ様が勝ち取った権利を、マシディリ様は正しく昇華されております。


 私は安心して行けます。私の生涯の主はエスピラ様だけであり、マシディリ様に仕えることは出来ません。ですが、マシディリ様のことも好ましく思っております。

 それに、最後の最後までエスピラ様に尽くして逝けるのであればこれ以上の幸いはありません。


 エスピラ様の願いを乱す最大の要因が私自身であれば、それを取り除くのみ。


 故に、これは、私のわがままでありエスピラ様への忠心でしかありえないのです。


 許しは求めません。

 私が許しを請うのはエスピラ様のみ。マシディリ様ではございません。


 ただ、マシディリ様の今後を祈り、以後は微力ながら加護をしてまいる所存です。

 それでは、これにて』



 二度、読み返す。

 言葉が短い男の、珍しく長い文面だ。


「何と?」

 スペランツァが静かに聞いてくる。


「私と父上は違うと。それから、エリポス側から顔色を窺ってくる存在になってくれとも言われちゃったね」


 三度目を読み返しながら、思う。


 父とは違う。

 そんなこと、当然のことだ。分かっていたはずだ。分かっていたはずのことであるが、最近の行動はどうだったのか。真似た結果、何が起こったのか。果たしてグライオが必要以上にマシディリの所為では無いと言ったのは、気遣ったのか、あるいは、もっと別の。


(私は、何を)


 手紙を懐に仕舞う。


 言葉少なく、丁重に弔うようにとレグラーレとピラストロに言い、イーシグニスにはベロルスの娘を妻にしているスペンレセを呼び寄せるようにとも告げた。


 マシディリ自身は、数々の言葉が飛び交うアレッシアを足早に行く。

 マシディリが近づけば声が小さくなる街を、何に目を向けることも無く、どこか一枚隔てたような喧騒を耳に、ウェラテヌス邸へ。


「ちちうえー!」

 足に抱き着いてくるヘリアンテの頭を無言で撫で、遅れてやってきたリクレスの頭も何も言わずに撫でる。


「つめたーい」

 きゃっきゃきゃっきゃと、二人がマシディリの手を押し付け合う。


(そうですか)

 冷える中を歩けば、手足も冷えよう。霊廟に行って確認して帰って。それほどの時間温めなければ、触れられた子供達にとってみればとても冷たいはずだ。


 そんなことに、今さらながら思い至る。


 ソルディアンナも出迎えに来てくれたが、途中で止まった。

 べルティーナが、最後尾に現れる。


 愛妻が真面目な顔から、にゅうわな懐の広い笑みに。

「今日はちょっと良いおやつにするからもう少し動いていらっしゃい」


 しゃがみ、リクレスとヘリアンテの背をべルティーナが軽く押す。はーい、と子供達も素直に走り出した。走らないの、とソルディアンナが弟妹を追っていく。


子供達の背を見ながら、べルティーナがしとやかな所作で膝を伸ばす。


「で、あなたはどうしたいのかしら?」


 愛妻の笑みが、より大人びたものに変わった。懐の広さは変わらない。大海のような慈母そのものだ。


 引き寄せられるようにふらりふらりと近づき、倒れるように抱きしめる。

 相変わらずあたたかくて、やさしくて、やわらかい、マシディリにとって一番癒される場所だ。


「いつもすみません」

「良いのよ。私はマシディリさんの妻だもの。寝ない男の妻になったつもりは無いわ。マシディリさんが一人で抱える必要はないとは思わなくて?」


 愛妻の声は、今日も芯の通った声であった。

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