皇弟(こうてい)
「その程度で良ければ」
イェステスがエスピラの出した条件を承諾した。
軍団の指揮権と領土割譲も含めた決定権などと言う一蹴されてもおかしくは無いふざけた提案に比べればかなり現実的ではあるのだが、他国の者が他国の使者になるのはアレッシアではそうそうない話である。もちろん、マフソレイオでもそうであろう。
「印はある程度人のいる場で受け取った方がよろしいでしょうか。マフソレイオに不利益をもたらさないとは約束いたしますが、秘密裏に動きすぎてマルハイマナに対しての先制攻撃を訴える者が増えればお互いに不幸な結末が待っているでしょう?」
提案の形ではあるが決定事項としての要望である。
「その場合はこちらからも数人配置することになりますが、問題ありませんか?」
ふとエスピラは迷う。
この発言の真意はどこにあるのだろうか、と。
監視しますよ、とこちらを警戒するような、動きを制限するような意図なのか。それともエスピラを気遣っての言葉なのか。
(どちらでも良いか)
肯定の返事以外は残されていないのだから。
「構いませんよ。できれば、マフソレイオとマルハイマナの講和はアレッシアとしても望む展開であり、交渉にはアレッシア人として挑むこと。交渉をスムーズに進めるためだけに印が必要であることを理解してくれている方なら文句が無いのですが」
「それは、極力心掛けますが」
言い淀みながらイェステスが目を逃がした。泳いではいない。
あまり交渉ごとに慣れていないのか、それとも本当にエスピラに気を許しているのか。
それならそれで、あまり攻め込むのも得策では無いだろう。
「そうですね。採れる手段としましてはこのまま印を集団の前で渡し、マフソレイオの高官もついてくるように、下手すれば交渉に干渉するような者を付けるのが一つ。
高官を無視し、いないようなモノに扱って私に全てを託すのもまた一つ。
婚姻の儀に於いてズィミナソフィア様に祝福を渡す一人として私を指名し、そのままお祝いを持ってきてもらうと言う形にして奴隷と僅かな見張りをつけてマルハイマナに送り出すのも策の一つでしょう。
恐らく、この辺りが現実的な考えかと思いますが」
もちろん、他にも方法はある。
「ズィミナソフィアは、いえ、ズィミナソフィアならばエスピラ様が祝福を渡す者になったと知れば大層喜ぶでしょう」
しかしながら、イェステスはエスピラが最も喜ぶ選択をしたようである。
エスピラが得る利益はアフロポリネイオの大神官に自身の存在をアピールしつつマフソレイオからの干渉を排除すること。しかも、マフソレイオからの後ろ盾を貰いながら、だ。
「妻を喜ばせるのも夫の仕事ですから」
こく、り、とやや動作に間を持ちながらイェステスが頷いた。
「アレッシアに於いては家と家の関係。イェステス様のような神の末裔としては格が釣り合うのは同じ神の末裔であり、神の血が流れている者だけだからこその婚姻。奴隷などのように結婚に恋愛感情を持つ必要はありません。むしろ、それに振り回されるのであれば邪魔とすら言えるでしょう。
ですが、情だけは互いに持たないといけません。無視や嫌がることをするのはもっての他。互いに協力しつつ尊重し、情を持って家を為す。それが結婚です」
そこまで言って、エスピラは完全にイェステスに体の正面を向けた。
「御覚悟は?」
「できております」
「惚れた腫れたで結婚をどうこうしようとするのは責任ある立場では無い者の行い。その道を誤れば貴族であれば家が、イェステス様なら国が傾きます。その自覚はありますね?」
「はい」
イェステスが力強く頷いた。
「ならば何も言うことはありません。お二人の結婚生活に幸多からんことを。運命の女神と処女神の手助けの大からんことをお祈りしております」
エスピラは左手の親指と人差し指・中指を軽く合わせるようにして右胸の前に置いた。
頭を下げる。
イェステスも頭を下げたような気配が感じ取れた。
二人して顔が上がる。
「なんだか、こうしているとエスピラ様がズィミナソフィアの父みたいですね」
えへへ、と言ったような幼い笑みをイェステスが浮かべた。
エスピラもすぐさま笑みを作る。ノータイムで。ほぼ反射的に。
「お望みならば、イェステス様の母親のような役回りもズィミナソフィア様に対して行ってきましょうか?」
「見てみたい気もしますが、遠慮しておきます」
でも、兄弟は皆エスピラ様になついておりますから。似たようなものですかね。と、イェステスが続けた。
エスピラは穏やかな笑みに変えてから、小さく頭を下げる。
「ありがたきお言葉です。されど、その発言だけはお気を付けを。皆様はまごうこと無きマフソレイオの王族。その父君と母君には神の血が流れております。父のように慕ってくれるのであれば嬉しいことこの上ないのですがどちらかと言えば教育係のようなものと思っていただければ、と思います」
イェステスが迷うように少し首を傾けた。
目も上に行き、そしてエスピラの方へと戻ってくる。
「ズィミナソフィアを始めとする兄弟にとっては父のような感じかも知れませんが、私にとってはどちらかと言うと『兄上』のようなものでしょうか。
幼い頃は遊んでくださったり、剣の稽古をつけて下さったり。
それに、エスピラ様の年齢で父ならば私などはエスピラ様がズィミナソフィアの年齢よりも幼い時に、ズィミナソフィアは私ほどの年齢の時に生まれていることになってしまいますからね」
そう言って、イェステスが笑った。
「兄としての役目が上手く務められるかは分かりませんが、それでも慕ってくれるのであれば」
「役目など考えないでください。余が勝手に慕うだけですから。それに、エスピラ様には妹君がおられましたよね?」
「はい。ですが、妹には何も。奴隷を用意して教育環境を整えただけですから。かと言って私が兄上との思い出が何かあるわけでは無く、セルクラウスの義兄上達とも特に何か思い出があるわけではありませんので」
カルド島やその後の裁判など、いびつな関係としての思い出なら腐るほどあるのだが。
「何も気負わずに、これまで通りでお願いいたします。それでもと言うのなら、通訳のような役目を時たま担っていただければ、と。ズィミナソフィアはマフソレイオの言葉も扱えますが、私はエリポス語しか話せませんので」
イェステスが後頭部をかきながら言った。
翻訳できる人は王族も揃えているが、どうしても直接指示を出せない時点で上手く伝わっているのか、曲げられていないのかの確認ができない。そして、その信頼関係が未だに築けていないと言うことなのだろうか。
(そうだとしたら大問題だがな)
イェステスは王になって五年。
母であり五年間は妻であったズィミナソフィア三世が実権を握っていたとはいえ、中々にのんびりしている、危機感のない王だと言わざるを得ないだろう。
「その方が私が操りやすいでしょう?」
と言うズィミナソフィア四世の言葉が聞こえたような気がして。
エクラートンでの会談、および奴隷とは言えあれだけ自由に扱えていたことからもしかすると既に下の者へ及ぼす力はズィミナソフィア四世の方が上かも知れないな、とエスピラは思った。
「それと、エスピラ様」
神妙な調子でイェステスが切り出した。
「あまり公の場ではできない相談がございますので、母上のように夜呼んでもよろしいでしょうか?」
今もある意味閉じられた空間ではあるが、それでも側仕えの者も居るし、護衛も居る。
そのような者達にも聞かせられない話、と言うこととなると話題は随分と絞られた。
エスピラは大きく踏み出し、イェステスに近づく。
「構いませんよ。ですが、表向きにできる別の話題も準備していくことをお勧めします。他国の人が積極的にかかわって良い気分の者はいないでしょうから」
そう耳元で言ってから、エスピラは離れた。
こくり、と頷き合い、形式通りの挨拶をする。
それから、ズィミナソフィア四世とアフロポリネイオの大神官との打ち合わせにエスピラが祝福を渡す一人として参加する旨を組み込むために参加すると言って部屋を退出したのだった。




