理論よりも感情を
『唐突な提案により、戸惑いが何よりも勝っています』
『最高神祇官として、軽率な発言をするわけにも行きません』
『何よりも、アフロポリネイオの交渉役はデオクシア様。頭を飛び越える形での交渉は無用な混乱の下になりますので、避けたいと考えています』
『願わくは、直接会っての交渉を』
要約すればこれだけで済む内容を、マシディリはエリポスの流儀に従ってパピルス紙三枚に書き連ね、大神官長への返事とする。
エスピラを神に。
それは、きっと、エスピラが最も望んでいない展開だと息子は知っている。
さりとて、即座に動かなければマシディリから望んだ条件だと思われてしまうだろう。
エスピラが神となって損をする者は誰か。
それは、表向きにはマフソレイオであり、彼らにとってはマフソレイオの王権にウェラテヌスの者が介在できる理由を与えることになってしまう。
エリポスも、野蛮人と見下しているアレッシア人に神を見出すことを快く思わない者で溢れるはずだ。
アレッシアの政敵達も、数多の非難をぶつけてくるのは確実である。
「こんな時ばかり呼んでしまい、申し訳ありません」
マシディリは、アビィティロに笑み無く瞬きも無く謝った。
いつも交渉の経過を共有しているアグニッシモとフィロラードは、今日はいない。
「このような議題だからこそ呼んでいただき嬉しく思っております」
アビィティロが膝をゆるく曲げ、返してきた。
レグラーレは空気になるように存在感を消している。
「率直に聞きます。アビィティロは、父上が神になることについてどう思われますか?」
「マシディリ様が度々考えておられた、代替わりの度に力を見せるのか、に対する一つの回答にはなるかと思います。大きな権威、それも、神ともなれば、マシディリ様の代で乱を出し切らせ、ラエテル様やセアデラ様への継承の折にはおおよそ逆風は吹かなくなるかと。
ですが、それを加味してもなおマシディリ様が渋られているのなら、それだけの理由があるはず。
私は、マシディリ様のその意見こそを尊重したいと思っております。第三軍団も、そのように考えていると御信じください」
「良いのですか?」
「吹く風も強ければ」
アビィティロの回答に迷いはない。
回答に逡巡の隙間なく、声の張りに水滴一つのたわみもないのだ。
「父上の神格化を防ぐための手立てを三つ考えました。
一つは、アレッシア人の反発を呼び起こすこと。特に父上を政敵とする方々は放っておいても大きな反発をするでしょう。これを利用することにはなりますが、当然危険性も非常に高くなります。
もう一つは、人が神になるとはそんなに簡単なことなのか、と各地に、それこそ半島外にも範囲を広げて問いかけることです。ただ、これは私の意図したところとは違った伝わり方をする可能性が高く、父上の神格化を後押しする可能性も同様に高いと考えています。
最後の一つが、純粋に嫌だと言うこと。神と言う枠に当てはめ、父上の実像をあやふやにしたくはない。父上が人として悩み、人として苦しみ、そして栄光を苦汁を掴んだその生き様こそを正しく残したいのだと、感情に訴えることです」
策も何も無い。
ある種当然だ。
クイリッタは、父の神格化に賛成の立場を示している。これを機にエリポス諸国に広まるのなら大歓迎だろう。
脅しの意味も込めてドーリスに向かわせたティツィアーノも、賛意を示してはいた。クイリッタと同じ意見であることだけが嫌なようである。
パラティゾも、手の一つとして持っておいた方が良いと、マフソレイオからの外遊帰りの時であるが言っていた。
マシディリの意思を推進するだけの強力な味方は、さほど集え無さそうなのである。
東方遠征時に四人の副官と言われた人物の中で、マシディリと同じ意見でいてくれるのはアビィティロだけなのだ。
「三つ目しか手は無いかと思います。思考であれば幾らでも反論を繰り出せますが、感情を覆すのは至難の業。何よりも父を想う子の気持ちを否定することは余程の覚悟が必要になります。この件に関してまで、そのような覚悟を持って臨む政敵は多くはありません。
マシディリ様が最も懸念されているであろうマフソレイオの面子についても、潰すことにはならないかと思われます。否定の根拠としては薄いため、しばらくは停滞と言う形にはなりますが、イェステス陛下に関して言えば理屈より感情による拒絶反応の方が重く捉えてくださるでしょう。
クイリッタ様達に関しましても、マシディリ様の説得に向かわぬうちに何かをする可能性は低いかと思います」
「感情ですか」
左手人差し指から薬指の第二関節以降。その背を唇に当てながら、マシディリは呟いた。
感情です、とアビィティロが繰り返す。
「この件に関しましては、あまり策を弄さずにいた方がマシディリ様の考えを上手く伝えることができるかと」
ではそうしましょう、とマシディリはすぐに元老院に使者を送った。他の者に見られることを覚悟でサジェッツァにも愚痴のような手紙を送る。それはそれとして、元老院として纏まった反対意見を持ってこないことへの感謝も告げた。
もちろん、議員個人や数人単位での連名で非難する文言や介入を試みるたくらみはやってきている。同時に、対ドーリス政策に於いては、マシディリがある程度ドーリスの旨味を譲ったからでもあるが、元老院はマシディリの求めに応じて動いてくれていた。
即ち、『元老院からの』ドーリスの王族や有力貴族、議会への立ち位置の追及と、『コクウィウムの弟達を再度起用した』立ち位置の追及。硬軟混ぜ合わせた外交だ。
ドーリス国王クスイア二世が連れて来た三千は、ドーリスの最精鋭。しかも、ドーリスは各地に傭兵を送り込んでいる。その状況下で、講和交渉中に攻撃を仕掛けた第四軍団が一度見捨てられた形になった使者を迎えているのをどう思うか。
二度はしないと思うのか。
またあると身構えるのか。
いずれにせよ、モニコースに働きかけを依頼するのは目に見えている。
「マフソレイオがアフロポリネイオに送ると言った物資の量が分かりました」
この報告を持ってきたのは、アミクス。
明らかに諜報に向いた能力、例えば変装や侵入、追跡などに優れた人物は使っていない一団の方からもたらされたのである。
だが、信用を得る、ぽろりと口を滑らせることに於いては相手の油断を誘える彼らの方が良いとも言えるだろう。
「デオクシア様がスティティモニスに行くたびに豪華な食事を摂っている、と言う妬みも流れておりました」
この報告は、レグラーレ。
他にもドーリス正規兵とドーリス人傭兵の間で格差問題が起きている話や、アフロポリネイオ内でドーリス人を疎む声も上がり始めているらしい。
仕方の無いことだ。
軍団とは大喰らい。しかも、クスイア二世はドーリス軍の威信のために訓練や行軍を行っている。筋肉に満ち満ちた男達を、しっかりと動かしているのだ。そして動いた分は、当然食べる。人よりも多く食べる。沼地と化したアフロポリネイオに食糧を運び込むのは至難の業なのに、自分達の土地にならないことも知っているからか、大食いを敢行してしまったのだ。
ただし、アフロポリネイオに食事が入ってこないのは、沼地と言う物理的要因だけでは無い。
エリポスと言う痩せた土地に穀物を送り込んでいた場所をマシディリが抑えているからだ。
即ち、東方遠征時にアレッシア直轄地となったボホロス南部。エスピラのエリポス懲罰戦争で得たイペロス・タラッティア。エリポス遠征で作り上げたビュザノンテン。
これらの航路を握り、食を制限する。
もう一つのマフソレイオは、マシディリに協力する姿勢を見せ、食糧供給を渋った。
当然のことながら、エリポス全体が食糧供給を減らされた状態となったのである。
こうなれば、どの国もまずはアフロポリネイオの支援では無い。まずは自国。何より自分の食べる物。
その状態を待ってマフソレイオがアフロポリネイオに食糧支援を持ちかけたのは、見事な話だ。カナロイアがリントヘノス島を占拠したのも、此処に一枚噛むためであり、アレッシアによる長期的な兵糧攻めにあわないため。あるいは、エリポス全体で優位に立つためか。
(やはり、ドーリス、ですね)
交渉の要。最も与しやすい国。
そこをどう動かすかが、マシディリ主導の講和の鍵となる。




