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ウェラテヌス隆盛記  作者: 浅羽 信幸
第三十五章
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泥濘より出でて Ⅰ

「マシディリ様」

 普段聞く声よりも半音低い声は、マシディリを対象としている割にはマシディリを通り過ぎていくような声量である。


「あびぃてぃろ」

 ほぼ零れ落ちるように、唇をほとんど動かさずにマシディリは口にしていた。

 対面にいるアビィティロは、天幕を大きく開け、沈む夕陽に半身を照らされている。


 しかし、天幕が落ち、夕陽が弱まると同時にアビィティロの表情も良く分からなくなった。視線が強いとは思わなくなったのは、光の加減か、それとも事実か。


 マシディリは、すぐに表情を引き締める。

 逃げるようにアビィティロから視線を切り、兵の一人の手を取った。最も矢傷の多い兵だ。兜は割れ、頭には大きな瘤があり、裂けて血も流れていた跡がある。それでも、彼が所属していた部隊は彼以外に死者はいない。文字通り、身を挺して守った勇者だ。


 このような者が多い軍団は、強い。

 このような者を簡単に失う軍団は、頭が愚者であるとしか言いようがない。


「緊急ですか?」


 声は、いつも通りだ。

 マシディリは自身の音をそう判断し、兵の傷を軽く撫で、髪を整えてやった。


「後でも良いのなら、もう少しお待ちください」


 鎧の傷も盾の傷も戦士の勲章だ。

 そこには手を付けず、それでもマシディリが思う範囲で装いを整え、死化粧に備えさせる。尤も、戦場であるためにそこまで大規模なモノは行えないが、せめてもの償いだ。


 黙々と。

 一人一人に。


 頭の中で目の前の物言わぬ戦友の戦功もまとめていく。後は、今日の戦いを加えるだけとなるように。

 口を堅く結びながら、一人一人と顔を合わせるようにして、格好良く。



「申し訳ございませんでした」

 謝罪の声は、入ってきた時とは全く違う声だ。


 声が低いのは同じ。それでも、今回はマシディリの手前で落ちていくような声。気力も、違う。


「私が、殺したようなモノです」

 アビィティロが続ける。

 マシディリは、手を止めずに首を横に振った。


「私が欲を張った結果です。アフロポリネイオを落とせると、愚かにも思ってしまいました」


「私も、欲張りました。その上で私は今の今まで私自身の欲を認識していなかったのです。罪深いのは、私の方です」


 膝を折ったアビィティロが、さらに頭を下げたように思えた。

 現実は、謝罪の声を発した時と体勢を変えてはいない。でも、マシディリにはさらに低くなったように見えたのである。


「では、罰として入ってきた時に言おうと思っていた言葉を隠さずにお教えください」


 手を止める。

 まだ、アビィティロに体を向けることは出来ない。アビィティロも、顔は上げなかった。


 無言の間も、手の動きは再開させない。


 静かでは無いが、風の流れは無かった。血と汗の臭いは変わらず、嗅覚は潰れている。誰も風呂に入ることも水を浴びることも叶わず、汚れは付着しっぱなしだ。これでも寝ようと思えば眠れてしまい、眠りに落ちれないのであればそれは精神的な理由であるのだから、恐ろしいものである。


 ぐ、と。


 マシディリは兵の陰に置いた右手の親指で、右の中指を強く押した。


 目を軽く閉じ、数舜長く閉じた後に目を開ける。

 小さく息を吸い、止め、アビィティロに視線をやった。アビィティロも、丁度目を上げたようである。


 次に息を吸ったのは、アビィティロ。

 音も動きも無くとも、マシディリにもそれが分かった。



「咎めるつもりでおりました」


 まずはぽつりと。


「何を目的としていたのかと。アフロポリネイオ自体を攻めるのであれば、他の手順を踏んでいたはずでは無いのかと。マシディリ様の欲が招いた結果であり、以後、上に立つ者としてはやってはならないことであると諫めるつもりでした。


 今も、今日のマシディリ様の行動はやってはならないことであったと思っております。


 ですが、それよりも責められるのは私でしょう。


 諫めるべき時に諫めず、安全圏から物を言うだけ。これならば誰でもできます。

 私の役目は、マシディリ様が道を外した時にすぐにお伝えすることであり、マシディリ様を支えること。現に、ケラサーノの戦いの後、私は危険だと思えば何をおいてもマシディリ様の下に駆け付け、諫めておりました。責務を放棄していたのは私です。


 私も、どこかでアフロポリネイオをこのまま落とせるのでは無いか、鉄槌を下すのが正しいのでは無いかと思っていたのです。それだけではありません。第二列も攻撃を受けていることを言い訳にし、全ての責をあろうことか守るべきマシディリ様に押し付けるのを、心の奥底では良しとしていたのです。そうでなければ、今回の行動に説明がつきません。


 マシディリ様の信頼を裏切ったのです。


 謝っても、到底許されるべきことではありません。少なくとも、エスピラ様の四足と呼ばれる方々は、エスピラ様にそのようなことはされなかったでしょう。


 どのような罰でも、お受けいたします。

 何卒、容赦なき裁断をくださいませ」



(父上の、四足)

 アルモニア、グライオ、ソルプレーサ、シニストラ。


 確かに、しないだろう。

 でも、彼らにも非はある。わざわざ挙げることではないが、彼らも人間だ。彼らよりアビィティロが優れている部分も、マシディリは知っている。


「謝ることはありません。一番上に立っているのは、私ですから。責任は私が持つべきことです」


「いえ。私も、エスピラ様を長く見てきており、他の方々も見てきております。

 人から信頼され、人を大きくする方は、決して自省している者をさらに責めるような真似はせず、寄り添いながら次を目指そうとする方でした。

 私がしようとしたことは、マシディリ様を見ず、ただ己の怒りをぶつけ、責任を転嫁する最悪の行い。これが許されて良いはずがありません」


「では、一つだけ」

 重く、言う。

 アビィティロの喉仏が上下した。表情から見える覚悟は、微塵も揺らぎが無い。


「は」

 アビィティロが本当に体をもう一つ下げる。


「私の傍に相応しいのはグライオ様でもアルモニア様でもソルプレーサでもシニストラ様でもありません。アビィティロです。同じ人物など、求めてはいません。私はアビィティロだからこそ、傍に置き、誰よりも信頼しているのです。


 私が最も頼りにしているのは貴方を置いて他にいない。


 そのことを忘れず、これからも私を支えるように願います。仮にアビィティロも同様の罪を抱えようとも、私に罪あれば必ず言うように。アビィティロ自身の身も焦がす諫言が、今後もアビィティロへの罰となります」


 少し、父上を真似ました、とマシディリは舌を出した。

 ソルプレーサ様ですか、とアビィティロが言う。最高神祇官に成れたのもアビィティロのおかげです、とマシディリは返した。第三軍団を任せられたのも、アビィティロだから、と。


 それ以上の言葉は要らない。

 マシディリは、淡々と遺体を整え続けた。

 アビィティロは頭を下げてずっと待っている。


 全てが終わるころには、陣内に点在していた兵達も、多くが自身の寝所となる天幕に入っていっていた。見張りの兵が外に立ち、いつも以上に松明をしっかりと焚いて見張りを強化している。


「マシディリ様」

 芯の通った真っ直ぐな声はルカンダニエのモノ。

 後ろには、一人の兵士が付いてきている。


「今日は申し訳ございませんでした」

 謝罪の声は常通り。行動は勢いよく。曲げる確度は直角だ。

 体が戻るのも、三秒と経たない内に。


「こちらこそ。ルカンダニエを始めとする第一列の一人一人が踏ん張ってくれたおかげで、大崩壊は免れることができました。感謝しております」


 ありがとうございます、ともう一度、ルカンダニエがきびきびと頭を下げた。

 顔は、既に次を見据えている。


 良いことだ。非常に。


 反省は必要だが、例え大敗したとしても「帰って食って寝る」と言い切り、実行するぐらいの割り切りもまた、軍団には必要なのだから。


「ですが、単に私の力だけではありません。敵の失点にも助けられてのことになります」


 そう言って、ルカンダニエが兵から受け取ったのは一つの盾。四本の矢、スコルピオが射出できる大きさの矢が刺さっている、盾であった。


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