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ウェラテヌス隆盛記  作者: 浅羽 信幸
第三十五章
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アフロポリネイオ泥濘戦 Ⅱ

 被害は甚大だ。少なくとも、精神的にはそう感じてしまう。しかも、第三列も後方からの攻撃を受けて身動きが取れなくなってしまった。第二列からの伝令も来ない。喊声は、いたるところから聞こえ始めている。


 文字通り全てが戦場かもしれない。


 現れる敵兵が少なくとも、出てくればそこに居るのは確実。仮にどの戦場でもそうなのであれば、全ての部隊が周囲の警戒で手いっぱいになってしまうのは仕方がない。


 この状況下でもマシディリ死亡論が流れなかったのは、優れた軍団の証だ。流石は苦楽を共にしてきた軍団なだけはある。マシディリも自ら光を打ち上げてはいるが、死亡論が出て、軍団が崩壊してもおかしくは無い展開だったのだ。


 さりとて、事態が好転する訳でも無い。



(完全に、動かされてしまいました)


 全て敵の術中。

 立て札。砦。増水。いや、もっと前から? ラドイストも? 浸水させたのは、その実、レステンシアを研究していたからか。


(全て、後!)


 と言っても、出来ることなどほとんど無い。


 マシディリは素早く第三列を鎮めると、ウルティムスに投石のやってきた方への攻撃指示を飛ばした。それからグロブスを本陣の防衛に回し、自らは砦から離れ、第三列を展開して盾とする。


 そこまですれば、聴覚通り、第二列も散発的な攻撃を受けていることが視覚でも分かった。敵の決死隊だろうか。ただ、それは俯瞰してみることができているため数が少ないと予想できるだけであり、現場に居ればどれほど湧いてくるか分からないモノである。


 もっと悲惨なのは、第一列。


 悲しいが、罠に嵌っている第一列にしてあげられることはほとんど無い。


 せめて砦に残されていた対人兵器などの距離の計算を行い、死肉に群がる蠅のような連中を追い払うような攻撃を行うだけ。援軍は、送る先に泥濘に掴まれ沈められていくのみ。


 決死の声は、本当に、遠い。

 頑張っている兵の声に、敵が使うスコルピオの音が混ざる。


 絶望的な展開だ。

 この状況下で、仮に、敵が全軍を山から下ろせば。

 アレッシア軍は崩壊してしまう。


(本当に?)


 踏みとどまり、考える。


 山からの敵は降りてきていない。確かに、目の前の沼地の攻略やトーハ族の動向、各地のエリポス国家と意識は散っていたが、決して近場も疎かにして居た訳では無いのだ。


 つまるところ、山に居たのも少数。

 雇った傭兵にアフロポリネイオの全兵力を外に出してしまえば、例え一本道であっても本拠地アフロポリネイオが陥落する。


 そのようなことを、アフロポリネイオが取れるだろうか。


 即ち、物見台と言う分かりやすいところに、緋色のペリースと言う最も見えやすい色をしたマシディリが来た瞬間に狙っただけ。その瞬間を生み出すために多大な労力を強いて、そして失敗に終わった。


 下ってきて、マシディリを脅かすだけの兵力は、無い。

 これだけ広く襲っているのなら、予備兵力が出てくる可能性は著しく低いはずだ。



「好機を逸したのは、敵です」



 まずは、その場で郎と声を発する。


 足元どころか頬も泥に塗れ、人によっては髪まで黒く塗れている者達が整然と並んだままマシディリに視線を向けて来た。

 彼らの視線に応えるように、マシディリも背筋を伸ばして胸を張る。


「私を台に立たせるところまで行きながら、最後の最後で失敗しました。彼らは最大の好機を逸したのです。


 此処、アフロポリネイオで。

 最もエリポスの神々の恩寵があるべき地で。


 宗教的に最も発言力のある国で、その国を守るべき者達が、好機を逸しました。


 これぞ運命の女神フォチューナ神のご加護。神々は、我らについている。我らを見守っている。勝利すべきは我らだと仰せだ。


 さあ、声を上げてください。

 神々が付いているのはどちらですか? 神に従っているのはどちらですか? 勝つのは、どこですか?


 勝つのは、アレッシアだ!」


「おう!」

 そんな声が、一番大きかっただろうか。


 他にも「アレッシアに勝利を!」と言った言語から、言葉にならないただの雄叫びまで、様々な声が上がる。


「砦の物をなんでも投げ入れ、泥濘を少しでも埋めてください。味方の退却路となるよう、しっかりとした道を」


 叫び、指示を広げていく。

 その間、マシディリは最も赤い布を引っ張り出し、棒に括り付け、アルビタに持ってもらった。


 自身の位置を伝える行動であり、あからさまな挑発である。

 敵に健在を示しながら、兵一人一人に声をかけ、青ざめている者には肩を叩いて体を揺らした。


 そうして、まずは第三列、次に第二列に活力と熱量を伝播させていく。それはやがて、遠くで戦う第一列にも届いた。


 これが、第三軍団の強さだ。

 簡単に崩れない粘り強さに、戦友を信じる心。作戦の意図を察し、実行する頭がある。


「相手は私。私のような行動。ならば、音で脅し、沼地と言う不安定な場で不安を増幅させているだけ。落ち着き、対処すれば必ず乗り越えられるのです!」


 これまでの作戦の理解もあれば、置き換えも出来る。


 音と光で脅す時、自軍はどのような状況であったか。


 決して、優位に進め続けている訳では無い。むしろ優位になったのは作戦が決まってから。作戦が決まらない相手に、同じ作戦を続けるのは愚策。


「敵はアレッシア軍ではありません。アレッシア軍と違い、連携も個別の考えも、まだまだ浅いのです。複雑な作戦など、出来る訳がありません!」


 吼える。

 とは言え、泥濘に嵌る第一列が敵戦列を突破できないのは変わらない。


 だからこそ、道を作り出した。出来る限り第一列が歩いて行った道は使わない。先までは渡れるような場所でも、踏み続けることでただの泥に変わる可能性も高いのだ。


 やがて、第二列が泥に足を着けた。列は乱れていない。投げ込んだ物が上手いこと足場となっている。

 同じ時に、山中からもオーラが打ち上がった。ウルティムスからの順調に行っている合図だ。


「さあ、進め!」


 第三列から、吼えるだけ。

 オーラは打ち上げない。前進もさせない。ただし、その士気だけはしっかりと前方に伝える。


 アフロポリネイオ泥濘戦。

 自戒の意味も込めてマシディリが名付けたこの戦いは、アレッシア軍の士気の高さをまざまざと見せつけた戦いとなった。



『敗北したくせに』非常に意気軒昂であった、と。



 そう、敗北だ。誰がどう見ても負け。一気にマシディリまで討とうとした企みが失敗し、第一列の壊滅どころか被害甚大にもできなかったのは敵の失敗だが、逆に言えばそこしか失敗が無い。


 マシディリは負けたのである。


 一時的に占拠した砦も、敵の更なる罠を警戒して適度に破壊してから退去せざるを得なかった。失った物資は多く、手に入れたモノは無い。はじき返されたのは事実で、十八人が戦死した。けがを負った者はもっといる。何より、泥に落ちて予想以上に体力を奪われた者は多すぎるのだ。


 此の損害のほとんどが、砦を奪ったあとで。


 昼までは顔も明るく足も上がっていた集団が、今は至る所で座り込んでいる。警戒に当たれる兵が外にいるのも相まって、疲れの色が濃厚に漂っていた。やがてやってくる夜が、先に訪れたかのような暗さである。尻から座り込み、背は丸く、大きく開いた足の間に体を折り曲げるかのように。膝に肘をついて、座っている者も居るのだ。


 その中で最も白い光の多い陣、最も口数が少なく、動作も緩慢な第一列の者達の間を、マシディリは歩く。自身も泥汚れが付き、足の間がぐちょぐちょとなり、太ももは乾いて固まりつつある状態で、綺麗な布を一人一人に手渡していった。


 恨みの声は、言うほど無い。

 恐縮する者が多いのも事実であり、むしろ謝罪してくる者達もいる。


 それが、逆に、辛かった。


(私の失敗です)


 そう、口にしたい。でもすることは兵の心を折る可能性がある。


 この戦いを、隠ぺいしてしまいたい。でも、隠ぺいすることは父の記録にも不都合なことを書いていないとの疑いを持たせることになってしまう可能性がある。


 逃げ出してしまいたい。残念ながら、その思いだけはマシディリには無かった。


(エリポス諸都市は、勢いづくでしょうね)


 エリポスにとって都合の良い時代は、アレッシアを完全に見下し続けていた時代だ。妥協案は、イフェメラやディーリーと言ったエリポスに最も融和的だった者達がアレッシアの中心にいた時。


 その後にやってきたエスピラを、「自身の栄誉のために弟子を排除した」、と陰口を叩いている者がいるのは知っている。彼らにとって、マシディリの敗北は絶好機であろう。


(まあ、そこは、良いとして)


 何も良くないが、何よりも良く無いのは、十八人の戦死者。


 もっと多くの者を失った戦いもある。戦地から離れた者達に『軽微』とまとめられてしまう程度の数だ。殺した敵は、桁が何個違えば良いのやら。


 それでもマシディリは、唇を噛まずにはいられなかった。


 回収できた者だけを集めた天幕で、一人一人に最期の言葉をかけ、鎧も整える。回収できなかった者も、指輪か短剣だけは回収してくれたのはせめてもの救いだ。


 出来ることなら、今も冷たい沼地で横たわる戦友を回収してやりたい。

 だが、そこは敵の勢力圏。

 手の届くところに眠っているのに、手を伸ばせないのだ。朽ち行く友を見ているだけなのは、心が腐り落ちるよりもなお苦しい。


「申し訳ございません」


 目を閉じ、小さく謝る。

 静かな空間には、十分すぎるほどの声量だ。


 そして、それ以上は、言葉にならない。歯を痛いほどに噛み合わせ、拳を震えるほど固く握りしめ、乾き切らない足で地面に立ち続けるだけ。


 そんなマシディリの耳に、大股で歩くような足音が近づいてきた。

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