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ウェラテヌス隆盛記  作者: 浅羽 信幸
第三十五章
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狐豹 Ⅱ

「酷い言いようだね」

 トリンクイタが肩を揺らす。


 口元の皺も深くおり、目じりも下がっていた。表情だけなら、完璧とも言える自嘲気味な苦笑だ。楽しんでいるようにすら見えてくる。


「だが、苦慮しているのは事実だろう? 


 ドーリスも、傭兵をエリポス各国に配ることを報告してくれなかったそうじゃないか。この前アビィティロ君達と遭遇して即座に帰還したのは、あくまでもラドイストと言う雇い先が潰れたから。そうなった以上、ドーリスとアレッシアの戦闘になりかねないと言う判断に過ぎないよ。


 彼らは、他国の責任に出来るのならドーリス人を平気でアレッシアにぶつけてくる。第二次フラシ戦争の時とは情勢が違っても、同じように考えている訳さ。


 そんなドーリスを、アレッシア人はどう見るかな。

 マシディリ君はどうする? 庇うかい? それとも、ドーリスを見捨てるかい?


 どう動いても、君を攻撃する格好の材料じゃないか」



「御心配なく」

 目を閉じ、深い声で告げる。


 トリンクイタの笑う気配は変わらない。


「私はね、マシディリ君。可愛い甥を見捨てるほど薄情な伯父では無いつもりだよ。

 なに、簡単な話さ。

 対立候補者、タイリー・セルクラウスの政治的正統を争う存在として考えなければ良い。あくまでも伯父と甥だ。未来ある甥を応援するのは、ごく自然なことだろう?」


 声が、少しばかり近くなった。

 目を開ければ、確かに肘を机に置き、やや前に出ているトリンクイタが目に入る。


「ええ。ごく自然だと思います」


 マシディリも、やわらかく口角を持ち上げた。

 トリンクイタの顔も笑顔のまま変わらない。ただし、瞬きはまだ無かった。指も折り畳まれている。


(警戒は変わらず)

 この観察にも、さほど意味は無いか。


「私に敵対したい者が、貴方を担ぎ上げるのも同じように自然なことではありませんか?」


 この言葉にも、トリンクイタは微塵も体を動かさなかった。指一つ、傾き一つ、髪の毛の一本が揺れるような僅かな動きすらない。


「エスピラ君も私のことを警戒していたのは知っているが、それでもエスピラ君は私を重用していたよ。私としてはこれを忠心だと主張したいが、マシディリ君に疑われているのなら仕方ない。

 でもね、マシディリ君。それならば、エスピラ君ですら満足に振ることのできなかった旗を、エスピラ君に遠く及ばない者達が振れると思っているのかい?」


 警戒されていたことを知っているも何も、父とトリンクイタの最後の会話は、父による釘をさす行為だとはマシディリも知っている。



「マルテレス様もアレッシアに対して叛意があった訳ではありません。ディーリー様に関しましては、叛意どころか全く準備も整っていなかったのに首謀者の一人にされてしまいました。イフェメラ様と仲が良かったと言うだけで。


 トリンクイタ様のご意思など関係ありません。

 マルテレス様やディーリー様を、他の者が上手く振れていたとも思えません。


 そして、トリンクイタ様。貴方に関しては、貴方を疑う者が多すぎます。


 貴方を旗印にするのは、私の敵かつ貴方の味方だけではありません。私の味方かつ貴方の敵も、貴方を警戒するあまり首謀者に仕立て上げる可能性もあるのです」



 マシディリが個人的にも信用する五人は、全員がトリンクイタが敵であるとの認識で一致していた。アビィティロら第三軍団も、線引きをすれば敵に最も近い位置に居ると認識している。


 ベネシーカによるべルティーナへの積極的な接触は、妻同士の交流を深めることにより、マシディリによるセルクラウスへの介入を強める目的もあるのだろう。


 その先にある目標は、当然、トリンクイタの影響力の低下だ。


「その二人と違い、私には戦功が無いとも。従う軍団も無い。だが、政治力は二人よりあると思うのだけどね」


 トリンクイタの表情は変わらない。声音も常通り。


 だが、言葉に感情が出た。


 マルテレスはマシディリの師匠。ディーリーはマシディリのことを嫌っていたが、互いに実力は認めていた関係。

 その二人の最後を、当人の実力不足であり自分なら陥らなかったとは、普通なら避けるべき言葉のはずだ。


 例え、それに怒らないとしても。選択することに意味は無い。



『保身』以外には。



「意思など関係ないと言っているでしょう?」

 父を意識し、やや高圧的に。顎も少し上げる。


「これは、伯父上であるからこそ申し上げるのですが、既に各種祭事の準備は出来ています。後は認可など、公に事を動かすだけ。もちろん全ての神殿に対してではありませんが、多くの神殿は認識していますよ。


 此処で私以外の候補者を最高神祇官にしてしまえば、戦場に赴く私よりも長く祭事が滞ることになるでしょう。ただでさえ元老院が先延ばしにしているのに。


 私の当選は確実です。

 伯父上の力無くとも、私の勝ちですよ。


 私ほど精通している人はいませんから」



 こつこつ、とマシディリは自身の傍にある茶器を爪で叩いた。アレッシアにいるが、今は爪が少しだけ伸びている。


「私を過小評価しすぎてはいないか?」


 トリンクイタが自身の前にあった茶をどけた。

 これで、マシディリとトリンクイタの間に遮る物は机以外にない。


「伯父上こそ。

 私は、建国五門が一つ、最も誇り高いウェラテヌスの当主ですよ。


 伯父として、可愛い甥を? 御冗談も休み休み申してください。貴方自身が論を展開したのです。建国五門の支持を下地に、他の支持が積み重なっている。だからこそ、タルキウスの話を隠したいのでは無いか、と。


 そして、伯父と甥と言う関係は実に絶妙なモノです。当主であるルカッチャーノ様の発言なく、その父であるスーペル様の発言がタルキウスの方針と思われるように、続柄的に上にある者は非常に厄介なことに変わりはありません。


 各人の発言の真意を知り、エリポスの情報に精通し、今後の戦略を組み立てられている。その上で私を思っていると言う献身的な発言をされるのであれば、やるべきことは私の応援ではありません。やるべきは、父上の後継者としての私の立場の確立」



 懐に手を入れる。椅子には深く腰掛けたまま。マシディリがすぐに立ち上がるのは無理だとしっかりと見せることに注意しつつ、トリンクイタからは目を離さない。


「即ち、トリンクイタ様に必要なのは完全なる敗北か生の終焉。私に負けたと言う確たる事実です」


 マシディリが懐から取り出したのは、短剣だ。

 鞘にも何の紋様も無い、まっさらな短剣である。


 その短剣を、机の中央まで滑らせた。


「貴方の隠居で済ませるのは、クロッチェ様による交渉の成果。私にとっては懸念の残る、最大限を一歩越えた譲歩です」


 笑みを消し、昏く見据えた。

 両手の肘を着き、顔の前で指を組む。その下に口を隠した。


「クロッチェ様は発した情報の意図を話すことはありませんでしたよ。まあ、弟妹まで連れて行かれた時は、いささか、やられたと思いましたが、ね」


 最後に、一言。

 冷たく付け加える。


 トリンクイタも人の親だ。

 一人や二人、家門として犠牲は仕方ないと割り切れても、それがどこまで続くかは分からない。


 トリンクイタの目が、まっさらな短剣に落ちた。

 笑みはもう無い。今にも下唇を噛みそうな表情で、鼻筋に力を込めている。


「これは、エスピラ君の描いた戯曲かな」


 どう答えるべきか。

 その迷いは、一瞬と保たなかった。


「私と言う答え以外がやってくる可能性があるとでも思っているのですか?」


 父と答えれば、今後が舐められる。

 クイリッタやスペランツァと答えれば、弟達が恨まれる。


 ならば、答えは自然と決まるモノだ。



「ははは!」



 トリンクイタが大きく笑いだす。

 口も大きく開け、歯どころか歯肉もはっきりと見えるように。それでいて、目は一切笑っていない。


「何が伯父だからだ。神殿で祭事の準備を進めているなど、私が他の者に漏らしたところで、なら私は何故見過ごし続けたと言われるのが落ちでは無いか。


 良く。良く分かった。


 エスピラ君がいればこその私の権力であった訳か。そうか。そうか。エスピラ君が私を信じていたからこそ、私に自由があっただけ。エスピラ君との約束など、共にエスピラ君と戦った者達の間では不都合な真実」


 がし、とトリンクイタが机ごと千切るように短剣を掴んだ。


 目の前まで持っていき、手が震え始めている。口が様々に形を変えた。こめかみには、血管が浮かび始める。汗も浮かんだ。真っ赤で怖い顔。目も、大きくなり。


 対して、マシディリは何の感情も無い目をトリンクイタに向け続けた。


「くそ」


 トリンクイタが短剣を投げ捨て、椅子に落ちる。

 顔は下に。汗も、一気に噴き出している。ぽと、ぽと、ぽと、と、床に斑点を作り、赤い顔をたららと流れていく。


 そんなトリンクイタを無視するように、マシディリは毅然と立ち上がった。

 茶は最初の一口だけ。チーズには手も付けていない。

 その状態で、紫のペリースを音を鳴らして整えた。


 最後に、トリンクイタを見下ろす。


「クロッチェ様は、それでも貴方の助命を嘆願していましたよ」


 そう告げ、マシディリはペリースを翻した。

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