推戴するのは誰か
緋色のペリースに手を伸ばし、止める。
このペリースはドーリスから贈られた物だ。そのドーリスは、今回の傭兵派遣について何も言ってきていない。いや、それ自体は構わないとも割り切れよう。国家としては、言う義務がある訳では無いのだ。
問題なのは、その情報を事前にこちらに伝えなかった情報網の人々。
(いえ)
手を下ろす。
やはり、飲み込むことは出来ない。
そう思うと、マシディリは紫のペリースを広げた。正装の上に羽織り、身だしなみを整える。
それから、チアーラから送られてきた弁明の手紙を手に取った。
一度読んだ内容だ。夫では把握できるはずも無かったのだと言う手紙。妹なだけだって、マシディリが個人として怒る場所も家門の当主として怒りを示さねばならない場所も分かっている。
特に、傭兵部隊が戦わずして帰ったことに触れつつも言い訳に加えていないことが見事だ。
「フィチリタ」
「なーにー」
ひょこり、と妹が声を投げて来た。
立ち直り切った訳では無いが、泣き続ける訳にも行かない。そんな苦境が、フィチリタをいつも通りの姿勢に戻している。
「チアーラに代筆を頼むよ」
手紙を持って、居間にいる妹の前に置く。
兄上は何も怒っていません、って書くね、とフィチリタが明るく言った。目の前に座るセアデラは、父のエリポス遠征に関する伝記からちらりと目だけを上げている。
「怒っても仕方がないからね。舐められた分をどうするかは、迷いどころだけれど」
マシディリは、そんなセアデラに対して片目を閉じてみせた。
「兄上。王家と雖も婚姻関係にある一門です」
「この場合、怒りを見せたウェラテヌスに対して助けを求めに来る人は増えるかい? それとも減るかい? と言う話だよ」
「オピーマで天秤を取れる、と言うことですか?」
「まあ、その算段もあるね」
最後の言葉は互いに声量を少し落として。
聞こえているのだからそんなことしなくても良いのに、とフィチリタが手紙から顔を上げず、やけに明るい声で言った。
乳母に視線をやり、それからマシディリは居間を離れる。
逃げる訳じゃないよ、と言う兄妹の声が聞こえ、ラエテルとソルディアンナが玄関までやってきてくれた。二人の勉強を見張っていた家庭教師が、リクレスとヘリアンテも連れてくる。
「朝から偉いね。父も、鼻が高いよ」
そう言って上の二人を褒め、下の二人には良い子にしているんだよ、と撫でる。
そうして、外へ。
塀の向こうに人だかりができている気配がした。
ラエテルも気が付いたのか、弟妹を残してマシディリの傍にやってくる。腰には、この前までマシディリが保有していた短剣を備えていた。
「悪い話では無いさ」
ラエテルにだけ聞こえる声で言い、外にある門を開ける。
金属音と衣擦れの音が鳴った。その音には、反応しない。後ろ手でラエテルにもそうするように伝えるだけ。
そして、マシディリの前に膝を着いたのはボダートとスキエンティだ。
門の前の人だかりの気配は、多くが野次馬。きっと有力家門の奴隷なども混ざっているのだろう。
「第四軍団に何かありましたか?」
そんな訳は無いと知っている。
流石に、自身の軍団を把握できないほどの弱体化はしていないのだ。それに、二人の現れた理由も、マシディリは予想がついていた。
「いえ。違います」
「軍団のことではございません」
口々に、二人が一音ずつはっきりと大きな声で言い切った。
小さな足音が門の方へと近づいてくるのが聞こえてくる。ソルディアンナだろう。リクレスとヘリアンテもいるかもしれない。
ただ、マシディリの鋭敏な耳を以てしても判別を難しくするほどのざわめきが、人ごみからやってきたのだ。
「マシディリ様に最高神祇官になっていただきたいと言う者達の署名を持ってまいりました」
やや硬い声は、先ほどよりも声量の落ちたモノ。
それでも、周囲の反応は十分だ。目を動かさないようにして覗っただけでも、ほとんどの者が左右に顔をやり、動かしていない一部は瞬きが少なくなっている。
「エスピラ様に見出された旧伝令部隊出身者、全員の名簿になります。この場にいない者も冬営地で書き、送ってまいりました。他にも、多くの軍団兵がマシディリ様が最高神祇官になることを望んでおります」
「我らに投票権はございません。されど、マシディリ様の後押しをすることは出来ます。どうか、我らに強いアレッシアを。エスピラ様が目指された栄光を、後退させることなく。交代を後退ではなく前進とするために」
二人の言葉が止まる。
一拍。
「御出馬を」
二人の声が重なった。
同時にほぼ一つの足音と化した集団が、人ごみをかき分けて前に出る。半円状となり、膝を着いた状態で壁となった。
「図ったね」
くすり、とマシディリは笑う。
マンティンディが好きそうな演出である。いや、アビィティロも案外乗るか。
「アルモニア様と今後の軍事行動について相談するとお聞きしております。そのアルモニア様は、誰よりも対話を許してくださる方」
「我ら、応の返事をいただくまで、退けるつもりはございません」
この場にいるのは二十三人だ。署名に比べれば、数は多く無い。それでも実際に見れば非常に多く見える。
マシディリを最高神祇官にと推す者は、誰よりも多いのだ、と。印象付けられるのだ。
「最高神祇官は世襲の地位では無いよ。実際、私の耳にも世襲だと言う話は聞こえてくる。それに、『三代に渡る世襲だ』と言う心無い発言までね。もちろん、お爺様を否定する訳ではないけれど、お爺様はセルクラウス。父上も私もウェラテヌスだ」
「能力です。マシディリ様。我らは能力で以てマシディリ様を推しております。それが、世襲だとかいうくだらない理由で、能力評価を覆されることこそ、実力を以て選ぼうとする選挙の意味を形骸化させるとは思われませんか? それとも、マシディリ様は形骸化を迎え入れようと言うおつもりでしょうか」
なるほど。
確かに、そちらの視点はマシディリには無かった。
世襲を理由に断るのも、また、実力主義の否定である。
言われてみればその通りだ。
「エスピラ様に忠誠を誓っているのであって、マシディリ様に忠誠を誓った訳ではない。その言葉は事実、今もこの胸に残っております。それでも、エスピラ様の跡を継ぎ、最高神祇官を勤め上げ、国家を安んじることのできるのはマシディリ様しかおりません」
「アビィティロやマンティンディ、グロブスでは無く私達が訴えに行くと申し出た意味。それを受け入れた皆の考え。そこを理解し、ご返事を」
ふぅむ、とマシディリは口元に手を当てた。
野次馬の注目も、どんどんとマシディリに集まってきている。
応じるのは簡単だ。問題は、誰がマシディリを推戴した様に見えるのか。そして、何を以てマシディリが動かざるを得なくなったと伝わっていくのか。
マシディリは、ボダートとスキエンティに近づくと、署名の板を一枚手に取った。
「君達の気持ちは良く分かった。私としても、無下にしようとは思えないよ」
ざわめきを聞きながら、でも、とマシディリは常通りの声で良く通す。
ざわめきもまた静かになっていった。
「だが、大事な話だ。とても、ね。だからこそ、今の段階では検討を重ねるとだけしか言えないよ。アルモニア様との話も大事だしね。
アレッシアにとって大事なのは、最高神祇官を決めて滞っている祭事を進めることだけではありません。
東に在ってはエリポスによるアレッシア人への被害に対して抗議をしなければならず、西に在っては裏切り者のスィーパスを討ち滅ぼさなければ安泰はありえない。
北の動乱も鎮めなければならず、父上との蜜月関係によって保たれていたマフソレイオとの今後の関係の策定も急務である。
これらの問題は、未だ一つしか解決していません。
素早い解決を図るためにも、アルモニア様と良く打ち合わせる必要があるのです。
退いてくださいますね、ボダート、スキエンティ。
他の皆さんも解散です」
ば、と手を振る。
少しだけ間があったが、頭を下げたまま壁が退散した。
あくまでも命令権保有者はマシディリ。軍団が担ぐのではなく、マシディリが軍団を手足とするのだ。
「本日の訓練が終わったら、もう一度お越しください。再び皆が揃うことには、私も結論を出しましょう」
その言葉の後に、ちらりと野次馬の中にレグラーレが姿を現し、再び消えた。
気づかなかったらしいボダートとスキエンティは了承の返事を出しつつ、膝に乗せた手を硬くしている。
(ひとまずは、ですね)
旧伝令部隊が担ぎ上げるために動き出した。結論は先延ばし。マシディリの行き先は、インフィアネ邸。
そこまでの情報で、誰がどこまでどう動くのか。
此処に、最高神祇官選挙も風雲急を告げ始めたのだった。




