フシン
たまに、とは口の中で転がして。
エスピラが粘土板を手に神殿内に戻る。
「モテる男ってのも大変だな」
楽しそうな声と共に、マルテレスもエスピラの後をついてきた。
「ああ。そうだな」
「お?」
マルテレスが驚いたような声を上げる。
「自身の魅力で人気の奴がどうかは分からないが、私は少なからずウェラテヌスの血を欲してと言うのも関係しているからな。要するに、種をばらまいて欲しいわけだ」
「種!」
神殿を揺らすような大声で笑い始めたマルテレスにエスピラは鋭い眼光を向けた。
悪い悪い、と手だけで言いながら、マルテレスが口を閉じて肩を揺らし続ける。
エスピラは、ため息を吐いて再び歩き出した。
「ウェラテヌスは建国以来の名門だ。誰が何と言おうと、どうこじつけようと本流は私であることに変わりはない。つまりだ、名門の血を濃い所で手に入れるまたとない好機と言うわけさ」
「つまりあれか。ウェラテヌスの名を冠してはいるが自分と血の繋がりのある息子なり孫なりを執政官に着けて、何度も自分が権限を握りやすくなるって言う」
マルテレスの方からは笑い過ぎて零れた涙を拭っているような衣擦れも同時にする。
「それだけでは無いがな」
エスピラがまだ若い以上、高い権限を有する役職には就けない。
そこで、自分がウェラテヌスのためにと言う名目で役職についてウェラテヌスに利する一方、自分の利益もむさぼる、なんて真似もできなくはないのだ。
もちろん、高官のほとんどが薄給無給である以上、利益は名声や良く思われない手で稼ぐことであるのだが。
「でもあれだろ。それで言うならさ、エスピラの言語能力も欲しいんじゃないの?」
「どうだろうな。通訳と言うのは、結局のところ私の都合の良いように解釈して捻じ曲げて伝えることもできるからな」
「え? そんなことすんの?」
「それがアレッシアのためになるならするかもな」
例えば記載する単語の意味を誤解させ、誰が主導権を握っているのかを他国に誤解させたり、多国間に戦争の火種を作ったり。
何もアレッシアの喧嘩の売り方は強引な仲裁や条約の身勝手な解釈だけではないのだ。
「エスピラを身内に入れるのって、実は結構な劇物だったりする?」
「毒を以て毒を制す、なんて言うなよ」
「エリポスの格言、だっけか。紫のオーラを想起させることはただでさえ禁句なのに、神殿では余計に不味いんじゃないのか?」
「火を以って火を制す、では、返しとしては弱いだろ?」
部屋の前でマルテレスからも粘土板を受け取り、エスピラだけ中に入る。
年度ごとに並ぶように作り直した粘土板を戻して、鍵をかけて。
この作業を、予備と公開用の残り二部屋でも繰り返す。
「良いなあ。俺もちゃんとした指輪欲しいな」
公開用の部屋は入れるからか、やってみたいと申し出てくれたマルテレスが呟いた。
視線の先は粘土板で、エスピラの指輪の印が押されている場所である。
「お前ならすぐに作ることになるさ」
エスピラはマルテレスと同じ声量で返して、最後の粘土板を置いた。
「俺も来年からは官僚ってか? やっぱ持つべきものは友だなあ」
「まさか。下手にゴリ押せば、お前の敵を作るだけだからな」
「一年以上後はすぐか?」
「すぐだろ」
人生と言うスパンで考えれば。
エスピラは戻りがてら、マルテレスに近づいた。
「アレッシアの軍団の大半は平民だ。指揮官には実力だけでなく、平民からの人気も必要になってくる。人気も実力もあるマルテレスを放っておくほど元老院も見る目は腐っちゃいないだろうさ」
「そうか?」
「そうとも。案外、お前の奥さんもお前の力を買っているからこそ盛んに愛人を勧めてきているのかもな」
「順調な出世のためにもっとコネを作れって?」
エスピラは軽く頷いて歩き出した。
マルテレスもついてくる。
「それもあるが、有力者や認めた者との関係づくりに離婚させて結婚させることもそうある話では無いが珍しい話でもないからな。その時に愛人がたくさんいれば、元妻が加わったとしても何ら不思議はないだろ? 逆にいなければ明らかな特別扱いで折角の関係にひびが入りかねないしな」
「そんな強引な」
「強引でもやるさ。その時は、自分の親族の中でも極力見目麗しいものをあてがうのが習わしになっているくらいにはな。マルテレスに対して、強引に思われても関係を結ぶだけの魅力を皆が感じるようになるのは、私が保証するよ」
自分と違って、と言う言葉をエスピラは喉を絞めて肚に落とした。
足が早まらないように気を付けながら、エスピラは次の目的地へと向かう。
「見た目が佳ければ良いってもんじゃないだろ」
「悪いよりは印象が良いだろう?」
マルテレスが何か言いたげな視線を向けて来たが、エスピラは取り合わない。
マルテレスも何も言う気も無いのか、言いたげな雰囲気が視線から消えていった。
「次は何をやるんだ?」
「施しだな」
と言っても、欲している人が居ればパンを一つ渡すだけ。
やることは、庇護者が被庇護者にやることと変わらないし、マルテレスの家でやっていたほど人は来ない。
「こんな時間に?」
「神殿と言えども人々の協力があってこそだからな。金持ちがやっている時間には被せられないさ」
加えるなら、当てがある人が中々来ない時間だからでもある。
太陽が中天目指してほぼ半ばにある時間。貴族は政務に動き出し、奴隷はそろそろ一息つこうかと言う時間なのだ。来るのはあぶれた奴隷か、奴隷よりも貧しく当てのない平民か、あいさつ回りをすることも無い人たちか。
あるいは。
(貴族の子弟、と言うのもあったな)
と、エスピラは視界の端に指輪をつけた少年を見つけて思った。
尤も、彼らは施しを欲してきているわけでは無いだろうが、お腹が減って寄る者もいないわけでは無い。得てして、そう言う者達の多くは大人になった時に自身がそうであったからと神殿に寄進してくれるのだ。
「これ、夏は最悪だな」
エスピラの耳にマルテレスの呟きが届く。
マルテレスの視線を追えば、間の奥に居座っている炎と両脇の炎を見ているのが分かった。来た人を出迎え、時に祈りを捧げる対象となる炎。信仰の対象を守るために上下と三方を壁で覆われており、熱気は凄まじい。
今の季節は両腕を丸出しにすれば昼間でも日によっては涼しすぎるほどであるためこの熱気はどちらかと言えば歓迎されているが、二か月ほど前ならそうはいかないだろう。
「冬も冬で寒いけどな」
神官はこれ以上何かを羽織ることは出来ないから。
下に身に着けることは出来ても、そこまで温かくはならない。無いよりはマシ、程度である。
「やっぱり夏よりは良いか」
エスピラはパンを幾人かに渡し終えた後、先の言をひっくり返した。後ろでぶらぶらしていたマルテレスが「だろ」と言って近づいてくる。
「やっぱそういうとこも考えて今の時期にエスピラが任命されたのかねえ」
「タイリー様のご配慮はあるかも知れないな」
最高神祇官になっている以上、タイリー・セルクラウスは神官も経験している。
「でもなんだ。あれだな」
「どれだよ」
「神官を経由する人が少ない理由が分かった気がするよ。貴族は歴史ぐらい皆頭に入れているんだろ? それなのに碑文の維持管理とこの環境ならな。最高神祇官を目指さないならルートに入れないのも納得できるわ」
あまり突っ込むと神威に触れる気がしたため、エスピラは開いた口を一度を閉じた。
改めて開いて
「炎は神の御使い、あるいは神そのものだからな」
とだけ、言った。
マルテレスが炎に向いて「すみませんでした」と呟いた後、陽の光を浴びることができる位置に出て眉間に右手人差し指の第二関節を当てている。
多分、自分の信奉している太陽神にも弁明しているのだろう。
「すみません」
と、声変わりしたてのような青年に移りつつある声がした。
声の主は貴族の少年。パンを取りに来なかったから見すぎたかなと思いつつ、エスピラは腰をやや落して対応する。
「あの人、様子がおかしくは無いですか?」
少年の言葉は疑問のような形をとっていたが、声音は断定していた。
なるほど。
少年は、怪しいと言った彫の深い男性をずっと観察していたからここにいたのだろう。
一見すると、ただ迷っているだけにも見えるが、怪しいと思う何かがあるらしい。
「あの人は、ずっとここに?」
「はい」
少年が力強い眼で頷いた。
「わかった。話しかけてみるよ」




