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ウェラテヌス隆盛記  作者: 浅羽 信幸
第三十四章
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曖昧な船団

「そろそろ間に合わなくなるわよ?」

「ん」


 愛妻の声に、曖昧な言葉を返す。

 戸板に加えて絨毯でしっかりと塞いでいる窓から明かりはこぼれてこない。室内の火鉢は、多分、大分灰が溜まっているはずだ。


「寒くない?」

 頬に感じる愛妻の太腿は温かいが、マシディリがずっと頭を置いているからかもしれない。それを証拠に持ち上げた左腕が触れたやわらかな双丘はずっと冷えている。


「そこは冷えやすいものよ」

「そうだね」


 やおらに、起き上がる。

 膝を揃え、肩から布をかけただけの愛妻と目が合った。


 何も言わず腕を引く。抵抗なく胸の中に愛妻を収めると、そのまま寝台に寝そべった。布を引き上げ、再び暖を取る。


「マシディリさん」

「もう少し」

「もう」


 言いつつも、べルティーナの手もマシディリの背に回ってくる。マシディリも、より体温を溶け合わせた。

 やわらかい肌である。それに、足も腹もしっかりと筋肉もあり、良い筋肉は肌に負けずにやわらかさも最高だ。愛妻の努力には、本当に頭が下がる。


「べルティーナ」

 上気した声で呼べば、うるんだ瞳が帰ってきた。

「愛してる」


 今夜、いや、もう朝だ。

 口内に残っているのがどちらのものかなど、もう判別がつかないほどに。


「私にも、言わせてくれないかしら」


 合間に言って来た妻の言葉を、再び封殺して。


 二人が風呂に向かったのは、それから一時間ほど経ってから。

 本音を言えば、マシディリは本日のパン配りを休みたかった。だが、べルティーナはそれを良しとしないだろう。務めは果たすべし、と言うのが妻の背筋だ。


 故に、風呂でもたっぷりと時間をかけ、いつもより長く水を滴らせながらも何とか着替えを終える。


「大丈夫?」


 ペリースまで羽織ったところで、妻の一言。

 白魚のような指が、マシディリの衣服を摘まんでいた。見上げてきている目は、心配一色に塗りつぶされている。


「やっぱり一緒に来てはくれませんか?」

 そう言えば、妻は来てしまうだろう。そして、親友ユリアンナに対して罪悪感を抱くはずだ。


 故に。


「もう少しだけ」


 そう言って、マシディリはべルティーナを強く抱きしめた。

 目を閉じ、髪のなめらかさを知り、ぬくもりをしっかりと体で覚えきる。


 どれくらい、そうしていただろう。


「よしっ」

 気合を入れて離れると、マシディリはしっかりと為政者としての仮面をつけた。


 郎、とペリースを翻し、脱衣所を出る。

 歩幅はやや広く、しっかりと踵から着地し、走ってきたリクレスは抱き上げて。


「ちゃんと良い子にしているんだぞ?」

「うん!」

 と、返事をするリクレスは身を乗り出して母に手を伸ばしている。


 聞いているのかいないのか。苦笑で終えるマシディリに代わり、乳母が一言苦言を。リクレスがマシディリの腕の中に戻ってきた。足元には、ヘリアンテ。


 マシディリは愛息を下ろすと、愛娘を抱き上げた。愛息はすぐにべルティーナの方へ。


「パンは焼き上がり始めております」

 奴隷が言う。


「ありがとうございます」

 返事をしつつ、台所へ。

 そこでは、ラエテルが指示を出していた。


(懐かしいですね)

 父と母も、よく遅れて来ていた。理由は違えど、多分、やっていたことは今朝のマシディリと同じ。


「おはよう、ラエテル」

 ぱあ、と愛息の顔が明るくなる。

「おはようございます!」


 見て見て、と言わんばかりに此処までを報告してくれたラエテルの頭を撫で、次いで日向でぽやぽやしているソルディアンナを揺らして起こす。


 そこまですれば、ヘリアンテも下ろした。


 パン配りの時間だ。

 アグニッシモとフィチリタ、セアデラも出てきて、被庇護者に対応する。


 時間は、かなりかかるモノ。

 しかしながら、嬉しいことでもある。

 これ即ち、被庇護者が離れて行かなかった、と言うことなのだから。


「流石ですね」


 パン配りが終わらぬ内に旅装を整えたクイリッタがやってきた。

 後ろでは荷物と共にクイリッタの義兄であるティベルディードが立っている。


「みんなのおかげだよ」

「兄上の才覚があればこそでしょう」


 いじわるなおじさん、と言う印象があるのか。リクレスとヘリアンテが細い棒を手に持ち、クイリッタに近づいて行った。クイリッタも二人が近寄るまで引き寄せ、十分に近づいてから両手を挙げて威嚇している。


「兄貴も子供増やせば良いのに」


 ぼそりと言ったのはアグニッシモ。未だ独身。

 と言うか、最近は女性経験すら本当にあるのか怪しい存在だ。


「クイリッタはその気になったら一気に百人単位で増えちゃうからね」

「種馬より種馬してますね」

「聞こえているぞ、セアデラ」


 クイリッタがこちらに声を張る。ちくり、とその脇腹をリクレスが突いた。一瞬で二人とも棒から手を離し、駆け出す。


「ちちうえー」

「ちーうぇー」

 助けて、と言わんばかりに加害者二人がマシディリの足にしがみついた。


「先に攻撃したのはどっちだい?」


 二人にやさしいげんこつ一つずつ。

 あっち、と兄妹共にクイリッタを指さしたが、力なく下ろしてマシディリの足から離れた。ごめんなさい、とクイリッタに謝りに行っている。


 クイリッタは二人の頭を掴み、少しだけ力を入れたようだ。ただし、じゃれあいの範疇である。


 被庇護者達も笑っていて、それで終わった話だ。

 終わった話だったはずなのだ。


「あぁぁあああああ!」

 全力で叫んだのはヘリアンテ。


 まだ幼い愛娘は、マシディリの出立の段階で「意地悪なおじさんが父を連れ去ろうとしている」と認識してしまったらしい。


 衣服を濡らしながらも愛娘をなだめ、引きはがして。

 旅装なのだからあなたは近づかない方が良かったのに、と言うような愛妻の冷たい視線を受けつつも、愛娘を愛妻の腕の中に収める。


(連れて行ってもらった方が良かったかな)


 いや、でも三歳と四歳の二人を連れてのカナロイアまでの旅路は怖い。

 そう考え、少々不安を覚えながらもマシディリはウェラテヌス邸を出発した。


 クイリッタから同情と恨み言をもらいながら、港へ。そこから追放中に父が暮らしていた別荘に行き、カルド島に出て、島々を経由しながらマフソレイオへ。


 海賊対策はしている、十五艘の船団だ。一家門が外国に行くには仰々しくもあり、元老院の代表としてもおかしくは無い数。それを、あくまでもお礼と称して連れて来た。


 ただし、マフソレイオ側の出迎えも、両陛下が並び立ち、黄金の兵隊が並ぶモノ。近づけばたおやかな音楽が聞こえてきて、上陸すれば外であるにも関わらず立ち込める香が出迎えてくる。


「お久しぶりです」

 探り合いなどせず、マシディリは即座にマフソレイオの両陛下に声をかけた。

 イェステスも、すぐさま近づいてくる。握手を交わすまでも一瞬だった。


「良くぞ。良くぞ来てくださいました」

 ぐずり、とイェステスが鼻をすすり、目をこする。


「立派な船団で、一瞬兄上が来たのかとも思ってしまって。降りてくれば違うとは分かるのですが、お恥ずかしい限りですが、それでも一瞬兄上だと思ってしまったのです」


「私も、事あるごとに父上を思ってしまいます」


 沈痛な声と共に左手も持ち上げ、イェステスの手を包んだ。イェステスももう片方の手を勢い良く上げて、マシディリの右手を包み込んでくる。


「心中、お察しいたします。親しい者の死と言うのは、いくつになっても慣れるモノではありません。それが親ともなれば」

 再び、涙でイェステスの声が途切れる。


「私は、マシディリ様の味方です。出来ることがあれば何でも言って下さい。寄り添うことぐらいしかできないかも知れませんが、精一杯、支え合っていきたいと願っております」


「ありがとうございます」

 心からの感謝の声と、少し迷うようなそぶり。

 疑問を抱かせ、注意を引き付けてから、マシディリは口を開いた。


「『叔父上』」


 小さく、気恥ずかしさを残した声を演じる。

 イェステスの目と口が丸くなった。頬は少し持ち上がっている。悪くは無い感触だ。


「父上のことを『兄上』と慕ってくださるのであれば、こういうのが適切かとも思いましてあるいは、ズィミナソフィア陛下に合わせ、『兄上』とお呼びした方がよろしいでしょうか」


 此処からは、政治。

 マシディリと両陛下の立場として、あくまでもマシディリが下手に出たと言う証拠にもなる。


「ズィミナソフィア陛下も、『姉上』と呼ぶのは不敬でしょうか?」


 ずるい聞き方だ、とも思う。

 故に、マシディリはすぐに口元に手を当て、頭を横に振った。


「いえ。失礼いたしました。早々に馴れ馴れしすぎたこと、謝罪いたします」

「別に。マフソレイオにいる間ならばその呼び方でも構わないわ」


 ようやく、ズィミナソフィア四世の声を聞く。

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