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ウェラテヌス隆盛記  作者: 浅羽 信幸
第三十四章
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セルクラウスのディアクエリ

「地盤強化を図った結果、地盤沈下を起こすことはいたしませんよ。尤も、まだアレッシアの外には行けていない状況ではありますが」


 苦笑しながら、少しだけ体勢を組み替える。

 その際、クロッチェからもちらりとウーツ鋼の剣が見えるようにした。


「カナロイア国王。マフソレイオの両陛下。ドーリスの王弟夫妻。ジャンドゥールからの追悼使節にメガロバシラス宰相。外には行けていなくとも、影響力は十分と言ったところかしら?」


「父上の影響力に対して集まってくださっただけですよ」


 尤も、ウーツ鋼の剣の領有についてはマシディリからカクラティスに問い合わせた結果だ。


 元は、カクラティスが親友であるエスピラに送った剣。それを息子が引き継ぐのにわざわざ問い合わせは必要ない。


 それでも、マシディリはあえて尋ねた。

 カクラティスとて否定する不利益の方が大きい。


 結果、諸国もエスピラの後継者としてマシディリを見ていると言う風説を作り上げることに成功したのだ。


「出るな、と言うことかしらぁ」


 じわり、と手に汗が滲む。表情は維持を意識して。

 トリンクイタが出馬しないのは、マシディリにとっては失敗だ。


「私の出馬を否定するモノでは無いというだけです」


 クロッチェが笑みのまま固まる。

 瞬きも無い。恐らく、習慣から笑顔になっているだけだ。


「コクウィウムをマシディリくんの推薦人に入れること。推薦への感謝を公式な場で発言すること。ディアクロスを潰さないとの約束を処女神、運命の女神、酒と豊穣の神に誓うこと。これが守られるのなら、私はマシディリくんに着くわ。

 代わりに、こちらも最高神祇官選挙の後は夫とアグリコーラで隠居するのでどうかしら」


 マシディリの表情が一瞬固まる。

 やけにあっさりとした快諾だ。その上、『代わり』と言う話も、トリンクイタの身の安全を保証させる『要求』である。


「選挙の敗戦に伴う当主の交代が条件です。そこまで為すのであれば、トリンクイタ様の身の安全も最大限保証いたしましょう」


「やっぱり、夫の最大の敵はクイリッタくんとスペランツァくんなのね」


「まあ、スペランツァに関しては当主同士の関係ですから、どうしても難しいところは出てきてしまいます」


「そのために自粛の姿勢を取らせているのでしょう?」


 上下関係としては見せない。あくまでも、軍事命令権保有者とその支配下にある者として、当然の対応だ。ただし、話だけを聞くのなら、ウェラテヌスの当主とセルクラウスの当主としての対等関係では無く、兄と弟としてだけでも無く、立場の違いによる上下関係があるように思える。


 ただし、それはスペランツァが必要な人材だから。


 言葉を選ばなければ、フィルノルドは起用しなくても良い人材との評価に落ち着いたからこそ。能力は認めるところだが、立場と年齢が懸念点として能力差をひっくり返している。


「クロッチェ様こそ、やけにあっさりとしていましたね」


「説得は直接的な言葉にしなくても。エスピラくんの言葉を借りるなら、物語を想像させるだけで良い、かしら。伝わらなかったのなら、切り捨てるだけだものね。

 でも、利益は明確な言葉にして確保しなければならないからよ」


 それに、とクロッチェが茶の入った陶器を指でなぞる。


「マシディリくんは、ディアクロスを潰したい訳では無いでしょう?」


「ええ」


「戦場からの手紙は、カリヨちゃんと私以外にも届いているわよねぇ。それこそ、アルグレヒトとニベヌレスにも。そして、フィロラードとヴィルフェットとは戦場で会談をしたのよね。でも、コクウィウムは個別に会話したことは無かったと言っていたわ。


 それが、評価でしょう?


 信任されているはずのクーシフォスくんも、遺言でアレッシアに離反した弟妹に渡すことになっていたはずのモノは全てアレッシアに返している。ヘルニウスも、勢力としては大きな減退を免れないわ。


 私達には、大きな好機でもあった第二次フラシ戦争があった。でも、今後もあるとは限らない。そして、三代にわたって優秀である保証は無いもの。コクウィウムの才覚を思えば、削られてしまえば再び元に戻るのは厳しいでしょうね。


 マシディリくんも、そう思うでしょう?」


「クーシフォス様は自発的に返したまでですよ」

「ヘルニウスはマシディリくんに相談していたものね」

「大筋はラエテルの発案です」

「あら。三代どころか四代に渡って優秀なら、ますますどうしようも無いわ」


 くすくすとした楽し気な笑いが、どんどん哀しいモノへと変わっていく。それに応じて、クロッチェの視線も斜めに上がっていった。


「ディアクロスは、まだ内部にあると思って良いのよね」


「カナロイアとドーリスとも会談をしなければなりませんが、まだ父上の葬式の時の会談一度だけしかできていませんよ」


「カリヨちゃんはエスピラくんに対して愛人を勧めた人間で唯一と言って良いまだ生きている人。私も、父上によってエスピラくんへの愛人として勧められながら、メルアとも良好な関係を築けた唯一の人間。

 似ているわよね?」


「ええ」


 クロッチェが、深く長く息を吐く。

 一気に皺が濃くなったようにも思えた。


「伯母上は、トリンクイタ様を裏切るようなことになりますがよろしいのですか?」


「出馬をしないのなら、ウェラテヌスの意思を無視したとして攻撃対象になる。出馬したのなら、マシディリくんが直接出てきて優劣を決する。


 私まで排除されなかったのは、マシディリくんが当主だから。


 エスピラくんなら、ふふ、エスピラくんでもきっと、交渉の場はあったわね。私がメルアと仲が良かったから、私だけは救うけど、辞退させてウェラテヌスの意を無視したとしてトリンクイタを排したかしら」


(父上)

 亡き父に、今一度感謝を。


 辞退されるのが、マシディリにとっては一番都合の悪い展開だった。

 クロッチェが自らその道を潰してくれたから助かっただけであり、相手に道を潰させたのは亡き父の威光だ。


「クイリッタとスペランツァの意向だけではありませんでした、と伝えておきます」


「夫も、嫌われたものね」


「父上とサジェッツァ様の対立を招いた張本人との見方も広まりつつありますので。その点で言えば、不幸であったとしか言いようがありません」


「知らず知らずの内に敵に回してしまっていたのね。

 エスピラくんとべルティーナちゃんの仲が良くても変な陰口が少なかったと言うのに」


 仲の良い義親子は、偏屈で悪口と噂の好きな者共の餌である。

 しかし、エスピラとべルティーナに対してのそのような行為はウェラテヌスとアスピデアウスの両方を敵に回す行為だ。


 即ち、世間はべルティーナに対してアスピデアウスの娘と言う認識があると言う証拠。


 ぐ、とマシディリの拳が硬くなる。


「ディアクロスは、アスピデアウス一の美女は誰だと考えていますか?」


 クロッチェが、また朗らかな笑みを浮かべた。

 だが、その前に、一瞬顔が引き締まっていたのを見ている。


「一番欲しい答えを言うのであれば、アスピデアウスの人間はリリアント・アスピデアウスだと言っていたわ」


 マシディリは目を細め、それから茶を一気に飲み干した。

 クロッチェも茶に口を付ける。陶器を下ろすのは、同時。


「サジェッツァ様は何と?」


 くすり、とクロッチェが音を漏らす。


「エスピラくんも食ってかかったそうよ。サジェッツァ様が噂を否定しないと、マシディリくんが必ず怒るって。べルティーナをアスピデアウスと思っていない行動だからやめろと言った話らしいわ。

 エスピラくんは、自慢の愛義娘と言って憚らなかったもの」


 良く知っていますね、とは、言わない。


 ただ、明日からは『何故か』父が義父に対して食って掛かったことが噂として広まり始めるだろう。一番初めに口にし始めるのは、年配の婦人方か。


「少し、高くつきますよ」

「いいえー。私は何も主張しないわ」


 クロッチェが僅かばかり前に出てくる。


「これはただの恩。コクウィウムはマシディリくんがどれほどの恩寵をかけてくれたか分からないもの。知る由もないわ。だから、穴埋めよ」


 クロッチェの上体が戻っていく。顔は、笑みのままだ。


「不思議そうな顔ね」

「そうでしょうか?」


 事実、表情を変えた覚えは無い。


「マシディリくんの世界では考えにくいことかもしれないけど、我が子の方を案じるのは普通のことよー。特に、家門の力関係が確定した中では、そうなるのじゃないかしら。

 トリンクイタにも情はあるわ。でも、愛しいのは子供達。トリンクイタが勝手に権力を狙うのは良いけれど、私の子供達では誰も維持できないわ」


 辛辣な評価だ。

 いや、冷静に見えていると言った方が正しいか。冷静に見えているからこそ、歓楽主義に見せながらも間違えずに生きて来た。信頼されていないながらも信用される立ち回りを、夫婦で築けていたのだろう。


(やらねば、なりませんね)


 愛妻に怒られる覚悟を決め、マシディリは騒がしい神殿を静かに見回した。

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