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ウェラテヌス隆盛記  作者: 浅羽 信幸
第三十四章
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指針を定めて

 今のマシディリの立場は、不安定だ。

 尤も、タイリー死後のセルクラウス兄弟よりもよっぽど安定しているが、ほとんどの行動に対して賛意と敵意がやってくるのである。


 本日の予定は、まず、常通りにパン配り。帰還後と言うこともあり、人も多く一人一人の時間も長くなる。その後は、マルテレス・オピーマとオプティマ・ヘルニウスの遺言発表を同日に執り行うのだ。


 無論、それぞれ家門の者が行うが、マシディリは助言役として手伝いもしている。


 これが、父が存命であればヘルニウスのあれこれに関しては人を挟むのが最善だった。しかし、今は下手に挟めないし、挟まないことで多くの批判的な視線もやってくる。貴族からも、平民からも。


 そして、それらを合間に押しやって戦死した兵の遺族に対して手紙を送って兵の勇猛さを讃え、遺族が直接やってくれば応対し、全員に心ばかりの補償金を分配していく。戦場で作ったマシディリ自身の借金の返済は遺言発表後で良いが、今の内から準備をしておかないといけない。


 また、楔のために一手。フィルノルドとスペランツァの行動について元老院に伺いを立てておく。やり玉に挙げたのは二人だが、突いたのはその奥、元老院が行った行為について。マシディリの頭越しに命令を下したことへの非難だ。


 無論、踏み潰されて良しとされても良い。

 それを過去の例として、マシディリも今後に取り入れていくだけだ。


 と、たくさん計画を立てても、マシディリの思い通りに動けるのはマシディリだけ。他の用事も舞い込んでくるし、舞い込んでくることが分かっている予定もいつやってくるかは分からない。


「今、何と?」


 現在が、まさにそうだ。

 手を止め粘土板を下ろしたマシディリに対し、オプティマの三男カリハリアス・ヘルニウスが口を止めた。目が横に逸れる。恐らく、マシディリの隣に座っているべルティーナを見たのだろう。


 なお、長男と次男はオプティマと共にプラントゥムに渡り、次男はピエモン・フースの戦いで戦死した。長男は今もプラントゥムに居ると予想されている。


「サジェッツァ様が、リリアント様を養女にされましたので、反乱者になってしまったヘルニウスの親族の娘を、私の養子にしたい、のですが、やはり、厳しい、でしょうか?」


「リリアントの前に、何かつけていましたよね」

「えっ。アスピデアウス一の美女と名高い、ですか?」

「誰がそんな世迷い事を言っていたのです?」


「いえ。その、誰もが囁いていることで。もしかしたら、サジェッツァ様はその美貌に年甲斐もなくと言う下世話なうわさ話も」

「おかしくありませんか?」


 三方、カリハリアスとべルティーナと同席させてみたラエテルから来る種種の視線を無視し、マシディリは体をやや前に出す。


「アスピデアウス一の美女はべルティーナです。それを差し置いてリリアント・アスピデアウスが? それは、どういう意味でしょうか。

 サジェッツァ様が否定されないのは、もしやべルティーナをアスピデアウスと認めていないと言う話ですか? その上で、ウェラテヌスとの戦いを希望されていると?」


「マシディリさん」

 呆れたような愛妻の声に対しては、ひとまず軽く口を閉じるだけ。

 カリハリアスに対しての発言は、まだ続ける。


「すみません。訂正いたします。

 世界で一番麗しいのは私の妻。べルティーナ・アスピデアウス・ウェテリ以外にあり得ません。そしてべルティーナはアスピデアウスの娘であることも誇りに思っています。


 ええ。ええ。無論、私の狭い心からべルティーナをあまり前に出さなかったことも理解していますし、晩餐会でも常に私の傍に於いていたことも理解しています。他の男に可能性など微塵もございません。


 ただ、それを抜きにしても誰もが分かるはずです。世界で最も佳麗な女性はべルティーナだと。


 それを差し置き、別の者がアスピデアウス一の美女?

 これほどおかしい話を聞くことになるとは思ってもいませんでした」


「やめて」

 愛妻の消え入るような声が、耳に入った。


「母上かわいそう」

 愛息の小さな声も、聞こえてくる。


 流石に二人に言われてしまえば、マシディリもこれ以上続けることは出来なかった。隣に座る愛妻は、耳まで真っ赤にして俯いている。


「ラエテル。それでも一番美しいのは母上だとは思わないかい?」

「自慢の母上だよ!」


 ふんす、とラエテルがカリハリアスに対して胸を張った。

 カリハリアスは、口を閉ざし眉とまつげを近づけた状態で固まっている。


「申し訳ございません。夫は、少々お疲れのようです」

 ぐ、とべルティーナに引っ張られた。


「べルティーナ。まだカリハリアス様との話は終わっていませんよ?」

「あら。今の貴方に必要なのは頭を冷やす時間では無くて?」


 ぐ、ともう一度引っ張られ。


「ラエテル。過去の事例は学んでいるわね?」


 ラエテルが口を閉ざしたまま頷いた。

 素直に従う姿勢である。


「カリハリアス様の話を聞いて、貴方なりの落としどころをまずは提示なさい。ある程度形を作れた頃には父上の頭も冷えているでしょうから、そこでまた話しましょう。

 カリハリアス様。申し訳ありませんが、夫は一度退室いたします。ですが、ラエテルと貴方は六歳差。これからのウェラテヌスとヘルニウスの関係のためにも、ラエテルを頼みます」


 かしこまりました、と目を閉じるカリハリアスを前に、マシディリは席から立たされ、背中を押されて部屋から出された。


 庭でも見ながら休みなさい、と追い払われてしまう。


(庭、ねえ)

 何かがある訳ではない。

 乳母に見守られながら、リクレスがとことこと下を見ながら歩いている。


 少し、寂しい光景だ。

 嫁いでいったレピナがいないのはそうとしても、フィチリタとセアデラはいてもおかしくない。ソルディアンナは、勉強中だろうか。ヘリアンテはお昼寝中らしい。


 リクレスの顔が上がる。

 ひらひら、とマシディリが手を振れば、ひらひらと返してくれた。下に向いた顔がまた戻ってくる。同時に、後ろから元気な足音。


「どーん」

 そして、背中に衝撃がのしかかった。

 小さな手が後ろからマシディリの視界に入ってくる。


「父上、お仕事終わった?」


 押して、引いて、押して、引いて。

 ソルディアンナが動かそうとするたびに、マシディリも合わせて動き好きにさせた。


 庭にいるリクレスが手を止め、とたたと駆け出す。すぐに乳母に捕まり、手足を拭かれ始めた。ぶう、とリクレスが頬を膨らませる。


「終わってないよ」

「……母上に怒られた?」


 聡いなあ、とマシディリは思った。

 きっと、大物になると。


「母上に頭を冷やしてきなさいって言われちゃったよ」

「なるほど。父上、昨日母上が寝てから帰って来たでしょ」


(ちょっと違うな)

 と思いつつも、楽しそうなソルディアンナの言葉が続いてくる。


「母上は父上のこと心配していたんだからね。父上も死んじゃうんじゃないかって。神殿にだって父上の無事を祈りに行っていたもの。母上に心配をかけるだけは駄目よ」


「そうなのかい?」

「ほらー」


 ソルディアンナの頬が膨らんだのが分かった。

 手足を拭きとられたリクレスは、折角綺麗になったのにまた何も埋まっていない畑に戻っていっている。


「これね、母上には内緒なんだけどね、母上、離婚することになるかもしれないって言っていたのよ」


 マシディリの背筋が跳ねる。ソルディアンナは、足をついていたのか転ぶようなことは無かった。


「離婚?」


 聞き返す。

 マシディリは可能性を考えたことはあったが、一度もべルティーナの口からはきいていない。


「うん。でも、どういう形になっても戻ってくるって。ずっとあなた達の母親よって言ってくれたの。兄上は、父上が離婚に応じるはずは無いと思いますって言っていたよ」


 父上に話したのは内緒ね、とソルディアンナが言って離れる。


 リクレスは、再びこちらに戻ってきた。今度は足だけだからか、進路上に布が敷かれる。ぶ、と言って、またリクレスが止まった。

 ただし、今度は自分で足を拭き始めている。


「だから父上もちゃんと母上を労わないと駄目よ」


 頬を膨らませ、ソルディアンナがマシディリの前に座った。

 だめ、と上がってきたリクレスが頬を膨らませる。早い者勝ち、とソルディアンナが勝ち誇った。

 リクレスの小さな手が、ソルディアンナを揺らす。


「争わない。二人ぐらいなら入れるから」

「やだ」

「や」


 二人の声が重なる。

 じゃあと交代しながらを提案しても、ソルディアンナだけじゃなくリクレスにも断られた。


 ぐぬぬと争う姉弟。

 ただ、年上のソルディアンナが完全にリクレスを排除することも無く、リクレスもソルディアンナの顔付近に手を行かないようにしているようでもあり。


(少し、どころの時間では無くなりそうですね)


 愛妻は、しっかりとした休みを取らせようとしてくれたのだと、遅れながらマシディリは理解した。


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