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ウェラテヌス隆盛記  作者: 浅羽 信幸
第三十三章
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願いを受けて運命を Ⅰ

「ファバキュアモスからの急報は今朝もありませんでしたか?」


 紙とて、無限では無い。

 昔は父が母に対して紙の値段を説いたこともあるほどだ。


「はい。今朝もファバキュアモスは襲撃されず、道も壊れた場所はありませんでした」


 故に、マシディリの手元に貯まる報告は全てが何かに記されてくるわけでは無い。直接の報告も多いのだ。


「アグサールとテルマディニの港も無事に稼働中。両ウルブスも今朝届いた報告では問題ありませんでした」


 あるいは、こうして一人が多くの報告をまとめてくれているか。

 マシディリは、いくつもの筆跡が残る薄い板を受け取った。


「イーシグニス」


 読み進めながら、軍団長補佐を呼ぶ。

 少々抜けた声と共に、ひょひょひょとイーシグニスがやってきた。


「陣中の物資に対する兵の反応はどうですか?」

「特に不満とかは聞いておりません。ま、冬営を陣で迎えることに対して小さな文句は聞こえてくるけど、ほとんどが経験の浅い兵ですね」


 不敬、とアルビタが呟いた。

 イーシグニスが「どこが?」と言いながらも即座に尻を抑え、後ろを見る。レグラーレが「何やってんの?」と言う冷めた目をイーシグニスに向けた。おいこら、とイーシグニスも反応する。


 蹴られたいんじゃん、とは、誰もが思った感想だ。


「ティツィアーノ様の陣の完成が少々遅れていますが、人手を割きますか?」

 一連のやり取りへの曖昧な反応を捨て去ったのはスペンレセ。


「各港の防備と道路の補修、物資の割り振り。目の前のマルテレス様の軍団も考えると、割ける人手はありませんよ。それに、ティツィアーノ様の提案による新陣地ですからね。下手に手を差し伸べると、誇りを傷つけることになるかもしれません」


 提案でもありましたか? と思ってスペンレセを見るも、そのようなことは無かったようだ。


 その後も昨日の夕方からにかけて溜まっていた報告を聞き、処理していく。それらが終われば陣中視察だ。


「仮に、マルテレス様の子供達を近日中に受け入れることになった場合、アレッシアに送り届ける準備はできているかい?」


 緋色のペリースを揺らし、堂々とした立ち振る舞いを心がけながらマシディリは聞いた。

 もちろん、唇はほとんど動かさない。


「護衛の選定まで終わっています」

 スペランツァが静かに言う。

 マシディリとは違い、静かな真顔だ。


「負傷兵?」

「向こうが襲ってくれば、それこそ約定違反で士気を上げられますし」


「そうか」

「兄上こそ、父上が雪解けを待ってと言う交渉に失敗すると思っているのですか?」


「父上が交渉しようと思えば失敗はしないと思っているよ。でも、父上はやさしいから。マルテレス様が情に頼み込めば、もしかしたら、なんてね」

「甘いと言うのでは?」


「はは」

 と、マシディリは笑って明言を避けた。


 六万の大軍勢ともなれば、どうしても目の届かない場所も出てくる。歴戦の高官が揃っていたとしても、六個軍団ともなれば四十人以上必要になってくるのだ。


 どうしても、能力に差は出てきてしまう。

 そこの支援と、兵への手回し。敵の調略が入っていないかの確認。


 内偵部隊にも多くの人を割かざるを得ないのである。


「そう言えば、ベネシーカが「夫が手紙をくれない」と言っていたそうだよ」

「父上と兄上が書き過ぎなだけです」


「べルティーナも同じくらい返してきてくれているよ?」

「報告にはほとんど紙は使われていません。使い過ぎでは?」


「だから減らしている、と」

「はい」

「でも、私まで減らすと怪しまれるからねえ。ラエテルやソルディアンナも寂しがるし」


 特に、愛娘は一日中紙を持ち歩いて何を書くかと考えてくれているらしい。いつもよりニコニコとしているからわかりやすいそうだ。

 その愛らしい様子を見たいのに見られないのが、ただただ残念である。


「セルクラウスとの関係は大事にしなければならないのは分かっておりますので、安心してください」

「まあ、義姉に相談している時点で仲の良い証ではあるからね。油断だけはしないようにしてくれれば、それで良いかな」


「では、そう義姉上に伝えておきます」

「スペランツァ」


「いっけね。口が滑った」

 かなりの棒読みで、スペランツァが口を押さえた。


 ため息、一つ。

 同時に、木々を越えない高さで赤い光が打ち上がった。空気が一変する。マシディリも、スペランツァも。黙って合図をきちんと見た。


 伝達されたのは、敵の襲撃。

 数は多数。


 生じるざわめきと、消える雑談。


「交渉中では?」


 スペランツァの呟きは、消えぬざわめきのほとんどを反映したモノになるだろう。


 マシディリも、当然その疑念はある。

 両方の頭が両陣の中央で交渉にあたっているのだ。だと言うのに、軍事行動をとってしまうのか。それが、どういう意味を持っているのか、分からぬ訳では無いだろうに。


「第七軍団、仮設第八軍団、戦闘準備」

(良いのか?)


 ただし、感情を差し置いて命令を下す。

 アルビタから金属音が鳴った。


 いつもなら、此処でオーラを打ち上げれば命令がすぐに伝わっていく。

 だが、マシディリは急いでアルビタの手を掴み、行動を止めた。表情に乏しいアルビタが目を大きくし、明らかに戸惑っている。


「走れ」

 静かな命令は、周囲の者へ。


「オーラを使わず、音も打ち鳴らさずに口頭で伝えてください。急げ!」

 周囲の兵が伝令兵となり、叫びながら走り出す。


「兄上?」

「今、光や音を出せば、こちらの戦闘準備が先に伝わるから」


 スペランツァが鼻筋をひくつかせる。

「こちらが先に仕掛けたことにされる、と」


「騎兵は使うな。奇襲を仕掛ける時と同じように静かにさせるように。スコルピオと投石機はすぐに用意。朝食を食べている者はすぐにかき込め。これからの者は水の使用も許可します。冷やして流し込んでください」


 不便だ、と思いながらも、人を捕まえては命令を飛ばしていく。


 音が一気に増えた。

 叫び声と、金属音と、足音。多くの喧騒の中で、マシディリは必死に頭を働かせる。


「父上からの伝令は?」

「何もありません」


 レグラーレの答えを受け、仮説を一つ。

 敵陣も観察しているはずの父が気づかない程度の兵数。と言うことは、受け止めること自体は可能なはずだ。


「恐れることはありません! 十分にこの陣地で持ちこたえられる数しか来ないのです。私も、皆さんも。想定をしてきたはずです。この日のために訓練を重ねて来たのですから。

 いつも通り。そして、いつも以上の殺意を以て、約定を違えた不義理な輩を討ち取りましょう!」


 人をかき分けながら、叫び、鼓舞する。


 知り合いに対しては、表情と僅かな動作で準備を邪魔しないように意思を伝え。あまりかかわりの無い兵が近くにいれば、肩や背を叩いて激励とする。


 新たな主力にしようとした第七軍団と、今回の戦いで数々の苦境を乗り越えて来たフィルノルド隊が主軸だ。当座の戦闘準備は、すぐに終わる。見事に期待に応え、皆の盾となった者達に信頼を伝えるのもマシディリの役目。


 後方、備えのごたごたは、まだ時間がある。焦るなと伝えつつ、時に指示を飛ばしながら準備を進めさせた。


 馬の嘶きが届く。

 目を向ければ、大地を覆うかの如く騎兵が並んでいた。


(八千か、もっとか)


 最早嘶きを隠さない敵に対して、思う。

 そして、彼らは此処にいる兵数と実兵数が大して変わらない集団であるとも。


「いつも思うのですが」

 スペランツァが静かに続ける。


「こうも並ばれると、数以上にいる気がしてなりません」

「私も、指先が冷えて来たよ」

「それは朝の寒さのせいでは?」


 マシディリは片側の口角を上げ、肩を竦める。

 スペランツァは真顔だ。


「しかし、兵は皆まるで敵が少数であるかのような表情。兄上への絶対的な信頼ですね」

「自分と仲間で積み上げてきた努力に対する自信だよ」


「ただ、戦闘です」

「そうだね」

「兄上は、前方に戻るべきかと」


 眉をしかめ、左に顔を向ける。スペランツァもマシディリと目を合わせて来た。


 真っ直ぐな目だ。

 決意に満ちている。


「神託に、『愛しい炎の前で』とあったのは、話したよね」


 声は小さく。されど熱量は高く。でも、冷たさはそのままに。


「兄上を炎と例えた神託も聞いております。ですが、『愛しい』と言う部分は兄弟全員に当てはまります。そして、容赦なき攻撃を行うアグニッシモを「火のようだ」と評する声も聞きました。紅い姿が炎であると見るのも無理からぬ話です」


 指先の感覚が、消える。

 背筋から芯を抜かれたような気分だ。


「神託とは、明言せずに紐解かなければならないモノがほとんど。条件は、整っているかも知れません」


 マシディリは奥歯を噛みしめながら、指を何とか動かす。


 冷たい。

 本当に冷えている。


 でも、スペランツァの口は止まらない。


「兄貴ではマルテレスのおっさんにもオプティマのおっさんにも勝てません。これだけの挑発行為を行ってアグニッシモに対する策を練っていないとは思えません」


 アグニッシモは、弟妹の中では一番策に掛けやすい性格をしているだろう。

 ただし、圧倒的な力と野性的な感性が何度に拍車をかけている。


 でも、相手には、マルテレスがいる。調子が良ければマルテレスにもマールバラにも勝てるオプティマだっている。


(アグニッシモ)

 敵が排除を狙うなら、一気に、か。


「兄上。

 このような外道の策を使えるのは、どうせイエネーオスあたり。こちらにいるのは良くてイエネーオス。あるいは、フラシ人とかでしょう。私でも十分に事足ります。


 兄上は、前へ。

 無道の策を良しとした大罪人を必ず討ち果たし、神託を覆してきてください」


 それは、願い。

 スペランツァの口から発せられた、他の弟妹の想いも乗せた言葉。半島に残してきた歳の離れた弟妹が常に願ってきたこと。


「分かった」


 緋色のペリースを脱ぎ、スペランツァにかける。

 マシディリが走り出したのと、敵の大軍が大きく嘶いたのはほぼ同時であった。

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