崖下への舞踊
「罠です」
何度目か分からない言葉を、スペランツァが繰り返した。
しゃべるな、と言われたアグニッシモは律義に口を閉じている。ティツィアーノ、ファリチェ、フィルノルドと言った軍団長もマシディリの天幕には揃っていた。
「兄上は兄上の仕事に戻るべきでしょう」
毅然と言い放つ愛弟に対し、マシディリは苦笑を浮かべた。疲労の色は、やや隠し切れていない自覚がある。
「マルテレス様が北上するのなら、こちらも北上のためにファバキュアモスまで抑えるのが私の仕事だよ。そしてファバキュアモスを守るためにも、前線をより遠くに作っておかないと」
「それでしたら、私達に任せれば良いだけ。兄上の姿が必要なら、私がかつらを被り、緋色のペリースを纏います」
「信用問題だよ」
テルマディニまでの後背地計画の修正と遠くなってしまった両ウルブスからの移動計画書をまとめ終え、マシディリは机の前を開けた。
スペランツァが、ちらり、と後ろの者達を見やる。
いつもより半拍空いた間は、演技か素か。
「兄上が三角植民都市群を作ったのは、そもそもプラントゥムを前後する敵に対して一か月以上の籠城をこなしてもらうため。現在はモニコース義兄さんを入れ、防備も整えてあります。
マルテレスが攻め込むのなら、今こそその防御力を存分に発揮してもらう時では?」
スペランツァの言っていることは正しい。
同時に、欠けてもいる。
誰もがそれを、スペランツァ自身も分かっているからこそ、追随する論は飛んでこなかった。
「それは、あくまでもアレッシア軍が半島にいる時の話だよね。此処まで来ているのに何もせずに見続けるのは、それこそアレッシアは見捨てると言う印象を与えかねないよ」
「ですから、兄上を除いた軍団で向かうと言っています」
「あの都市群の建設から初期防衛まで私が関わっていたのに? それこそ不義理じゃない?」
「多くの利を得るならば、兄上は本隊の到着まで待つべきでしょう。幸いなことに、兄貴の軍団はオルニー島に集結しつつあると言います。さほど時間はかからないかと」
マシディリは口を閉じ、静かに息を吐きだした。
軍団として真っ先に到着する本隊は、クイリッタになる。これが意味するのは、積極的な戦闘を控えるようにと言う父の意図だ。
例えば、ジャンパオロであればこれまでの方針通りの攻撃指針を示していただろう。
メクウリオであれば、遠隔からの削りを中心に据え、じわじわと目的地まで追い込もうとしていたかもしれない。
父自体が来たのなら、それは防御陣地群の形成と閉じ込め、冬営の準備か。
「攻略するには冬を跨ぐ可能性が高くなります。冬の間攻撃したとして、弱った軍団で揃ったこちらを攻撃できますか?
それに、マルテレスの立場からすれば兵数の上では有利な状況を保っている今こそ野戦に持ち込み、決戦したいはず。
兄上が到着される前に半島を出た軍団は三万も居ましたが、帰国した者も除外して残る者は五千。同じ割合の損害を与えることができれば、父上の本隊到着後もマルテレスは数的優位を維持できます」
アグニッシモの頬が膨らんだ。
黙っていろと言われてはいるが、がたがたと揺れてはいる。スペランツァがそんな双子の兄に目を向けることは無い。
「アグニッシモも兄上と一緒に下がらせた方が良いでしょう」
「んー!」
口を閉じたまま、ついにアグニッシモが声帯を震わせた。
「倍の敵を追うのです。不覚を取った場合、少数の兵で拠点防衛を出来た方が良い。現状なら、ファバキュアモスとアグサールで防衛線を築くのであれば、どちらかは兄上でもう一方はアグニッシモになるだろ」
スペランツァもようやくアグニッシモに顔を向ける。
「ボホロスとマールバラ」
ただ、一言。
基本的に攻撃的な性格と作戦を担当するアグニッシモであるが、東方遠征ではマールバラに対して防衛戦を行い続けているのだ。しかも、兵力の分散と馴染みの薄い部族との繋がりを維持し続け、ユクルセーダ強襲を決断しますます到着が遅くなる援軍が来るまで持ちこたえている。
(ユクルセーダ)
「男の、不変の欲望」
マシディリの呟きに、はい? とスペランツァが反応した。
「バーキリキ様の最期の言葉の一つです。
自分の力を試したくなる。好きなことを好きなだけやりたい。それらが人間に不変の欲望なのだと。
尤も、バーキリキ様は忠義を貫かれましたが」
強敵だった。
何度も煮え湯を飲まされている。
そして、一貫してバーキリキはマシディリを信じ、マシディリの能力ならばと言う作戦を立て続けていた。
(私ならば)
植民都市群もモニコースも見捨てない。
そのことは、マルテレスもオプティマも分かっている。
あの時は、結果として勝利を手に入れられる愚策を取ったが、今度は、どうか。
(どうしても、最後に最強と戦いたい)
オプティマの、一世一代の我が儘だ。
叶えるのも、上に立つ者の責務かも知れない。
「最強と思われているのなら、逃げるわけにはいきません」
「兄上!」
「私には立ち振る舞いも求められているのです」
がる、とスペランツァが歯を噛みしめて歯肉を露出させた。
当然、話し合いは平行線に終わる。軍団は、北上するマルテレス軍の追尾を続けた。
山でなけなしの食糧を補給し、三角植民都市群へと向かおうとしていると思しき敵軍を。
「距離を詰めます」
四日後。
軍事の場で、マシディリは告げた。当然、批判的な目は向けられる。
「この先、植民都市群に向かうには隘路を通らなければなりません。道は一本。道の周囲は草地ですが、小川も流れており、森が両翼を断っています。大軍が一度に抜けるのは不可能ですし、此処で圧をかけ、相手が屈すればさらなる遠回りを強いることができます」
無論、そこまでして植民都市群に通じるもう一つの道へ行っても、此処よりは広いが隘路がある。時間もかかれば、アレッシア軍が本隊と合流する可能性も高まるのだ。
「その後は?」
質問者はフィルノルド。
「相手が留まれば攻撃を仕掛けません。隘路を越えれば、その最中で攻撃を仕掛けます」
「越え始める時は誘っている時では?」
「見逃せば、見捨てたと思われるでしょう」
「そうなれば、他の部族も離反し、後背地政策を進めている地域の掌握も難しくなりますね」
マシディリに味方してくれたのは、ヴィルフェットだ。
反対派であっても追跡も交戦も否定できないのも、ヴィルフェットの一言に凝縮されている。
「モニコースは私にとって義弟であるとともにドーリスの王族です」
隘路での攻撃。
必要なことだ。特に、アレッシア軍が頼りになると、味方であると、助けてくれると思ってもらうためには。罠であっても。
「そのモニコースがアレッシアのために戦っているのに、アレッシアはモニコースを助けようとしなければドーリスはどう思うでしょうか。父上が当初の予定よりも宿駅の制圧を早く完遂できたにも関わらず、本隊の入りが冬に近くなっているのは、エリポスを睨んでいたからです。此処で動かなければ、そのエリポスがどう動くか分かったモノではありません」
何よりも、チアーラがどう動くか分からなくなってしまうのだ。
暴れるだけなら良い。ウェラテヌスに迷惑がかかるだけなら大丈夫。だが、可愛い妹に万が一があるのは避けたいのだ。
チアーラが一番大事にしているのは一人息子のコウルスであり、コウルスを守るための婚約はきっと解消される。その時にモニコースまでいない、あるいはドーリスとアレッシアの関係が悪くなると、コウルスはどうなるのか。
遊びに行っている時に、命を狙われるならまだ良い方かもしれない。それぐらいの状況になりかねないのでは、と言われても、否定できないのだ。
(やるしかない)
そもそもが、不利な状況での戦い。
ならば少しでも良い状況にして本隊を迎え入れるしか無いのだ。
相手が、今は良くても将来は圧倒的な不利になる選択を取ってくれたのなら、なおさら。




