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ウェラテヌス隆盛記  作者: 浅羽 信幸
第三十三章
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狐と狸が鼬の巣で

「おや。アレッシアを発ったと記憶していたが」

「そうも言っていられない用事ができまして。軍団を置いて戻ってきてしまいました」


 語尾を少々伸ばしたトリンクイタに対し、エスピラははっきりと返した。


 おや、なんてとぼけてはいるが、先に連絡は入れている。むしろ、珍しくもエスピラが待たされる側であった。


 と言っても、エスピラもエスピラでトリンクイタを待たせながら、孫のもちもちの頬を引っ張り遊び続けている。後々セルクラウスを引っ張るようにと曾祖父(タヴォラド)の遺言で定められた子は、今はそんなことを微塵も感じさせない無邪気な笑みで小さな両手を必死に伸ばしていた。


「お義父様。そろそろ」


 トリンクイタに対し座って良いとも言わず孫に構い続けるエスピラに、先に我慢の限界が訪れたのは義娘のベネシーカ。


 尤も、トリンクイタは気にせずにエスピラの前の席に着いている。ちらりとトリンクイタを見た孫が、またエスピラの手に戻った時だけは寂しそうにしていたが、負の変化はそれだけだ。


「じいじとまだ遊びたいよな?」

 孫の両脇に手を入れ、エスピラは膝に立たせるように持ち上げた。


「ととさまはー?」

 顔を近づけたエスピラを気にせず、幼子が顔を動かす。

 祖父がいるなら父も、と思ったのだろうか。


「父上はまだお仕事中ですよ」

「まだ?」


 ぷくぅ、と頬が膨らんだが、ベネシーカが抱っこをすればまた元気になる。

 現金な男の子だ。ちょっとのふてぶてしさは、なるほど、スペランツァによく似ている。


「母上と遊びましょうね」

「あそぶー!」


 孫の元気な返事と、同じほど元気な退室の挨拶。

 それも、乳母に促されなければ忘れていたであろうほどに遊びたさに満ちた声。

 母によってやや強引に祖父から引き離されたことへの悲しみなどは、微塵も無いようだ。


「鬼嫁の素質があるな」

「スペランツァに怒られますよ?」

「スペランツァ君が怒られるからな」

 歯を見せ、トリンクイタが大きく笑った。


 聞こえていますよ、とベネシーカが顔を出せば、トリンクイタもゆるりゅると口を閉じ、背筋を伸ばす。にこり、と再びトリンクイタを脅したベネシーカは、エスピラには「ごゆっくり」と礼に則った挨拶をしてくれた。


「悪い遊びを教える伯父さんと認識されているようですね」

「誰の立場に立つか、じゃないか?」


「スペランツァに悪い遊びを教える、と言うのが主題ですので」

「くわばらくわばら」


 トリンクイタは、変わらず笑みに近い表情を浮かべている。

 エスピラとしても、特段、この件で追及することは無い。


 幼子の反応は正直なのだ。


 トリンクイタがセルクラウス邸から離れつつあるのは、事実だろう。被庇護者の情報網をかいくぐって、と言うことでもなさそうだ。


「オプティマ様が裏切りました」


 机の上に置かれた茶が、孫の退室で再びエスピラの近くに置かれる。

 エスピラは左のペリースを整えてから右手を伸ばし、茶を持ち上げた。


「聞いているよ。と言うか、オプティマ君の属州総督解任の動議は、エスピラ君があらかじめ用意していた物じゃないのかな?」


「ええ。アルモニアに託しておいた動議の一つです」

「やはりね。誰も口にはしなかったが、元老院議員の誰もがエスピラ君の発案だと考えているよ」


「後任の予想も?」

「それこそ、エスピラ君の方が詳しいんじゃないかい?」

「まさか。アレッシアに帰ってきたのは昨日の夜ですよ?」


 静かに帰ってきたつもりだったのだが、フィチリタとセアデラは起きていたのだ。


 思わず、エスピラの頬も緩むと言うものである。同時に、偽装だ。サジェッツァ、スーペル、アダット。元老院の予想では多くの候補者が挙げられており、アルモニアやグライオと言ったエスピラの腹心の名も挙がっていることも知っている。


 あるいは純粋な予想で。

 あるいは能力の評価で。


 あるいは、プラントゥムに貼り付けることでエスピラの影響力を排除するために。


「時に、トリンクイタ様は誰が適任だとお考えですか?」


 音もなく茶を置き、目の前の男を見つめる。

 トリンクイタの膝は開いたまま。瞼も大きく開いている。


「スーペル様が第一候補だと勝手に思っていたよ。エスピラ君も、本来はスーペル様にするつもりだっただろう?」


 何も言わず、エスピラは笑みを深めた。


 シニストラ・アルグレヒト、と言う人選も良いかもしれない。

 それは、目の前の男が冗談と見えるように漏らしていた本音だ。エスピラが、そのことを知らないはずが無い。


 尤も、「第一候補だと勝手に思っていた」と言ったまでであり、誰が適任か、に明確に応えなかったと言えばその通り。問い詰めれば、エスピラが「トリンクイタがシニストラを勧めた」と言う情報を持っていると確信させてしまうことにもなる。


「如何です? トリンクイタ様」


 一拍。

 微笑んでいるような表情を不自然なまでに変えなかったトリンクイタが、口を開くのに要した間だ。


「如何、とは?」

「プラントゥム属州総督です」

 間を潰すようにエスピラは答えた。


「私では役不足でしょう」

「どこが?」

 トリンクイタのゆったりとした時間の作り方を、徹底的に潰す。


「ある程度の権限の与えられる、悠々自適な役職ですよ?」


 お望みではありませんでしたか? と、トリンクイタが口を開く直前にたたみかけた。


「お約束でしたよね、確か。メガロバシラスで私が療養中の折に」

「ディファ・マルティーマでは無茶ぶりをされたよ」

「それよりも楽ですよ。サジリッオもつけますから」

「彼も大変だろう」

「大変とは?」


「彼は、出世欲はあるようだが、あまり働かされるのは好きでは無いだろう?」

「トリンクイタ様に似て?」

「ぅうむ。そうなるのかなあ?」


 トリンクイタが顎に手を当て、とんとん、と指で叩きながら上を見た。


「似ていると」

 詰問に響きを変える。


「能力的な意味でも近しいモノがあると思っていたんだがねえ」

 トリンクイタも、のらり、と。


「ならば問題ありませんね。元老院にて推薦してきます」


 トリンクイタ相手には、去るような真似はしない。

 代わりに、茶を持ってから深く腰掛けなおし、ゆっくりと口にする。


 丁度良い熱さだ。口内でくぐらせても、鼻腔ぬけてくる香りはどこか気品がある。やや主張の強い高級志向な香りなのは、セルクラウスの家風か。


「文と文では、武に弱すぎないかい?」

 トリンクイタも、雑談のような口調で聞いてきた。


「武の必要が?」

「オプティマ君がそうだったじゃないか」


 少しだけ、先ほどよりも返答が早かったか。

 それとも、エスピラの心持でそう聞こえただけか。


「治めるのは武では無かった、と言うだけです」

「さりとて、武も必要だろう? 私は軍団に疎くてねえ。エステンテ君やトリルハン君のような行動をとってしまいかねないが、彼らのような末路は歩みたくないのだよ」


「二人とも生きていますよ」

「まだ、かな?」


「私は慈悲深いのです、トリンクイタ様。裏切り者であっても、彼らの死に対して最大限の意味をつけてあげようとしているのですよ」

「死ぬのは確定か」


「脱走兵であり、情報を流した者であり、アレッシアに刃を向けた者。十分ではありませんか」

「庇うつもりは無いとも」


 トリンクイタが膝を開く。

 それでも、自身の側へと引き寄せられている踵はそのままだ。


「私が負けると想定していますね」

「最悪を想定しておくのは、エスピラ君もしていたと思うけどね」


 トリンクイタが、茶目っ気を見せるように片目を閉じた。

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