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翻訳作業

 エスピラは木の皮に「左顎騎兵隊長」とアレッシア語で書き込んだ。


 それから、目を細める。急かすようなリズムと共にパピルスのペン先が徐々に丸くなっていった。


「エスピラ様」


 グライオの声に反応して、エスピラが顔を上げる。


「グエッラ様が来ております」


 またか、と言う言葉をエスピラは飲み込んだ。

 来ている、と言うのは待っているのではなく入ってくることかもしれないからだ。


 そして事実、グエッラが入ってきた。天幕の外についてきた人を残し、奴隷一人だけを伴って。


 目と目が合う。


「アレッシアでは、プレシーモ様が護民官選挙に不正があったのではないかと疑念の目を向け始めたらしいですね」


 エスピラはパピルスのペンを置きながらグエッラに先手を打った。


「耳が早いな。いや、ウェラテヌスの闘技場でそんなことをされれば真っ先に耳に入るか」

「夫であるバッタリーセ様を亡くし、その教訓を活かしてほしい妻の立場としては停滞している状況が好ましくないのでしょう。いえ。もしかしたら泣きついた方がいたのか。プレシーモ様はご兄弟の頼みを聞く姉君を演じておりましたから」


「演じているとは、手厳しいな」

 グエッラの表情は人の好い笑みに苦笑いを混ぜたモノ。


「泣きついた者はコルドーニ様か? タヴォラド様に頼るわけにはいかないだろうからな」


 グエッラの言葉に、エスピラは肯定も否定も示さなかった。

 もちろん、エスピラが訴えたとも疑っている言葉と知ったうえで無視したのである。


「それは分かりませんが、意図は誰もが分かるところ。永世元老院議員と最も繋がりがあることは変わらず、財力の面でも未だにセルクラウスは健在。されどタイリー様の死によって確実に力は落ちている。

 ならばウェラテヌスの闘技場で開いた故人を偲ぶ闘技大会でまずはウェラテヌスを巻き込む。次にアスピデアウスの味方をすることでアスピデアウスとの繋がりも得る。ニベヌレスへは家門として戦争資金の援助を。タルキウスは数が多いですから。


 そうして、建国五門と結びつくことで貴族としての力を保とうとしているのでは? 


 タイリー様の時と違うこともアピールできるでしょう? 既にイロリウスを始めとする新貴族と言われる者達も今回はプレシーモ様の話に耳を傾けたそうですよ」


「ナレティクスが出ていないな」


 ナレティクスが当主、フィガロット・ナレティクスは現在この軍団に在籍している。


「それは、グエッラ様が一番良くお分かりでは?」

「私が? まさか。私は何もしていないよ」


(白々しい)


「それよりも、イロリウスの名が出るとは。もしやとは思いますが、エスピラ様が何か?」

「それこそ『まさか』ですよ。イフェメラから相談は受けましたが、「乗る船は見極めろ」としか返していませんから」


 事実である。


 イロリウスの当主ペッレグリーノはプラントゥムからの更なる増援を防ぐためにアレッシアを離れており、若輩であるがイフェメラがある程度イロリウスの中で力を持つ形になっている。そのイフェメラが、カルド島などでの縁からエスピラを頼ってきているのだ。


「ほう。それで、それだけの動きが」


「やりすぎ、と言うことですよ。護民官は元々、貴族パトリキ平民プレブスを満足させるための制度として発足した歴史があります。ところが今は平民が貴族の頭を押さえている。それも、緊急時の頭として彼の者の下で一致団結しようと決めたはずの独裁官を足止めしている。


 お気を付けください。

 例えば、ティミド様のような平民を下に見ている貴族だけでなく、護民官からゆっくり着実に地位を重ね、実績を積み上げてきた新貴族や平民も快く思っていない可能性があります。このままでは、護民官の制度そのものが見直される可能性も無きしも有らずですよ」


 グエッラが笑顔のまま首を少し傾けた。


「私に言われても困るな」


 差別だ。平民を下に見ているのはエスピラもだ。


 と責め立ててこなかったことから、グエッラも大分余裕は無いのだろう。あるいは、不味いと、やりすぎだと思っているのか。


 このままでは何も知らない、代案も用意せず状況も確認しないまま「気に入らない」と言う理由だけで護民官の特権を乱発する平民が出てきかねないと、足を引っ張りかねないと思っているのかもしれない。


「仲がよろしいのでしょう? 私は、マルテレスに対して貴族が苦言を申し、尤もだと思えば友に伝えますよ」


「その優しさを、ぜひ私にも向けて欲しいな」

「十分に向けているではありませんか」


 エスピラも、グエッラも声を上げて笑った。

 奴隷は下を向いている。グライオは能面。パラティゾは口を真一文字に結んでいた。


 馬鹿みたいな笑い声が消えるように止まる。


「やさしさのお代に、貴方が見ている綺麗な景色を少し分けて頂ければ嬉しいのですが」


 エスピラが口角を上げながら言った。


「言うほど綺麗な景色ではないな」


 グエッラが肩をすくめる。


「ならば疾く降りられては?」

「そうもいくまい。此処は、私が任せられた椅子だからな」


 エスピラはひらりらと右手を挙げた。


「冗談ですよ。急に副官から頭にされた時の苦労は、私も良く存じておりますから」

「はは。頼りにしておりますよ」


 ソルプレーサが居れば、「頭が痛くなる会話だな」とでも言ったのだろうか。

 そんなことを思いつつ、エスピラは木の皮を持ち上げた。


「尋問の結果は、急かさずとも明日の会議でお伝えいたしますよ」


 グエッラの奴隷が椅子を持ってくる。


「今分かっている範囲で構わない。長引けば長引くほど、どんな声が出るかはエスピラ様なら知っているだろう?」


 そして、グエッラが椅子に座った。

 エスピラはやや唇を巻き込むようにして溜息を殺した。


「名前はベルベレ・ターゴー。役職は、アレッシア語に訳するなら左顎騎兵隊長、と言ったところでしょうか」

「さがくきへいたいちょう?」


 グエッラの眉間に皺が寄る。


(当然だ)


 そんな官職、アレッシアはおろかエリポスでもアレッシアが知り得ているハフモニの仕組みでも聞いたことが無い。


 マールバラが勝手に作った軍の仕組みを、エスピラが適当な言葉を探して翻訳しただけだ。


「マールバラの目的はアレッシアを潰すこと。つまりこの半島を自身の腹の内に収めることです。その際、アレッシアの同盟諸都市は極力そのまま残そうとしているとか。

 その様子を蛇の丸のみに例えているそうです。

 上顎と、二つに分かれる下顎。故に率いる将軍も上顎、右顎、左顎の三人。この三人に明確な序列は無いそうですが、一応、権限が強めの者が一人、上顎として設定しています」


 意味をかみ砕くかのようにグエッラが口に手を当てた。

 その間にエスピラは奴隷に目をやってコップを用意させる。


「ベルベレとやらはアレッシアの騎兵副隊長に相当すると思って良いのか?」


 奴隷がコップを持ってくる前にグエッラが口を開く。


「一概には言えません。残念ながら、アレはハフモニ軍と言うよりはマールバラ・グラムの軍団。彼の決定で率いる数も場所も変わってきます。左顎騎兵隊長だからと言って常に軍団を率いているわけでも無ければ、全くの名前だけでも無い。あくまで官職は基準で実態は常に変動しているとみて良いでしょう。

 騎兵隊長とついていない者が騎兵を指揮したり、騎兵隊長とついている者が投石部隊を指揮したり。誰が偵察に出かけたかで変わったりするそうです」


 奴隷が置いたコップに、エスピラがリンゴ酒を注ぐ。

 流石に、ジュースの方はもう無い。それだけの時間は保存できない。


「ややこしいな」

 グエッラが言う。


「あえてそうしているのでしょう。こちらから構造は把握しづらく、裏切る意図があって入った者も致命的な打撃を与えることができない。捕虜となれば尋問した者がどう言う者かで報告書が変わる。報告書が変わることで混乱も増える。実態も掴めなくなる。

 徹底的にこちらに情報を与えずこちらの情報を利用することを考えているように私には見えますね」


 ただでさえまとまっていないのだ。


 派閥争いや作戦方針の違いで手柄を争った場合、自身の評価を高めるために相手を一番高い所で評価しかねないだろう。そうなれば、手柄争いが激しくなり、より会戦へと傾倒するようになる。会戦を望まない者が手柄を立てられずに発言権が弱くなりかねない。


「ベルベレの最大の評価と最低の評価を教えてくれ」


 グエッラが眉間の皺を濃くしながら言った。


「プラントゥムからマールバラに付き従い、タイリー様との会戦では迂回部隊の一翼を担っていました。バッタリーセ様との会戦では三千の騎兵を率い、良くマールバラの弟と共に動いていたとか。

 ですので、最大の評価は、次期騎兵隊長候補の騎兵副隊長。最低の評価は左翼騎兵副隊長以下」


 随分と振れ幅がひどいな、とグエッラが天を仰いだ。


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