スマシャニャル池畔の戦い
最初の目的地はシャガルナク。その手前。全行程の三分の二ほどの位置にある集落の手前だ。
そこには細いが曲がりくねっている川があり、草木が生い茂っている。隠れて休息をとるには絶好の場所だ。休息と時間の調整後、夕方に着くように進軍する。
普通は開戦しない時間だ。だからこそ、奇襲は最大の威力を発揮する。同時に、攻撃や奪取が目的ではなく、偵察こそが主目的だと自軍にもしっかりと意識づけられるのだ。
「マシディリ様!」
ウェラテヌスの被庇護者が駆け込んでくる。
前から放ち、昨日の内にマシディリが動くことを伝えていた者達だ。
「前方に行軍中の敵部隊を発見しました。数は三千を下らないと思われます。スィーパスと思わしき者やフィラエと思わしき者も見かけました!」
飛ぶ唾は必死さの証。
汗もぼたぼたと落ちており、肩で荒く息もしている。
「距離はどの程度ですか?」
「おそらく、既に三キロは切っているものと思われます」
一度、目を閉じる。
奇襲に対応できる限界の距離は、条件こそ様々あれども六キロが一つの目安だ。
これが、強行軍の問題点。偵察を放てども自身の動きが速すぎて対応が遅れてしまう。同時に、今回は良き道かつ隠れやすい場所を選んでいたのも災いした。
目を開ける。
左手には鬱蒼とした木々。その奥にあるのは湖だ。右の耕作地帯は土がやわらかすぎる。騎兵の速度も奪われ、重装歩兵の足も取られる。
当然、主力が進軍すべきはこのままの道。馬なら四頭が限界か。
「攻撃を仕掛けます」
攻めるか退くか。
その決断が分かれ目。
マシディリは、既に退くことは不可能だと判断した。同時に、スィーパスへの侮りが無いかと自問する。
答えは、ある。
侮っている。
マルテレスならばもう少し迷った、と。
しかし、マルテレスが相手でも突撃を決断したとの答えにも遅れて至る。
「街道はアグニッシモが攻め上り、クーシフォスは耕作地に下りて騎兵を広げてください。ヴィエレ、ポタティエはクーシフォスの後ろで隊列を整え、攻撃を。スペンレセはアグニッシモの後ろで街道の守りを固め、撤退することになれば殿を任せます」
正確な兵数は分からない。
だが、スィーパスの性格を考えれば、向こうも攻撃をしてくる可能性が高いだろう。
「私の隊は最大の単位を一個小隊として左の道なき道を行きます。基本は隠れて進軍し、敵の意表を突くこと。必要とあればあえて騒ぎ立て、兵数を多く見せかけてください」
中心は、各百人隊長の命令。さらに別れる場合は十人隊長に任せる。
彼らの命令を取りまとめるのはピラストロであり、ピラストロに与えられた権限は味方救援のための命令。攻撃のために命令を変化させるのはマシディリの権限だ。
そして、そのマシディリはアグニッシモと共に少ししか街道から外れていない場所を攻め上る。
「狙うは敵兵の心。先の戦いの敗残兵に、恐怖を植え付け、勇敢な者に突撃を促し、敵軍を混乱のるつぼに陥れます。
相手は、第三軍団がいないかどうかなど知りません。
君達こそが第三軍団に見えるのです。
勇猛に、獰猛に、恐怖を己自身として。
酒に酔うように自分に酔い、気分を高揚させ、常勝だと謳い攻め込みましょう。
勝つのは、アレッシアです。
この世の唯一の絶対は、アレッシアの勝利だ!」
堂、と吼え、全軍に喝を入れる。
最初の被庇護者は、さっと確認してきてくれただけだ。早く行かねばそれだけ準備の時間が減るからとした判断は、正しい。
だからこそ、敵兵数が正確には分からない。一万いるかもしれないし、三千を下回っているかも知れない。そこは、未知だ。だが、祖父タイリーからの伝統で情報を得るための斥候を発達させて来ただけであり、多くの場合はもっともっと未知が多いまま戦っている。
分かっていることは、今の環境。
周囲と比べて広い街道とは言え、何十人も横にはなれない。大軍が激突するような場所でも無い。
兵数に関係なく勝ち目があるとも言えるのは救いか。それとも掬いか。
「神よ。神々よ! 悪逆と暴力とあらん限りの幸運を我に授けたまえ!」
アレッシアで勉強をしているはずの愛娘がつまらない、と机にへたれているであろう時刻。
アグニッシモの牙を剥き出しにした祈りと共に、戦いが始まった。
スィーパス側も気づいていたのだろう。両軍が激突したのは、勢いがついた状態で、だ。
「アグニッシモ・ウェラテヌスゥ!」
スィーパスが吼える。
歯肉をむき出しにして、瞳孔をかっ開いて。
それだけの感情も、ただただ圧倒的な暴力の前では無意味だ。
激突と共に一瞬でスィーパスの槍が砕け散る。予期していたのか、スィーパスが右手をアグニッシモに伸ばした。アグニッシモがすれ違いざまにその腕を掴むと、スィーパスの乗る馬を蹴る。馬が暴れた。アグニッシモが自身の馬を足で操り、巧みに暴れ馬から離れる。腕を掴まれたままのスィーパスは馬をなだめることもアグニッシモへの更なる攻撃も叶わず、落馬した。その重さを片腕だけで支えることは無く、アグニッシモも手を放す。
次々と敵兵が殺到し、道が詰まった。
スィーパスの失敗。
それは、アグニッシモの名を叫んだことにより、アグニッシモが見えていないはずの後方にまで存在を知らせてしまったこと。そして、いきなり一騎討ちに持ち込み、敗れたこと。
(士気の差は、明確)
互いに互いの戦力を十二分に把握していない状況では、攻め続け、優位な場所、優位な状況、優位な心境を確保することが大事。
マシディリは、鬱蒼とした森を行く隊により奥地での側面攻撃の指示を飛ばした。同時に、ヴィエレとポタティエに攻撃指示も飛ばす。
相手も耕作地帯に兵を下ろしてきた。軽装歩兵だ。やわらかい土の多い場所では、重装歩兵より有利にもなる。
ただし、それは練度が近ければ。
先行していたクーシフォスの騎兵はプラントゥム以来の者も少数ながらおり、ほぼ全員が東方遠征を経験している。
重装歩兵である第七軍団も、兵たちはアレッシアでみっちりと積んだ訓練以外は軽い戦いしか経験していなかったが、高官や百人隊長は歴戦の猛者。適切な声掛けと立派な背中による味方を引っ張り、地に足着けて前進させている。
敵が浮足立っていたのも大きかった。
敵の方が浮足立っていたからこそ、アレッシア兵はすぐに普段通りの戦いへと精神を持っていけたのもある。
止めに、大声を挙げてのプラントゥム以来の精兵による側面突撃。
アグニッシモの派手な格好も、戦場とは思えないほどに傾奇いたアグニッシモの悪友達も目立つ。同時に、マシディリの緋色のペリースも戦場では目立つ物だ。
万全の本隊と戦っていると誤認したかもしれない敵兵は、鎧を着ていない者や古びた鎧を着ている者、体に合わない鎧を着ている者から逃げ出した。
必死に声掛けをしている音が遠くからも聞こえてくる。だが、敵兵の逃亡は止まらない。
戦いの趨勢自体は一瞬で決まり、相手の撤退は昼を見ることなく決まった。
「追い討ちをかけてください」
ただ、長いのは此処から。
敵の殿に残ったのは、スィーパスだ。
アグニッシモに対してはひたすらに遠くからしか攻撃しないが、スィーパス自身は積極的に前に出てきている。一方のアグニッシモも直情的にスィーパスを追いかけているように見せながら、味方を巧みに使い、敵の弱点を突き、敵兵を確実に削っていた。
勝つのはアグニッシモだ。
しかし、予想以上にスィーパスが粘る。
部隊全体が、死体から武装をはぎ取り、壊れればその間に生まれた死体からまた武装をはぎ取って戦うような。そんな粘り強さがある。
(強力な友軍と組まれれば、脅威ですね)
いや。
これだけの腕があるからこそ、アスフォスがした無茶な提案を通し、名を挙げられると算段することができたのだろう。
狭い場所に限っているとはいえ、アグニッシモ相手にこれだけ粘っているのだ。ティツィアーノ相手に粘っていたことも、どうように数えられるか。
アグニッシモ優勢。
それは最後まで変わらず。
しかし、スィーパスが大きく後退を始めたのは、敵軍左翼の崩壊を契機に、であった。
クーシフォスがフィラエの部隊を叩き潰し、スィーパスの隊に迫り始めたのだ。
下がるスィーパス。逃げるフィラエ。追いかけるアグニッシモとクーシフォス。
凶暴な追撃戦は、撤退支援にやってきたアゲラータ率いる新手も噛み砕く。ヒュントと彼らが作ったであろう簡易的な防御施設でも止まらない。
それでも、昼過ぎ、太陽が中天を越えて戻り始めた時にはアグニッシモの足が止まった。遅れるようにしてクーシフォスも止まる。フィラエもアゲラータも先に退いた中で、スィーパスがヒュント共に後方に残りながら撤退していった。
「マシディリ様」
やや後方でその様子を見ていたマシディリの下に、レグラーレが戻ってきた。
「シャガルナクに敵軍を発見しました。総勢七千ほど。大将はマルテレス様。ちなみに、先ほどまでの部隊が五千ほどです」
目を細め、風に一度髪を遊ばせる。
混乱した敵軍は隊列を揃えていた敵軍に突っ込むだろう。ならば七千も本来の力を発揮できない。
が、駄目だ。
そもそも強行軍使用。しかも不意の戦い。
相手がマルテレスで数も多いとなれば、勢いのままの突撃とはいかないのだ。
「望外の成果、ですね」
言い聞かせるように、一つ。
それから目と背筋に力を戻した。
「マルテレス様の軍団に対する勝利は手にしました。此処までです。撤退いたしましょう」
撤退は素早く。
マシディリは、マルテレスの斥候部隊が出て来たと言う報告を遠く離れた地で受け取ったのだった。




