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ウェラテヌス隆盛記  作者: 浅羽 信幸
第三十二章
1279/1590

幽生の者 Ⅰ

 ペッレグリーノがマールバラに山越えを決断させた川。そこを最終防衛線にせよ。


 エスピラの軍事命令権保有者としての最初の仕事は、実情にそぐわなくなったサジェッツァのこの命令を撤回することになるだろう。

 それだけの情勢だと言うのに、アレッシアに悲壮感は無かった。むしろ、活気に満ちている。


 盛大な結婚式が開かれるのだ。


 レピナとフィロラード。長らく親しかったウェラテヌスとアルグレヒトの婚姻である。


 特に、フィロラードは結婚式の後に従軍することが決まっており、余計に盛大なモノにしようと言う空気に満ちていた。


 無論、エスピラの狙いはそれだけでは無い。

 ウェラテヌス邸に、お祝いの品がたくさん届いているのだ。入りきらない物は、郊外にも集まっている。特に港に。


 何故か。

 簡単だ。ウェラテヌスと仲が良いとは決して言えない家門が、それでもウェラテヌスのために支援したと言う形も取れるように『祝いの品』と称して物資を送ってきたからである。


 ウェラテヌスの功績のために、ともなれば心理的障害も大きいが、祝い事のため、となれば送りやすいのが人間。義務よりも祝わなければ義理に篤く寛容な家門であると喧伝できるからこそと言う話でもある。


(レピナも、口では文句を言いつつ父上の気持ちは良く分かっているからね)


 妹は、私の結婚式を利用した、と唇を尖らせ、父に背中を向け続け、父を困らせているのだ。

 その実、父の傍をあまり離れず、あれこれと相談もしている。


「父上に、内緒の相談ですか?」

 クイリッタの声が背後から聞こえた。


「誤解を解き、父上には筆頭軍事命令権保有者として半島にて総指揮をとってもらおうと思ってね」


 マシディリは振り返らずに返す。

 視線の先は、相変わらずレピナに振り回されている父だ。とても国家の重鎮とは思えない姿である。たまらずに、フィチリタが助けに駆け寄っていくほど娘に甘い父親だ。


「サジェッツァが父上に死ねと命じた件についてですか?」


 マシディリは瞼に力を込めた。

 姿勢は変えない。拳も緩いままを意識する。


「サジェッツァ様は、共に戦おうと言う意味で短剣を送ったはずだよ。「祖国に、永遠の繁栄を」と言う言葉だって、父上に「アレッシアに、栄光を」と言ってもらいたいからこその選び方。口が下手なのは、クイリッタも知っているよね」


「おやめになった方がよろしいかと」

 やけに他人行儀な声音を使われる。

 流石に、マシディリもクイリッタに顔を向けた。クイリッタの顔は、熱が抜け落ちている。


「べルティーナの立場を悪くするだけですよ、兄上。アスピデアウスの娘がウェラテヌスの後継者を唆した、と」


「誰かが、そんなことを?」

 声が低くなる。最早唸り声だ。


「誰も」

「なら、問題無いね」

「大ありです、兄上」


 クイリッタが足を前に出す。

 ぴたりとくっつくような距離だ。熱せられた空気が、右頬から伝わってくる。


「関係を断つ。今度こそ刃を届かせる。そう見えてしまったのも事実。父上を暗殺しようとした過去も本当。


 真意はどうあれ、私にもサジェッツァが父上を消そうとしているようにしか見えませんでした。他の者も同じでしょう。そんな中で兄上がサジェッツァを庇う。それはやめた方が良いかと思います。


 兄上は、ウェラテヌスの正当後継者なのですから」


「サジェッツァ様は義父だ」

「そして政敵ですね」

「愛する妻の父で、子供達の祖父でもある」

「そして、甥たちが大好きなじいじを殺そうとした張本人」

「クイリッタ」

「兄上」


 がし、とこれまでに無いほどの力で肩を掴まれる。

 マシディリは思わず口を閉じてしまった。


「父上に、本当にもしもがあれば私の責任でもあります。あの時、サルトゥーラを殺せずともトリンクイタだけは排除しておくべきだった。ねちねちとアスフォスを責めたからこそ、マルテレスが立ったのも否定はできませんからね」


 低い声で。ただし、硬い声だ。押しても動くが、決して折れない。そんな声である。


「滅多なことを言うべきじゃないよ」


 マシディリは、肺を痛めるように言った。

 クイリッタの鋭い視線がやってくる。


「こうなる前に元老院議員どもを脅して無理にでも兄上に軍事命令権を付与することも出来たのに、しなかったのも私です」

「それは私の判断でもあるよ」

「いえ。兄上はそれをしてはいけません。私はやっても問題ない。その違いをお忘れなく」


「クイリッタ」

「兄上と私は立場が違う。でしょう?」


 ぽん、と肩を叩かれ、クイリッタが離れていく。


「私もついに軍団長です。尤も、兄上が望むのなら兄上の配下につきますが、ね」


 手をひらひらと振りながら、クイリッタが廊下の角を曲がっていった。


 二個軍団の編成。それが、マシディリに割り振られた仕事の一つ。そして、マシディリが副官として後方支援では無く別動隊を率いると言う証明だ。


(父上は、私をマルテレス様と戦わせる気は無い)


 それでもやらねばならない。

 父を後方に置いた状態で。マシディリが、マルテレスとの決着を付けなければ父が死んでしまうのだ。


 決意を胸に、もう一度深く呼吸をする。


 仕切り直しとばかりにマシディリは体の向きを戻した。どうやら、フィロラードが打ち合わせにやってきたようだ。本来であれば他の者で良いのだが、今回は特別。レピナも文句を言うように口を動かしながら、足取り軽く新郎の下へと向かっていった。


 つまり、父が一人になったのである。


(今しかない)


 そう思えば、足はすぐに動いた。

 父もマシディリが近づいてくることにすぐに気づいたように目を向けてくる。


「父上」

「マシディリ」


 父が、力なく笑う。

 その様子に、マシディリは二の句が告げなくなってしまった。


「メルアにも見せたかったね」


 ゆるらりと動いた視線の先は、レピナとフィロラード。

 マシディリも二人を向いたまま口を開いた。


「きっと、どこかで見ていると思います」

「そうか。そうだね」


「ユリアンナの子も、見に来ると思いますよ。父上が抱き上げた時に泣く様子も、きっと呆れながら見るかと」

「男の子でも女の子でも、きっとユリアンナに似てかわいい子だね」

「ええ」


 一つ、息を吐く。


「マシディリ。物事には、順番があるんだ」


 先んじて動いたのは、父。


「どこの世界に愛しい息子を先に失いたい親がいるんだい?」

「それは」

 ぐ、と喉を閉める。


「それは、私が負ける前提に立ち過ぎています」


 父の目が一瞬丸くなった。

 それから、丸くなった笑いを浮かべている。とても戦いが控えている顔では無い。


「そうだったね」

「父上。死のうとしているのではありませんか?」

「何があっても良いようにしているだけだよ」

「まだユリアンナの子供を抱いていません」

「そうだね」

「その状態で、果たして母上が会ってくれるのでしょうか?」

「マシディリ。私が死ぬ前提に立ち過ぎていないかい?」


 おだやかな声だ。

 それでも、マシディリの口を止めるには十分な声である。迫力や畏怖では無く。ただただ、こみ上げる何かによって。名前を付けたくない感情によって、止められてしまうのだ。


「二百艘から成る大船団によってオピーマの船団を撃滅し、半島に散らばるオピーマの支援者を一挙に強襲、これを殲滅する。そうすれば、マルテレスは孤立するよ。後はゆっくりと締め上げれば良い、と言いたいけど。どうかな。心変わりが怖いね。マルテレスは慕われているから」


 これも、作戦を語っているとは思えない声である。

 縁側でさえずる鳥の名前を言っているような、そんな昼下がりの雰囲気だ。


「半島に、誘い込みましょう。父上」


 対して、マシディリの声は。


(懇願、か)

 そう、マシディリ自身で思ってしまう。


「マルテレス様の行軍速度は想定以上です。クルムクシュを抜かれてしまっても仕方ありません。北方諸部族が加われば、数は知れず。その流れで半島に呼び込み、それから戦いましょう。わざわざ勝率の低い方へと出て行く必要はありません。それは、愚策です」


「お前の意見は副官として正しいよ」


 ですから、その声音は軍事命令権保有者のモノでは無いのです。

 その言葉が、マシディリの舌の上まで乗っかってきた。

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