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ウェラテヌス隆盛記  作者: 浅羽 信幸
第三十二章
1278/1598

人は、見たいモノしか見えなくなる

 ジャンドゥールの神官が目を丸くし、それから楽しそうに髭を揺らした。遠くから眺めるエスピラの目じりも思わず下がる。


「素晴らしい詩ですな。文字を辿れば、広がる海と街の活気が見えてくるようです」

「ありがとうございます」


 目を閉じ、礼を言うフィロラードよりも隣に座っているレピナの方が嬉しそうなのも、エスピラの口元が緩む要因である。


 対抗心をむき出しにしているのは、アルム・ネルウス。カリトンの孫にしてスクトゥムの子だ。ディファ・マルティーマにためられていた黄金で無邪気に遊んでいた幼子も、今や立派な青年である。


 いや、姉や弟に構い過ぎると噛みついてきて、駄々も良くこねていたレピナがもう結婚を考える歳なのだ。時の流れとは、早いモノである。


(メルアがいなくなってから、もう四年か)


 振り返れば、随分と長い。

 体感としては、思ったよりも短いのか、それともはるか昔なのか。エスピラ自身にも良く分からなかった。ただ、レピナもフィチリタも年々面影を濃く残しつつ、それぞれへと成長を続けている。


「こちらに居られましたか」

 クイリッタの声がした。

 足音はいつもより多い。そして、一つは左右の違いが大きいモノ。


「何かあったのかい?」

 顔を動かせば、予想通り、ティツィアーノがいた。


「交渉自体は終わっているよ」

「終わっていましてよ?」


 隣に座るズィミナソフィアを見てか、クイリッタの眉間に深いしわが刻まれた。

 対するズィミナソフィアは、くすくす、と口に手を当てて笑っている。真剣に香木を確かめていたフィチリタが、とたたと戻ってきた。


「そんな顔しちゃだめよ、兄さん。女王陛下は安全な人なんだから」

「買収されたか?」

「されてないもん!」


 むん、とフィチリタが頬を膨らませた。ただし、手に持っている香木は握りしめたまま。近くの机に並んでいるのも片付ける気は無いようだ。


「お父様は魅力的な男性ですが、私はお母様のこともそれはそれは大好きですのよ?」


 くすり、とズィミナソフィアが笑みを深める。

 クイリッタの皺はより深くなった。


「恐れながら、陛下。それは父上のご機嫌取りの発言では無いでしょうか」

「本当に失礼ね。マシディリの爪の垢でも煎じて飲んで頂戴な」


「幾らでも飲みますが、陛下の顔を見ればすぐに腹の内に黒きモノも溜まるでしょうね」

「反抗期かしら?」


 くすくすと笑うズィミナソフィアは、完全にクイリッタを子供のように扱っている。

 クイリッタも数度鼻筋を引くつかせたが、何を言っても無駄だと諦めたのか短く息を吐きだした。


「私と陛下の距離が近いとお怒りだ」


「お母様に叱られるのでしたら離れますが、お父様と慕ってよろしいのであれば、愛娘に向ける愛情の一割でも受け取ってもよろしいのではなくて?」


「そうしよう」

 エスピラは乱雑に手を伸ばすと、ズィミナソフィアの頭をやや強く撫でた。


 女王陛下にするにしてはあまりにも不敬な態度だ。しかし、子供に対してはやや雑な程度の扱いである。

 そして、その雑さ加減がクイリッタの留飲を下げるにも役立つだろう。


「私も着いて行って良い?」

 フィチリタが香木を急いで並べ直しながらエスピラに顔を向けてくる。


「駄目だ」

 返事はクイリッタから。


「父上に聞いているのよ?」


 フィチリタがいじらしく両手を胸の前で合わせる。


 非常にかわいい。普段は快活な愛娘のこういった姿は、本当にかわいいモノだ。変な男が寄り付かないか心配である。未婚なのもあって余計に心配だ。しかし、相応しい男は誰かと言えば、これも難しい。


 離婚したばかりのクーシフォス、将来有望なソリエンス。父の代より恩があるバゲータ。祖父の献身と父の忠勤があるアルム。他にもアビィティロを始めとする有望株だっているのだ。


「父上?」

 フィチリタが身を乗り出すように重ねてきた。


「陛下の相手を頼むよ」

「はぁい」


 フィチリタが明らかに沈んだ。

 笑みの質を母性に変えたズィミナソフィアが、私とのお話はいや? とフィチリタに寄り添う。


 母子にも、姉妹にも見える近しさだ。

 事実、異母姉妹ではあるのだが、そのことを知っているのはズィミナソフィア側のみである。


「行こうか」

 言いながら横を過ぎようとすると、ティツィアーノから羊皮紙を差し出された。


「父上からです」

「サジェッツァから? 珍しいね」


 受け取り、近くの部屋に入る。既に中にいたリングアが立ち上がった。エスピラは、リングアに対してはそのままいるように告げ、奴隷だけを退出させる。


 リングアにとっては元々苦手意識があるクイリッタが、今はさらにぴりついているのだ。随分と居心地が悪そうであるが、一応、護衛であるためエスピラも心を鬼にする。例え、愛息が身長に劣る次兄よりも小さく見えていても。


 椅子に座り、手紙を広げる。


『スペランツァを助けたくは無いか?』


 書き出しから、これ。

 エスピラは眉を顰めた。



『サルトゥーラもフィルノルドも敗れた。マルテレスの兵力は既に三万に達し、マールバラの時と違い海軍と連動して動いてきている。一方でスペランツァの傍にある兵力は一万五千も無いだろう。


 アレッシアの支配に不満を持つ者も多い。そうでない者も、インテケルンあたりがアレッシアを夢の都市のように言って略奪をちらつかせ、味方につけることだってあり得る。北方諸部族には既に手が回っていた。


 このままでは、クルムクシュに到達する時点で五万を超えることも、半島に入った時点で十万に達することもあながち夢物語では無い。


 半島での迎撃は不可能だ。必ず外で一撃を加え、挫く必要がある。


 エスピラの力が必要だ。

 このままではマシディリが迎撃に向かいかねない。私は、やはりエスピラが行くべきだと考えている。マルテレスとの落とし前を付けるべきだ。


 元老院の意見は一致した。アレッシアのために、エスピラ・ウェラテヌスを軍事命令権保有者に推す。後は、最高神祇官が声をかけ、占いを敢行すれば軍事命令権が付与されるだろう。


 戦え。エスピラ。

 これは、私達の責任だ。マルテレスは、エスピラが殺すしかない』



 決して短くは無いが、長いとは到底言えない手紙である。


(アレッシアのために)


 実際に元老院でそう言っていたのは知っている。執拗にエスピラを軍事命令権保有者へと推していたのも。マシディリの訴えを退け、マシディリを納得させる訳でも無く強行的な採決へと持っていったのも。


「父上から、贈り物も、ございます」


 歯切れ悪く、されどもしっかりとした声量でティツィアーノが言った。


 取り出されたのは、綺麗な木箱。四十センチほどの幅がある。

 それを恭しく持ち、ティツィアーノがエスピラの目の前に置いた。


「あの時から何も変わってはいない、と渡す時に伝えるようにと父上は仰せでした」


「あの時から」

 右手を伸ばし、白木の箱の蓋を開ける。


 中にあったのは、短剣。

 立派な短剣だ。鞘も綺麗で、派手では無いが確かな技術を感じる装飾が施されている。

 持ち上げても、しっかりとした重さがあった。それでいて、なるほど、少しばかりの傷がある。新品では無い。きっと、サジェッツァの言うあの時に関係する物だ。


(どの時だ?)


 裏返す。

 見えたのは、アスピデアウスを表す紋章。それも、サジェッツァ・アスピデアウスの指輪と同じ印。


「そうか」

 色の抜け落ちた声で呟き、剣を抜く。


 綺麗な刃だ。顔が良く見える。少し痩けたかな、と思える自身の顔が、反射している。

 怖いほどに綺麗な刃先だ。鋭く、欠けているところは一つとしてない。錆も当然ない。


 ただ一つ、異常があるとすれば、鞘の中に小さな紙が入っていたこと。

 書かれている言葉は『祖国に、永遠の繁栄を』。ただそれだけ。



 そうか、とエスピラは心中で呟いた。



「私が、用済みになったか。サジェッツァ」



 不思議と、何も感じないものだ。


 エスピラは何故落ちないのか疑問に思うほどの力で短剣を握りながら思った。


 素晴らしいほどに見事な暗殺だ。

 アレッシアのために。元老院の命令で。半島の外に出す。

 最高神祇官は戦場以外では身を犯されてはならないと言う法にも違反せず、確実にエスピラを殺せる策だ。エスピラの主張する半島での迎撃を認めず、野戦で絶対的な実力を誇るマルテレスにぶつけるのだから。


 見事だ、以外の感想が出てこない。

 心に穴が開いたように、他の感情が何も無い。


「父上」

 クイリッタに、右手のひらを向ける。


「ティツィアーノ」

「はい」

「サジェッツァに伝えろ。軍事命令権じゃ足りない。全て寄こせ。元老院は私の指示に従い、軍団のために財を供出しろ。こちらの要求を断っての要請だ。それとも、またウェラテヌスの私財をすり潰し、政争に使う気か? ともね。アレッシアのためなら、居残る元老院議員が身銭を切り、軍団を支え給え。それが嫌なら共に最前線に出てきてもらう。


 それから、編成は全て思い通りに変えて良いと今回の軍事命令権に付けろ。軍事命令権の期限は反乱軍の鎮圧が為されるまで。範囲は半島全土とプラントゥム、フラシに渡る西域全般。


 全て、軍事命令権に付随させるのが条件だ。

 元老院への優先指令権もな。


 あと、副官はマシディリにする。これも絶対条件だ。


 それが為されるのなら、すぐにアレッシアに向かおう」



「伝えて参ります」

 頭を下げ、片足を引きずりながら早足でティツィアーノが部屋を出て行く。


 クイリッタとリングアが、再び目を向けて来た。

 口を閉じたまま鼻から息を吐き、エスピラはこぼすようにアスピデアウスの短剣を投げ捨てる。


「メルアとの約束がある。どうせなら、行けるところまで頂いて死ぬさ」

「父上」

「それから、クイリッタ、リングア。決して私の得たモノをウェラテヌスが得たモノとしてウェラテヌス内で分け合うな。それは弱体化だ。全てをマシディリに集中させ、権力を維持しろ。良いな。誰であろうとも、分け合うな。私からの愛も、メルアからの愛もお前たちの間で優劣など付けられない。だが、後継者はただ一人。マシディリを除いて他にない」


 有無を言わせず、肯定の返事のみを受け付ける。


 それから、エスピラは再び好々爺の表情に戻り、勉強を終えるであろうセアデラとラエテルを迎えに行ったのだった。

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