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ウェラテヌス隆盛記  作者: 浅羽 信幸
第三十二章
1262/1589

なり切れない者

「考えうる限り最悪の報告が届いております」


 既に最悪だよ。

 そう返したいエスピラの前に、グライオがパピルス紙を差し出してきた。その奥、不自然な木の箱の向こうに隠れ切れていない愛息(スペランツァ)が見える。


(まったく)

 思いながらも、どこか少しだけ呼吸がしやすくなった気がした。


 その調子で広げた紙に書かれていたことは、しかし最悪に変わらず。

 エスピラは、舌打ちをしてから右の中指と薬指で閉じた瞼の上をこすった。


「やりやがったな」


 右の掌底を右の頬骨に押し付け、右目を覆うように指を顔面に乗せる。人差し指は額、中指と薬指は今もなお瞼の上だ。


「嵌められた」


 吐き捨てるとともに、手も下に。


 最高神祇官と連絡がつかないと言う言い分で、エスピラの預かり知らぬところで軍事命令権保有者が生まれたのである。


 有り得ない話だ。


 エスピラがカナロイアに居るのは誰もが知っている。フラシに向かったのも、マシディリやスペランツァ、ファリチェは知っているのだ。そうでなくとも推測は着くはずである。


 だから、本当にエスピラに連絡を取ろうとしたのなら、エスピラの後を追って使者が到着するはずなのだ。


 しかし、現実はそうでは無い。誰も来る様子は無く、元老院からの使者だって一回も来ていない。初めから読まれていたのだ。エスピラがカナロイアから直接乗り込むと。グライオを呼び寄せたのを見て、確信に変えて動いたのだ。


 そのような根回しが出来る者は、限られている。


「申し訳ございません」

 箱の後ろから、ひょこり、とスペランツァが現れた。目から下は、未だに箱に隠れている。


「スペランツァは悪くない。私の想定が甘かっただけだよ。せめて、クイリッタも帰すべきだった」


 冷静になれば分かることだ。

 事が起こった後ならば分かることだ。


 アレッシアへの反逆が疑われたのなら、最も簡単に身の潔白を証明できる手段は反旗を翻した身内を切ること。だから、オピーマ派の中でもアレッシアに残ることを決めた者達は早期の討伐軍編成に否と言わない。


 最大派閥であるウェラテヌス派にとっての最悪は、アスピデアウス派とオピーマ派が組むこと。だからこそ、他派がオピーマ派を潰そうとすれば積極的な反対はしない。一つずつなら勝てるのだから。

 エスピラがマルテレスを救おうとするのを知っていたとしても、利益に預かりたい末端はそうする。むしろ、消極的な賛成と言い換えても良いかもしれない。


 最も思い切ったのはアスピデアウス派だ。此処でマルテレスを国家の敵と認定する利点はほとんど無い。それでも行ったのは、何のためか。


 少なくとも軍事命令権保有者にサルトゥーラが選ばれたのは、法を遵守する彼の姿勢を利用したために思える。

 厳格に。これまでのアレッシアと同じく。軍事命令権保有者である父の命令に従わず、軍団を勝利に導く功を挙げながら処刑された息子の話と同じように。


 そして、サルトゥーラを切り捨てても立ち行くだけの算段が立ったと言う可能性もある。


「アレッシアに戻る。元老院を招集してくれ。緊急招集だ。アルモニアがまだインツィーアに居ても、タルキウスごと引っ張って来い」


「おやめになった方がよろしいかと」

 反対の声は、影から現れた。


 ソルプレーサだ。目を動かした隙に、スペランツァも箱から全身を露わにしている。


「マルテレス様を助けることを強硬主張するのなら、父上であろうと止めさせてもらいます」

「スペランツァ」


 エスピラは、隠そうともせずに威圧した。

 スペランツァの顎が僅かに引かれる。されど、前に出すようにしっかりとつま先を向けて来た。



「マルテレス様を助けることは、クーシフォス様とルカンダニエ様の行動に問題があったと訴えることと同じです。マルテレス様がアレッシアにとって不都合の無い行動をしていたのなら、マルテレス様に不都合に見える行動をとらせてしまった二人には罪があります。


 父上。兄上は、二人を助けるために戻り、裁判を長引かせることなく二人の正当性を証明したのです。それを父上が友情に突き動かされて行動しては、兄上まで自身の都合でアレッシアの決まりを捻じ曲げる存在だと訴えることになってしまいます。


 クーシフォス様がこの時期に事を起こしたのは、ウェラテヌスに近しいからこその配慮。ウェラテヌスに極力迷惑が掛からないようにしたからではありませんか? 


『襲撃』です。父上。


 例えば、兄上が父上から権力を奪おうとすれば、襲撃と例えられる必要はありません。父上は一人、またはシニストラ様を連れているのみなので人は少なくて良いのです。


 クーシフォス様が襲撃と言われてしまうだけの人員と物資をマルテレス様は集めていた。その結果が、今のフラシの平定具合ではありませんか?」


「息子のためだ」


「そのアスフォスはアレッシアに嘘をばらまき、建国五門に喧嘩を売りました。隠居したはずのメルカトルも隠居地を脱したと報告が届いています。

 父上を頼る一方で、オピーマは着々と武力転覆の用意を進めていたと言われても仕方ありません。これがアレッシア内部で炸裂せずに良かったと言うべきでしょう」


 違う、とエスピラは思った。

 父と息子としてスペランツァが目の前に立っているのではない、と。


 スペランツァは、セルクラウスの当主としてウェラテヌスの当主の前に立っているのだ。


「父上。兄上も、無抵抗で受け入れた訳ではありません」

 スペランツァが、朗々と声を張る。



「軍団の準備は三か月。その間に交渉の余地があります。

 その優先権は、誰であろうウェラテヌスのモノ。父上の行動も何も弁明する必要の無い行動です。


 タルキウスにも軍事命令権を配ることになってしまいましたが、半島に迫った時との条件を付けることにも成功しております。ナレティクスも同様の権利を手に入れました。タルキウスが場をかき乱すことはありません。その際は兄上がインツィーアを攻め落とします。


 一先ずは、大人しくアレッシアに戻るか、引き続きの休暇をお楽しみください。


 父上もお疲れでしょう。母上が亡くなられてから、第一次フラシ遠征にメガロバシラスへの遠征。西へ東へ休む間も無く働いてまいりました。


 もうしばらく、カナロイアで休まれては如何でしょうか」



 ぺこり、とスペランツァが頭を下げる。


「なるほど」

(追放か)


 アレッシアが最も警戒すべきこと。

 それは、エスピラとマルテレスが手を組むことだ。


 そして、今、アレッシアの近くにはサルトゥーラがマルテレスに対抗するための軍団に成るための武装勢力が居る。軍団など、結局は荒くれ者なのだ。暴走すれば何をしでかすか分からない。


 サルトゥーラを軍事命令権保有者にした意味。

 それは、もしかしたらエスピラを暗殺から守るため。


 最高神祇官は戦場以外では身の安全を保障されていると言う法がある。

 サルトゥーラは、法を遵守する人間だ。堅物すぎるほどに法を守る意思が強い。


 ならばこそ、エスピラの暗殺を何としても防ぐだろう、と。


 推測が当たらずも遠からじだと思ったのは、帰り道にオルニー島に寄港した時のこと。


 雲隠れしたアスフォスの聞くに堪えない糾弾状を聞いて。


 曰く、元老院議員を増やそうとしないのはその内貴族で独占するための布石。

 曰く、エリポス文化を否定しつつもカナロイアやドーリスと婚姻を結んでいるのも、エリポスとの関係をウェラテヌスで独占するため。

 曰く、アレッシアの役職は能力で決まることが無い。生まれだけで決まる。だから、我らにフラシが与えられないのだ、と。


 馬鹿馬鹿しい話だ。

 能力での出世が無ければ、マルテレスは財務官にもなれていないというのに。

 能力で出征した者の代表格がアスフォスの父親であると言うのに。


『エスピラは迂回して、テュッレニア近くの港に降り立つ』。


 その噂を流したのは、糾弾状を聞いた直後。

 噂の地に船団を近づけた時に起こったのは、剣闘士奴隷スッコレト・マンフクスの反乱。


 朝夕反乱と名付けられたそれは、ジャンパオロの迅速な対応により名前の通りその日の内に終わる。


 だが、エスピラの治世に対する不満が一気に噴き出してきたのだと確かめるには十分な出来事であった。


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