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ウェラテヌス隆盛記  作者: 浅羽 信幸
第三十二章
1261/1593

子供な大人 Ⅲ

 背中から、体温と言う体温が抜け落ちていく。視界も一気に色彩を失った。白黒の世界、否。

 灰色の世界だ。


(ああ)


 マルテレスの拳が、随分と堅そうだ。あれでは肌が裂け、血が出そうである。骨まで見えてしまうかも知れない。そうなっては大変だ。


 でも、今ならシニストラが治せるか。サジェッツァも、何か別のことを言いながら治すだろう。きっと耳の痛い話だ。いつまでも年長者面するのだから。そのくせ、サジェッツァもサジェッツァで馬鹿なことに乗ってくる。娘の結婚のために冷たい中で待ち続けるのも立場を考えればあり得ない行動だ。あいつも親馬鹿の類だな。


 全く、どいつもこいつも私のことを言えないじゃないか。


 エスピラは、そう、頭の中でなんとなく言葉を並べていった。



「あ」

 と、マルテレスの声がする。


「わりい」

 小さな、謝罪も。


 濡れた子犬だ。泣き出しそうな子供である。

 やっぱり、人間はいつまでも変わらないよ。感情が昂れば、言ってはいけないこともついつい言ってしまう。大人も子供も関係ない。


「マルテレスの言う通りだよ。私は、結局イフェメラを殺した。もしもメルアがアレッシアに反旗を翻さざるを得なくなったのなら、きっと、ついて行ったのにな」


(これは、私の声か)

 どこか膜がかかったように聞こえる。水に居るような。その上から声をかけられているかのような。


「メルアは、エスピラにとっての特別だからな。比べること自体が意味がねえよ」

「マルテレスも特別だ」

「度合いが違う」

「方向が違う。お前は、一番の親友だ」

「俺にとってもそうだよ。いつまでも、エスピラが一番の親友だ。サジェッツァが、拗ねそうだけどな」

「違いない」


 今、自分はどのような顔をしているのだろうか。

 表情どころか、指先も立ち方も、エスピラは近く出来ていない。


「エスピラ」


 今度は、マルテレスの呼びかけにエスピラが首を横に振った。


 二度、拳を作り解く。意識を指先へ。つま先へ。体へ。

 重心もしっかりと中央に戻し、背筋も伸ばす。表情を作り切るだけの気力は無い。それでも、視線はまっすぐにマルテレスへ。


「私も、はっきりと言うよ」

「そうじゃない。あれは、そう言う意図じゃ」


 言葉の途中であることは承知でエスピラは右手のひらをマルテレスに向けた。

 右手を横に動かしながら指を閉じていく。


「このままじゃ勝てない。この蜂起は失敗する。だから、辞めてくれ、マルテレス」

「やってみなきゃ分からないだろ」


 一気にマルテレスの態度が硬化した。


「一か八かで事を起こすな。上に立つ者は、勝てる自信を持ててから動かないと駄目だ」

「一か八かで起こさせるのがアレッシアだろ?」

「起こさなくても良いから止めているんだ」


 そして、エスピラは堂々と両手を広げた。

 ペリースが背中側へと纏まっていく。胸部を広げ、正中線を露わにし、朗々と喉を震わせた。



「今のアレッシアは第二次ハフモニ戦争直後とは違う。層の厚さは、あの時以上になった。


 それに引き換え、今のマルテレスの下にはそこまでの層は無い。層になり得る者もアレッシアとこっちで分断されている。各個撃破されて終わる可能性もあるんだ。


 マルテレス。どうして私を遠回りさせて案内した。

 

 街の復興は済んでおらず、現地住民からの協力は現地高官が謳うほどは得られないぞ。蝋燭も足りてなければ、此処で住むこともままならない。

 それを見せるためならば良い策だが、イエネーオスを間に合わせるためだけに行ったのならば失ったモノが多すぎる。イエネーオスが遅参する方がよっぽどマシだ。その判断もできない者達の集まりならば、正直厳しい。


 それに、だ。軍団は戦う人が集まれば出来る訳じゃない。それ以上に後背地の用意が大事だ。そのことを理解している者がどれだけ集まる? どれだけその者の意見が通る?


 マルテレス。この蜂起は失敗する。

 失敗してからでは戻ってこられないんだ。今なら戻ってこられる。今なら間に合う。


 だから、もうやめろ。戻って来い。


 クーシフォスの用意した証拠も、私が何とかする。勘違いだと持っていく。


 信じてくれ。


 マシディリが裁判に絡んでいるのなら、何とかできる」



 最後は、たっぷりと情を込めて。

 本音を露わにした。本音を露わにしたからこそ、左手がエスピラの胸の前に来て急所の一つを隠している。


「逆だ、エスピラ」

 ゆるり、とマルテレスが立ち上がった。


「こっちに来てくれ」

 そのまま、こちらへとマルテレスが歩いてくる。


(ああ)

 イフェメラも、同じことを言っていた。


 なんで此処まで被るのか。軽いめまいと、弟子の声が聞こえる。助けて、と。何で助けてくれなかった、と。今度は、と耳元で、イフェメラが囁く。


 本当はイフェメラなどこの場にいないのに。


 いる訳が無いのに。


「エスピラが居れば、後方支援は問題ない。戦略だって、支配だってそうだ。フラシを統一し、ハフモニを下し、プラントゥムを安定化させられる。それだけの成果を挙げられれば、アレッシアだって迎えてくれるはずだ。そうだろ?」


「なにを、いって」

 なにが、目的で。



「これだけの功績だ。元老院の奴等だってオピーマや貴族に属州を任せるぐらいしてくれるさ。な。いい話じゃないか? 半島は建国五門が守って、外は平民が地を得る。


 分を弁えろとか言う奴等も黙らせられるし、平民の地位が低いとわめく者達も満足してくれるはずだ。

 だから、こっちに来てくれ、エスピラ。このまま進めよう。エスピラが居れば軍事命令権の付与を神々に問うこともできる。


 戻るんじゃない。今、アレッシアとしての正統性を得るんだ。いや、俺たちこそがアレッシアだ。そうだろ、エスピラ。俺らがアレッシアだ。此処が、今からアレッシアになる」


 アレッシアとは、何か。

 それは元老院である。

 腐っていても。アレッシアとは元老院だ。


(ビユーディを、攻撃して。いや、違うな)

 そこを責めては、そもそも戻ってくる時に何と弁明するのかという話になる。


「お前が戻ってくるのなら、クーシフォスの行動もアレッシアのためになる。だが、私達がアレッシアだと言うのなら、クーシフォスはアレッシアに刃を向けたことになるぞ」


「俺はクーシフォスを許す。エスピラも許す。だから、大丈夫だ。クーシフォスもマシディリも大丈夫だ」


 滅茶苦茶だ。

 それは、理解している。私物化だと。


 だが、何が違うのか、と耳元で誰かが囁いた。


 スーペルが、マルテレスが、メガロバシラスが。誰こそがアレッシアだと言った。誰の意見がアレッシアの意見だと言った。


 他ならぬエスピラでは無いか。

 

 エスピラ・ウェラテヌスの意思がアレッシアの意思となると言っていたでは無いか。



「師匠。今度は」



 はっきりと、イフェメラの声がする。

 亡霊の声が。


(愚弄、するなっ)


 エスピラは左手を強く握りしめた。

 自身の指には大きなイフェメラの指輪を、はっきりと知覚する。


(此処でアレッシアを見捨てれば、私は、何のためにお前を切り捨てたのか)


 全ては、アレッシアのために。

 メルアを守るアレッシアとは何か。何がメルアのためになるのか。


 人は、守りに入った行動だと馬鹿にするかもしれない。若い時と違うと言うのかもしれない。若い時ならばと言ってくるのかもしれない。


 だが、どうした。

 此処でアレッシアを離れ、失敗した結果メルアのための名誉も失うくらいなら。

 此処でアレッシアに残り、死のうともメルアのための名誉は守り抜く。幸いなことに相手はマルテレスだ。悪くはするまい。エスピラを守ると言う誓いは、その名誉にも適応されるのだから。


「悪い、マルテレス」


 声を、絞り出す。


「…………そうか」


 マルテレスも同じ。


「本当に、すまない」

 エスピラは、重ねて謝り、頭も下げた。

 左右の者の動揺も感じる。でも、どうでも良い。この頭は、親友に比べれば軽すぎるのだ。


「部屋を閉じろ! エスピラ様を帰すな! アレッシアを、我らの手に」

「やめろ!」

 吼えたインテケルンを、マルテレスの獅子哮が圧倒する。


「やめろ」


 次は、静かに。

 インテケルンが手を動かせば、後ろの足音も去るように鳴った。


「エスピラ」

 マルテレスは、笑っていた。


「馬鹿な話をするのは俺の役目だ。サジェッツァは斜に構えてばかりだしな。エスピラは乗ったり乗らなかったりだ。


 懐かしいな。サジェッツァはアレッシア全土から否定されても斜に構え続けてよ。第二次ハフモニ戦争の、サジェッツァが独裁官になった時さ。俺が陣中に酒を運んだ夜も余裕綽綽な顔しやがって。俺とエスピラが居なかったらお前も危なかったじゃないかってな。グエッラに言いように言われて、何も言い返さなくて。


 本当、今でも理解できないよ。

 でも、あの夜も楽しかった。


 いつも楽しかった。カルド島に来てくれた時も、本当にうれしかった。


 じゃあな、エスピラ。

 クーシフォスを頼む」


 今度は、エスピラの視線が落ちる。

 拳は硬く。右の爪は掌底に食い込み、肉を裂くほどに。


「私は、諦めるつもりはない」

 本当は、護衛に聞かせてはいけない言葉だろう。


「俺も、約束を忘れたことは一度も無いよ。だから、クーシフォスを、俺の子供達を頼む」


「ばかが」


 それだけ言うと、エスピラはペリースを翻したのだった。

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