夜の船 Ⅰ
「マシディリっ、さん」
月明かりしかない部屋でも、妻のきめ細かな首筋に浮かぶ玉のような汗がはっきりと見て取れた。同時に、マシディリ自身の汗も妻の絹肌に落ちる。
得も言えぬ感覚だ。
肌に当たって消えた汗でさえ、目の前の極上の女性に染み込み、交わり、自身のモノとしているような気すらしてくる。荒い息も、時折上がる顎も、それによって無防備となる体も。
(ああ)
顔を下ろす。赤く色づき、体温も随分と上がった妻の麗顔が眼前に広がった。すぐにその声をマシディリの体の中にしか入らないように塞いでしまう。
そこで、扉が叩かれてしまった。
べルティーナの体がびくりと動く。
マシディリは右手を伸ばして適当に何かを掴むと、何かも確認せずに扉に投げつけた。
子供達ならすぐに両親を呼んだはず。何より、妻に呼び戻される前に聞こえた足音は子供達のモノでは無い。
だから、マシディリはひとまず気にせずに動き切った。
まかり間違っても妻の痴態を想像されないように封じるのも忘れない。
「ばか」
へち、と弱弱しく胸部に拳がぶつかった。妻の息は荒い。
「すみません」
べルティーナが可愛すぎて、と苦笑しつつ妻の体にしっかりと布団をかぶせ切る。
最初は口論にもなったモノだ。
私の体に恥じるところは何も無いと隠そうともしないべルティーナと、妻の肢体を誰にも見せたくないと独占欲を発揮するマシディリ。今では互いに理解した上でべルティーナが譲歩してくれている。
その分、ある程度の後始末を一人で行うことに虚しさはあるが、手早く済ませるとマシディリは布を一枚纏った。剣を左手に掴み、扉を開ける。どうやら先ほど飛ばしたのは、そもそも投げるように用意していた木の球らしい。また一つ、妻に怒られることが減った。
「夜分に申し訳ございません」
扉から離れた位置で、レグラーレが膝を着いて首の後ろをむき出しにしている。
いつもは少しばかり残している『不敬』な部分は一切ない。過剰なほどに慇懃で、同時に畏怖していることも良く分かる空気を纏っている。
「何かありましたか?」
無ければ来ることも無いだろうが。
「スィーパス・オピーマがアレッシアを抜け出したそうです」
マシディリの右手が、横の壁に伸びる。肘から上をべったりと付ける形で押しつけ、のんたりと一度拳で横殴りするのと同時に上を向いた。
「行き先は恐らくフラシ。建国五門が部隊の招集をもできる土地を持っているのなら、オピーマも資格があるはずだと漏らしていたと言う声もあります」
「半島の外ならば、ですか」
「はい」
「実力を示せばあとはどうにでもなる、と」
「はい」
「フラシならば遠くだから別の国を建てたって良い、ともこぼしていたとは聞いていましたが」
「出来ると思っているのでしょうか」
「フィチリタを娶れなかった逆恨みも?」
「ああ。最近は、目がいやらしかったですからねえ。レピナ様が「気持ち悪いくらいにフィー姉と出かけると会う」と言っていましたっけ」
マシディリは顔を戻した。重心も戻し、壁から離れる。右手は鼻の下から顎までを拭うように動かし、顎の下で全ての指が合流する。
「このこと、父上は?」
「まだご存じないかと。人使いの荒い幼馴染のために昼夜を問わず昼寝して駆けてきましたから」
「寝ているじゃないか」
「寝るなって? うわぁ。鬼畜だぁ」
同じことを別の者が言えば、レグラーレが「不敬」と言って尻を蹴り上げるのだろう。
そんなことを思いながら、マシディリは緩んだ表情を引き締めた。
ひんやりとしている。大分温かくなってきたが、太陽が無ければこんなものだ。松明の類も無い。寝所に入ったころはまだ太陽の光が残っていたが、今はもう月明かりだけ。
もちろん星明りもあるのだが、月の光には及ばないのだ。
「情報の封鎖を。明日の昼には船に乗り込みます。父上には、ディティキに到着してから知らせが届くようにしておいてください」
「よろしいので?」
「海を渡ってしまえば軽々に引き返すとは言えないからね」
「ディファ・マルティーマで聞いてしまえば戻りかねない、と」
「楽しみに待っているユリアンナも可哀想だし、フィチリタ達も会いたがっているしね。べルティーナも、久しぶりに会えると喜んでいたよ」
「じゃあ、がんばります」
「頼みます」
しかし、レグラーレは立ち上がらない。
二秒ほど待ってから、マシディリは再度レグラーレに目を向けた。
「どうかしました?」
「スィーパスに対して、どうしましょうか」
そう言えば何も対策を打っていなかった、と思い直す。
「快速船を使って、ビユーディ様に捕縛するように命令を出しましょう。一筆はすぐに書きます。それから、マルテレス様にもスィーパス様を呼び戻す手紙を書いてもらって、インテケルン様にオピーマの他の者が追随しないように見張りと説得にあたってもらいます。
アルモニア様とファリチェ様に民会の再度の締め直しも依頼しておきましょうか」
「アルモニア様は、恐らくインツィーアに赴いている頃だと」
そうだった、とマシディリは人差し指を噛んだ。
タルキウスとの交渉である。元老院との意識の差が大きくなってきているのだ。
その穴埋めと、互いの意識のすり合わせ。それが必要だと判断したのは父エスピラとアルモニア、グライオの三者会談の結果である。無論、マシディリも同席はした。
「ファリチェ様をオピーマに」
呟くように言って、違うな、と思い直す。
「クーシフォス様とルカンダニエに連絡を入れておきます。それから、ズィミナソフィア四世陛下にはマヌア殿下の利用があり得ることを伝えておきましょう。サジェッツァ様には、くれぐれも軽率な発言および言葉足らずの発言をせず、パラティゾ様かティツィアーノ様を同席させて会談するようにと申し入れておきます」
全部、書状だけは用意してある手だ。
渡してこなかったのは、何も無い段階で渡すのは悪手だと判断したからこそ。
「道中に馬と物資の用意もしておきます」
「助かるよ。でも、第三軍団の分はまだ要らないかな。余計な刺激は与えたくないからね」
「マシディリ様は注文が細かい、と」
「レグラーレ?」
「申し訳ございませんでした」
一時間後に参ります、と言って、レグラーレが闇に消える。
足元に残されたのは、蝋燭。僅かな光源。
それを手に、マシディリは部屋に戻った。
部屋は廊下よりも明らかに湿気がある。淫臭とも言うべき独特の匂いも残っていた。同時に、愛しい匂いも濃く漂っている。
「何があったの?」
その中で、愛妻は背筋を伸ばした堂々たる姿に変わっていた。
先ほどまでは情欲を煽っていた美しい肢体も、今は芸術的な自信の象徴。非常に心強い女神のようである。
「スィーパス様が軍権を犯すかもしれません」
すらりと返し、寝室に置いてある蝋燭に火を移す。妻の呼吸に一度の変調があったが、振り返らずに机も取り出し、パピルス紙と葦ペンも用意した。
「それは、お義父様の耳にはまだ入れるわけにはいきませんね」
ぎし、と寝台がきしむ音がする。
べルティーナが降りたようだ。
「ええ。緊急時でない限り、最高神祇官である父上への連絡を待たずして軍事命令権が付与されることはあり得ませんから。
何より、フラシ情勢はひっ迫しておりません。フラシ人の自助努力でどうにかなる範囲です。そうであるならば、スィーパス様の行動は違法であり過剰な内政干渉として処理されると、そう、マルテレス様が止めてくれると信じております。
それに、万に一つでも、父上がマルテレス様とぶつかるようなことにはなってほしくありません。と、言うと、少しばかりアレッシアのためとは違うかも知れませんが」
マシディリの眉が垂れる。
想定していなかった話では無い。だが、馬鹿な話だ。
何をどうアレッシアのためにと謳ったところで、理解を示してくれる者はほとんどいない。軍団の準備もできるわけが無く、荒廃した土地では食糧の確保もままならない。確保できる地は、既に建国五門で抑えてある。アレッシアの街が食糧で満ちているのは、そのおかげだ。
「オピーマを案じるのなら、今は待つべきだ。マルテレス様が生きている内にと言っても、まだまだ大丈夫なのに。父上が居るのなら、マルテレス様も」
ぎゅ、と言葉の途中で愛妻に抱きしめられた。
あたたかな体温と、やわらかな感触がマシディリを包む。
「べルティーナ?」
「こうしていては駄目かしら」
「そんなことは無いけど」
右側へと顔が動かせないほどに、愛妻に抱きしめられている。
本当に、やさしい温もりだ。それでいて慈愛に満ちている。今や、べルティーナからしか感じ取れない感情だ。昔は多く感じて、それこそ母が、何かあるたびに抱きしめてくれていた。いや、何かあるたびにと言うよりもかなりの頻度で抱きしめられていたため、何かあった時も抱きしめられていたと言うのが正しいのか。
「開始は遅くても負けず嫌いで、たいてい最後まで残っていたのよね。狩りでも、釣りでも、追いかけっこでも。もしも、スィーパス様が幼き頃と変わらないと言うのなら、マシディリさんも幼い時と同じところがあるのでは無くて?」
言い聞かせるような声だ。
同時に、べルティーナの腕がしっかりと抱きしめ直すように位置を変えてもいる。
「仲が良かったのは昔の話だよ」
尤も、その昔ですら、マシディリの一方通行だった可能性もある。
「私は、甘えん坊の弟のために父親の傍を譲り、それでも父親の手を待っていた男の子を良く覚えております」
お慕い申し上げます。
静かな声が、マシディリの首に掛けられた。




