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ウェラテヌス隆盛記  作者: 浅羽 信幸
第三十二章
1251/1590

独立 Ⅰ

「断る」

 スーペル・タルキウスが、エスピラに対し敢然と言い放った。


「だが、それが命令ならば従おう」


 続く言葉は、カルド島時代から良く聞いた言葉。

 思えばあの時も良くは思われていなかった。それでも、エスピラが上司であったがために左遷のような命令にも従ってくれたのである。


「命令は元老院でなくては下せませんよ」

「手続きの上ではな。今のアレッシアではエスピラ様の発議がそのまま通る」


 至極淡々と。

 一世代上とも言えるタルキウスの重鎮が確実に詰めてくるように言葉を置いてくる。


「まさか。この前の交渉しておりましたし、プラントゥム改革案を進めるためにも交渉の毎日ですよ」


 対してエスピラは、もうあまりすることの無くなった低姿勢を貫いている。

 大きな恩があるのだ。もちろん、計画の障害になったこともある。それでも、受けた恩をかすませて覚えておくほどの恩知らずでは無い。


「誰もがエスピラ・ウェラテヌスの機嫌に逆らえない」

「要求を通している人が居るのに?」


「暴君では無いと言うだけだ。如何なる交渉があっても、結局はエスピラ様の意思が押し通る。オピーマも吞んだのだろう?」

「本当に私の意思だけが通るのなら、困りましたね。最近は歳の所為か我慢が利かなくなってきてしまいまして」


 スーペルの右目が僅かに細くなった。皺の増えた顔の深みが増していく。

 対してエスピラは、軽く首を振りながら上半身をやや前に出した。


「最近はアレッシアでもアレッシア語以外の言葉が聞こえるようになってしまったではありませんか。それが、どうしようもなく許せないのです。アレッシアでアレッシア語以外の言語が我が物顔で横行している。耳にした瞬間、話者を排除したくなってしまいます」


 最後は小声を装うように。普通の声量ながらひそひそと。


「していない時点で我慢が出来ている」

「そう言っていただけると少しだけ気が楽になります」

「思ってもいなさそうだがな」

「そんなことはありませんよ」


 相も変わらず剣のような雰囲気で構え続けるスーペルと、絹の布のようなエスピラ。

 布もエスピラも張っていないからこそ切られることは無く、ふわりとまとわりつくことができる。


「でも、こちらは私の本心だと信じていただけるのではと思っているのですが」


 元々伸ばしていた背筋を再度伸ばすように。覗き込むどころか入り込むようにスーペルと目を合わせる。


「アレッシア人の出世に、アレッシア語以外の言語が必要だと思いますか?」


 エスピラも、多くの人が理解できないような法を作ったこともある。

 しかし、多くのアレッシア人が分からない前提の言葉を使ってアレッシアのことを決められるなど、言語道断だ。


 その思いはスーペルにも伝わったのか。スーペルの雰囲気が鞘に納まるかのように少しだけ棘が消えたように思える。


「エリポス語の使用はエリポスによる支配、か。何の気なしに使っているのが最も性質が悪いとは良く分かっている。今であれば逆の方が相応しいともな」


 下手な冗談か、本気か。

 心の奥底の底までは分からないが、本気だと信じるには十分な声である。


 しかし、だからと言ってすぐに胸襟を開いて前に出られないのもスーペルと言う人物だ。


 この男は、エスピラの父と同世代。ほとんど前例のないエスピラの代理の軍事命令権保有者任命に際して、大きな影響力を持つ立場がありながらも元老院の決定を優先させている。命令に反したことも無い。反抗的に思える態度はあれども、報告を挙げたとて「受け取り方の問題」で片付けられる程度。


 故に、エスピラは無言でお茶の入った陶器を持ち上げた。


 口角だけをほのかに上げつつ、頭を傾ける。陶器は、肘を曲げたままでいられる程度に前へ。


 スーペルも陶器に触れた。


「だが、交渉窓口をウェラテヌスが独占しているように見えもするな」


 スーペルの茶は、前には来ない。

 瞬きの無い黒い目が、エスピラを圧してくる。


「では、発言するだけに留めておきましょう」


 反論など幾らでもある。

 そうはならない証拠だって挙げられる。

 意図の説明も完璧に出来る自信があった。


 それでも、言わず。

 エスピラは、腕を曲げると茶を口に含み、机に戻した。


「エスピラ様の提案通りに事が運べば、クイリッタのとこの子はアレッシアで出世できないな」


 スーペルがエスピラを見たまま陶器を持ち上げた。静かに茶が啜られる。顔は動かない。陶器だけが傾き、口に入り、喉仏が重々しく上下している。

 エスピラもまた、視線を切らなかった。


「そもそもアレッシア語を話せない者がアレッシア人と並んで軍靴を響かせることはあり得ませんよ」

「傭兵は雇っていたな」

「騎兵戦力は必要ですから。それに、アレッシアから軍団を派遣し続けるのは無理があります」


 物資的にも。時間的にも。

 もう、アレッシアの領土は半島外の方が多いのだから。


「褒美が金で済まなくなることがある」

「だからこそ、スーペル様のような方に初代属州総督を任せたいのです」

「余命が短いからの間違いでは?」

「それも、一因ではありますよ」


 音は無い。

 でも、「くっ」とスーペルが笑ったような気がした。そんな気がする、左の口角の持ち上がりである。


「主力はあくまでもアレッシア。出世に繋がるのも、アレッシア軍で戦果を挙げることができればこそ。他所の者達は、別の余所者に大きな顔が出来るだけ。格差を作り、統治を行わせ、嫌悪感をアレッシア人では無く大きな顔をしている他部族に向ける。


 何かを言われたとして、アレッシア語を話せないのであれば十全な意思の疎通が難しいからと言ってかわし、属州総督が意見を届ける形を取る。


 意見が通れば、属州総督の手柄。却下されれば元老院の横暴。そうして個人的な信頼関係を築きつつ、時期を見て元老院の手柄にも変えたりする。属州総督の交代は、重用される部族の交代機ともなり、緊張は継続され、アレッシアに頭を垂れる。

 と言ったところをお考えか?」



「だからこそ、スーペル様を初めの属州総督にしたいのです」


 一人、お茶の入った陶器をぶつけるようにあげる。

 無論、スーペルに動きは無い。それでも、エスピラは一気に茶を飲む動作をした。実際には呑まない。だから、喉仏も動かない。動かすこともしない。


「尤も、アレッシア軍を維持し続ける理由は他にもあります。

 歴史上、戦わなくなり、あるいは何らかの条件と引き換えに戦いから逃れられるようになり、戦えなくなった国家も存在しております。そのような堕落した国家にしたくはありません」


「主力はアレッシア。アレッシアのために命を懸けられる者しかアレッシアの舵取りを任せる気は無いと言うことか」


「はい」

「御尤もだな」

「守らねばならない一線でしょう」


「メルア様のためにという想いは無いとアレッシアの神々と父祖に誓えるか?」


 すぐに打ち返していたエスピラの返答が止まる。

 生じた普通の一拍すら、スーペルは待たなかった。


「命を懸ける者への敬意が欠ければ、九度の出産で十人の子を産んだメルア様への敬意も薄れることになる。命を懸けられる者しかアレッシアの舵取りを任せる気は無いと言う発言は、妻のために出た言葉では無いな?」


 エスピラは、まずはつま先と指先に意識を飛ばした。


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