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ウェラテヌス隆盛記  作者: 浅羽 信幸
第三十二章
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これからのアレッシア Ⅰ

「あと少しだよ、メルア」


 棺に手を伸ばす。

 そこには亡き妻のぬくもりなど無ければ、亡き妻のやわらかさも無い。ただの硬い棺だ。


 それでも、エスピラの指はやさしく、生前の愛妻を扱うように丁寧に這っていく。


「あと少しで、理想に手が届く」

 報告しながら、エスピラは口角をゆるく持ち上げた。


「そう」だの、冷たい視線だの。メルアは、大した反応は見せてくれないだろう、と。きっと内心は喜んでくれているが、それ以上に自分が共に居る時間が増えることを喜んでくるのだろうか。喜んだとしても鬱陶しそうにするのだろうな。そんな思いが、笑みとしてこぼれてしまうのである。


「エスピラ様」

 らしからぬ誰もが聞き取れるほどの足音と共に、ソルプレーサが入り口に現れた。


「そろそろ行かないと、時間に間に合いません」


 ソルプレーサが中に入ってくることは無い。

 足を止め、入り口で恭しく待っている。


 エスピラは、最後の最後まで指先を残すように着けながらも棺から手を離した。


「行ってくるよ」


 亡き妻に告げるも、顔はしばらく動かない。

 急かす言葉も飛んでくることは無い。「なに」なんて、メルアならば言っただろうか。


 会いたい、なんてのはメルアの望む言葉では無い。もうすぐ会える訳でも無い。まだしばらくは頑張らないと、ただただ無言で見つめられ続けられるだけだろう。


「立ち止まっても良いけど、決して座りこまないで、か」

 きついねえ、と言う言葉は、誰にも届かぬ程度、自身にすら届かないようにして。


 右手を、鼻の線から顔面の左上に。拭うように横断させれば、エスピラは表情を戦闘用の物に切り替えた。堂々とした足取りで亡き妻に背を向ける。


「待たせたね」

 芯のある声でソルプレーサに告げ。

「行こうか」

 すぐにソルプレーサを追い抜いた。


 シニストラが流れるようにエスピラの後ろに着く。三人の行き先は最早使い慣れたと言うべき処女神の神殿だ。エスピラやマシディリが信奉している運命の女神の神殿で行おうかとも考えたが、余計な誤解を招きかねないとして、今日も今日とて処女神の神殿なのである。


 エスピラ達がたどり着いたのは、処女神の巫女や神官がパン配りをしている時間。


 これを機に、これ幸いと話しかけてくる者達と一言二言だけ人受けの好い笑みで会話しながら、エスピラは足を止めることなく屋根の下へ。常駐の神官とはもう少しだけ長く話し、巫女からパンを受け取って数名にだけ配る。彼らの喜びようは、頭を垂れて膝から崩れ落ちそうな程だ。


「皆に、アレッシアの神々と父祖の加護を」


 朗らかに、そして良く通る声でエスピラは来た者達に告げ、中に入っていった。


 爆発した熱気は此処にも聞こえてくる。実際の温度としても、炎を祀ってあるためか外よりも温かい。いつもより冷え込む今日のような日には良い場所だ。無論、暑い夏は本当に大変なのだが。


「お疲れ」

 エスピラが室内で声をかけたのは、ティベルディード。

 背筋を伸ばし、返事をくれるがその前までは指先を掌底にこすり合わせていた。鼻先も少し赤い。口の動きも、普段より大きく動かしているように見えた。


 そんなティベルディ―ドの肩に手を置き、近くにいた者に酒を少量振舞うようにと頼む。ティベルディードに渡す際は、人差し指を立て、唇に当てた。


 感謝を背に、さらに奥へ。


 レグラーレが守る部屋を見つければ、礼をした後でするりとレグラーレが中に入っていった。

 エスピラの到着に合わせて扉が開く。ぬわり、と温かい風が肩から足元へ落ちるように湧き出て来た。


「おや。私が最後かな」


 苦笑しながら室内へと足を進めたエスピラと入れ替わるように、アルビタが外に出た。

 ソルプレーサ、シニストラと室内に入り、外にいるレグラーレとアルビタが扉を閉める。


「じゃ、エスピラの奢りってことで」


 マルテレスが白い歯を見せて呵々と笑う。

 マルテレスに同意するように口元を緩め、頭を軽く上下に動かしたのはマシディリだ。


 対して、クイリッタはマルテレスに厳しい目を向けており、スィーパスも険しい視線をエスピラの近くに落としていた。クーシフォスは「父上」と小さく言っている。太腿の僅かな動きから見るに、つま先でマルテレスの足を刺激したのかもしれない。


「広場で良いかい?」

「貸切るのか?」

「まさか。屋台のどれかで良いだろう?」

「鶏知だなあ」

「サジェッツァは、良く私の孫を広場に連れて行っているよ。好みを把握するためにね」

「それは孫と話すためだろ? エスピラのはただの鶏知。な」


 マルテレスがマシディリに話を振った。

 マシディリが笑みを浮かべる。右手は、口元に。


「一つとは言っていませんから」

「おお!」

「一つだ」

「おお」


 声量を一気に落としたマルテレスに対し、エスピラは「そもそも遅刻はしていないからな」と席に着いた。

 やわらかい椅子だ。少し沈むが、それでも姿勢が砕けるほどでは無い。


「それに、持ってきた条件は鶏知では無いぞ?」


 左に配置された椅子に座るクイリッタが目を鋭くした。視線は、誰かに向くことは無い。やや下気味で、見えている者達の手を観察しているようだ。


「スィーパスとプノパリアの護民官選挙の手伝いをしよう。それも、年を変えてオピーマの者が護民官として居続けられるように考えて、ね。アスフォスは無理だが、その気があるのなら他の子供達を支援しても良い。マヒエリとかね。母親がカルド島の者だけど、ソリエンスも推薦する用意があるよ」


「おお。それは大盤振る舞いだな」

「代わりに何を求めるつもりでしょうか」


 マルテレスの喜びの声に重ねるように、インテケルンが声を大きくした。

 それでもマルテレスの声がはっきりと聞き取れるあたり、喜びようが見て取れる。


「護民官には、既にエスピラ様の枠とも言うべき当選確定の枠がございます。不定数ではありますが、そこにマルテレス様のご子息を入れ、何を求めるつもりなのでしょうか」


 マルテレスの上がった頬が戻っていく。

 それでも口元は緩く閉じられているだけ。エスピラの方を見れば、眉を上げて目を大きくしてきた。


 発言者のインテケルンは、マルテレスの様子に気づいているだろうが目をやることは無い。


「これからのアレッシアのために必要なことを求めるだけだよ」

 エスピラは、背もたれの方へ体を少々動かした。


「父上。それでは不信感を持たれるだけです」

 苦言を呈してきたのはマシディリ。

 義理の娘を思い浮かべるかのように、エスピラは背筋を伸ばす方へ体を戻した。



「今のアレッシアは拡大戦略によって支えられているからね。身も蓋もない言い方をしてしまえば、拡張先が無くなれば崩壊する成長をしている訳だ。


 それを変える。


 広大な支配領域を繋ぐ役割としてね。より安全に遠く物が手に入る。これを価値が下がると取るか生活が安定すると取るかは人それぞれだが、今のアレッシアだからできることだと思っているよ。


 海賊を討伐し、武威で以て山賊も減らした。大規模な敵対国家も無い。

 何より、海運に手を出していたオピーマが有力な家門として君臨している。まさに好機じゃないかい? 神のお導きとすら思えるよ。


 だろう? マルテレス」


「あー、ね。そーいうことか。もう一回海運を押し出させる代わりに、アレッシアの中枢に関わり続けられる土台を用意するよ、みたいな?」

「そう言うことだ」


 話が早くて助かるよ、とエスピラはマルテレスに対して片目を閉じた。


 国家事業としてなら、そこまで気を遣わなくて良いんじゃねえか? とマルテレスが笑いながら茶の入った陶器を持ち上げる。オピーマのこれからとしても悪くないしな、と目じりも下げて。


「それだけでは無いはずです」


 ただ、朗らかな空気を纏っているのはエスピラとマルテレスだけ。

 最も対極な空気を纏っているのは、エスピラの発言を否定したインテケルンと、ずっと黙っている二人の次男である。

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