守るべき景色
「は」と「ほ」の中間の声がした。
「父上!」
愛息の元気な声と共に、愛娘が突進してくる。
ぴょん、なんて、五歳になるソルディアンナが飛べば、立派な破壊力も伴うのだ。
マシディリは左膝を着いて、しっかりとソルディアンナを受け止めた。ラエテルが妹ごと包むように抱き着いてくる。
たたたた、と遅れて来たリクレスは、マシディリでは無くラエテルの足にしがみついた。
「おかえりなさい!」
そんなリクレスも顔は満面の笑みで、マシディリに向けている。
歓迎してくれているのは間違いないだろう。兄弟に挟まれながらも上下にぴょこぴょこ動き続けているソルディアンナは、あのねあのねと今にも話し始めそうだ。
「じゃあ、あとはお二人で」
ソルディアンナを止めたのは、そんなラエテルの声。
にやにやと笑いながら弟妹の手を引き、そそくさと離れていく。「母上良かったねー」なんてのんきな声を出せば、遅れて来ていたべルティーナの眉が下がっていった。
飛び込んだソルディアンナへの苦言も同時に下がっていったらしい。母の腕の中でぴょこぴょこと手を振っていた次女のヘリアンテも乳母に連れ去られる。
(父にこだわりは無しかあ)
流石にたまに来る男の人程度の認識では無いだろうが、少々離れすぎてしまったか。
ヘリアンテが元気な様子なのが、余計にマシディリから力を奪っていく。
「良く分かってないだけよ」
おかえり、とべルティーナの笑みが続いた。
ただいま、とマシディリは手を伸ばし、べルティーナを抱き寄せる。
あたたかい。
やわらかな体温と、ほう、と余計な力が抜けていく感覚。できることなら、このまま抱きしめ続けたいとすら思えるほどに。匂いも、非常に落ち着くものだ。ひと段落を心の底から感じることができる。
「アグニッシモの馬鹿」
「叔父上だめ!」
クイリッタの怒声が聞こえてきたが、それより近くでラエテルの声がした。クイリッタの声が止まる。足音も、しないか。
「ラエテル」
「あ。じゃねー」
近くにいるのだからと呼ぼうとすれば、ひょこ、とラエテルが顔を出してまた去っていった。
ソルディアンナの嫌がる声が聞こえる。我慢して、と言うラエテルの声は、どんどん離れていった。
「えっと、あれは、何が?」
あれ、が何を指すのか。
発言者であるマシディリも様々なことを指し過ぎて困ってしまうほどだ。
「クイリッタさんでしたら怒っているフリをしているだけよ。アグニッシモさんの復活に誰よりも喜んでいたのでは無いでしょうかって、ディミテラさんから手紙が来ているもの」
「ディミテラから?」
「ええ。義妹ですから」
年齢はディミテラの方が上なのだが、べルティーナは躊躇なく言いきった。
つまるところ、ディミテラはクイリッタの正妻では無く愛人であることも踏み越えて認識しているのだろう。
「それから、あなたにもお叱りが飛ぶと思うわ。怒っていたもの。アグニッシモは政治力が無さすぎる。兄上は、アグニッシモを叱らなさすぎるって。ラエテルとセアデラにこぼしていたわ」
「それは困ったなあ」
苦笑しつつ、愛妻からゆるりと離れた。
右手だけはべルティーナの背に回したままである。
「ラエテルは?」
べルティーナの真っ直ぐな目が、僅かに弱くなり横に逸れた。
顔もほんのわずかに下がったか。もちろんすぐに、とはいかず、珍しい間があってべルティーナの顔が戻ってきた。目は、戻ってこない。
「父上が、余計なことを言ったの。私が二十一になるまで子を作るつもりは無かったって。
お義父様もマシディリさんもいないウェラテヌス邸に上げる訳無いのだから、会うことも無理だって断っても良かったのに、子供達に免じて仕方なく広場でなら会っても良いって言ってあげたのによ? 酷いと思わない? いつも言葉が足りないのだから、黙っていれば良いのに。
それでラエテルが自分は愛されていない子供なんじゃないかって悩んでしまったのよ。本当に許せない」
マシディリは、そうだね、と口には出さず、それでも同意の雰囲気を作った。
べルティーナが此処まで直接的に怒りをあらわにするのは、それこそ父であるサジェッツァに対してくらいだろう。
「でも、きちんと『違う』って伝えたわ。予定とは確かに違ったけど、予定を守れないほど、その、私とマシディリさんが愛し合ったから授かったのだって。そしたらあの調子よ」
私とマシディリさんが愛し合った、のところでやけに声が大きくなり、最後は唇を尖らせるように小さくなった。
(ラエテルに聞こうかな)
きっと、べルティーナからの惚気話がもっと聞けるはずだから。
そんな邪な気持ちを察知されたのか、「マシディリさん?」と手を軽くつねられてしまった。
「災難なのはわかるけど、ラエテルがサジェッツァ様と遊びに行くほど打ち解けてきて良かったよ」
「ソルディアンナが会いたいって言うからよ」
「それだけでべルティーナが許可するとは思えないけどね」
「ええ。ラエテルも。多分、望んでいたんじゃないかしら」
(もう少しかな)
べルティーナとサジェッツァが、もっと打ち解けるまでには。
ただ、母と祖父の様子に影響を受けずにソルディアンナが遊べているのなら、リクレスやヘリアンテも問題なく母方の祖父と遊べるだろう。
「仲良くなったのなら良かったよ」
「それで余計な話をされ続けたらたまらないのだけど?」
「まあまあ」
宥めつつ、べルティーナの顎に手を添える。
静かにあげ、顔を近づけた。
やわらかい。
久々だと、これほどやわらかかったのか、と感動するくらいに。
最初は軽く啄む程度。二度ほど交わしてから、しっかりと合わせ、舌を入れた。ねじ込むようにしたが、愛妻の熱い口内も簡単に受け入れてくれる。
(ああ)
かわいい。
綺麗だ。
本当に。
(愛おしい)
左手を、弾力がありながらも筋肉を感じ取れる太腿へ。衣服を捲るように指を動かせば、少々強めの力で叩かれてしまった。
口も離れる。
少々荒くなった息と、熱くなった体温。上気した頬。
それでも、愛妻はやや強めに睨んできている。
「駄目よ」
「気を遣ってくれたのに?」
「子供達だってマシディリさんを待っていたのよ?」
そう言われると、弱い。
マシディリは密着させていた体を放した。少しだけ冷たい風が、湿った部分をより冷たく乾かしていく。
「私は、子供達よりは遅く起きているのだから」
そう言いながらも、べルティーナの左手もマシディリの衣服をしっかりと掴んでいた。
「この手は?」
右手を伸ばし、べルティーナの手をやさしく包む。
「ふふ。なんでしょうね」
悪戯な愛妻には、当然報復を。
もう一度怒られるまでたっぷりとべルティーナ成分を補充したマシディリは、続けざまにクイリッタに叱られてしまう。
ただ、それすらも幸せだ。幸せに感じる。
これから、待ち受けることが何であれ。
家族が笑っているのが、マシディリは好きなのだ。




