見えぬ敵 動くか、動かざるか
朝焼けと共に映し出されたのは、心なしかいつもより静かな平野であった。
襲撃に備えていた兵は未だに緊張感を持った眼差しで壁下を睨んでいる。カルド島の兵や他の場で経験のある兵はまだ涼やかな顔をしているが、経験の浅い兵は唇が薄く開き、肩の動きも少し大きくなってしまっていた。
既にレコリウスも出撃し、交代となれる兵は少ない。寡勢で多勢を迎え浮かなければならないと言う気負いに追い詰められている兵であっても簡単には下げられないのだ。
「戦場に立つ上で最も難しいことは何だと思う?」
エスピラは、そんな兵の中でも剣の柄を硬く握りしめている者に声を掛けた。記憶が確かなら、騎兵として軍団に加わった者である。
兵は一瞬気が付けていなかったが、遅れたように体を弾かせエスピラを見た。すぐに目が逸れる。
「は、はい。えと、相手に気づかれずに攻撃を加えること、でしょうか」
「そうだな。それも確かに難しい」
エスピラは、ゆっくりと少し低めの落ち着いた声を心掛けて、続けた。
「だが、今のように来るかも分からない敵を待ち続けることもまた難しいことだ。味方はいつ来るのか。そもそも来るのか。もしここで自分たちが負けたら味方はどうなるのか。家族はどうなるのか。
この場には不安要素しか無い。
それでも、踏みとどまるしか無いのだ。解決するかも分からないのに戦い続けるしか無いのだ。
間違いなく、今は苦難の時期である。
しかし、だ。そんな苦しい今を乗り越えられた君たちは、間違いなくアレッシアでも有数の漢だと言える。断言できる。
胸を張れ。
此処にいる者たちは、皆強い。素晴らしい漢になった。
君たちは、何よりも強い誇り高きアレッシア人だ」
朗々と声を張ると言うよりも、滔々と染み渡るように全体に広がる声で。
エスピラは全軍に言い聞かせると口を結んだ。
堂々とした仕草でペリースを風になびかせながら歩き、壁の上に持ってこさせた泥で作った地形図の前に立つ。
(ソルプレーサとシニストラは堪えたが)
平野と言う盤面では間に居た者たちが釣られて陣が空になっている。今はレコリウスらが埋めているが、以降の詳報はまだ届いていない。
厄介なのはその上流。大規模渡河地点を見張る位置に当たるフィガロット・ナレティクスの陣。
グライオからの報告では渡河の痕跡が残っていたのにも関わらず、誰も出撃しようとしなかったらしい。
側面を突く、少しおどかす。戦うふりをする。
そう言った行動を取るべきであったのにハフモニの軍が動くのを見逃したのだ。
とは言え、完全に責め切れる行いでも無い。命令を遵守したと言われれば、それまでなのだ。陣は落とされることなく戦うことなく過ごしたのは命令通りの行動なのだ。
(忠実過ぎるのも問題だな)
指を、アグリコーラの方へ動かす。
グライオが独断で探ってくれた結果、グエッラも騎兵隊長ボストゥウミも出撃済みだ。もちろん、一部の兵は陣に残してはいる。
他にも釣られた兵は多く、あるいは半ば分裂するような形で兵が出撃した陣すらある。
この時点で完全に敗北と言って良いだろう。
まだ何とかなる見込みがあるとすれば、サジェッツァが挑発に乗らなかった場合。そして、サジェッツァを引きずり出すことに失敗したマールバラがまた平野で右往左往し始めた場合。
サジェッツァの命令を無視した結果、アレッシアの軍団が害を被ったのだとすればこれからがより上手く行く。
「アグリコーラが気になりますか?」
ボラッチャがエスピラから少し離れたところに立って聞いてきた。
少し離れてはいるが、会話には十分な距離であり不意を突くのは不可能な距離である。
「アグリコーラよりも、マールバラがどこに居るのかが掴めないことの方が気になるな」
「斥候を放ちましょうか」
夜の闇も消えましたので、十分に役割を果たしてくれると思います。とボラッチャが続けた。
「増やすか」
「その方が、よろしいかと」
ボラッチャの言葉にエスピラは頷き、斥候を放たせた。
既にある程度放ってはいるが、討ち取られている可能性もあるのだ。
ボラッチャの提案は、的を射ているだろう。
「エスピラ様。夜に始まったのにも関わらずもう日が出ております。戦いが始まっているのにこれほど長い時間静かなままとは、私でもあまり記憶にございません。エスピラ様とパラティゾ様と言うアレッシアの未来を担う方々がこのような経験を早々に積めたことは、アレッシアにとって非常に幸運だったと、私は思います」
指示を出し終わって戻ってきたボラッチャが言った。
「そう言ってくれるとは嬉しいね」
言って、エスピラは盤面を睨んだ。
捉えられない、と言うことはどういう行動を取ったのか。
松明の大移動の時には既に居なかった?
暗闇の中を月と星の明かりだけを頼りに移動するようなことが大軍で可能なのだろうか。
既に離脱した?
どこから?
アレッシアに抜けるなら、エスピラの居る街を抜くか近くを通る必要がある。
南方に行くには距離がある。フィガロットの陣の傍を渡河する必要が無い。
再び山を越えたとして、道中のひもじい記憶と一度奪った場所を再び、今度はさらに荒れた状態で奪い返さざるを得ない落胆をまとめ上げる統率力があるのか。
(あってもおかしくは無いか)
対アレッシアにおいても纏まり切らなかった北方諸部族を率いてここにきているのだから。
少なくとも、自分よりは格上であるとエスピラはもう一度心に刻み込んだ。
ただ、それでも厳しい選択だろうとは思う。
「サジェッツァの前を通る勇気があると思うか?」
エスピラはボラッチャに向けて呟いた。
「最大の兵力が高地を抑えているのです。簡単な話では無いかと思います」
ボラッチャは不可能だとは言わなかった。
「ですが、これまでのマールバラの戦略からマールバラは自身の戦術に絶対の自信を持っているようにも統率力を誇っているようにも見受けられます。エスピラ様の言う通り、執政官になり得る者たちを調べていたのならば戦術面で警戒すべき相手はもうほとんど居ないことも頭にあるでしょう」
「父上に苦しめられているのは事実では?」
珍しくパラティゾが人の話の途中で言葉を発した。
ボラッチャはそんな若者の言葉に不快感を一切示さず、逆に同意を示すような頷きを返している。
「その通りです。サジェッツァ様の戦略にマールバラは苦しめられております。ですから、サジェッツァ様を排除しようと動くはず。排除したいはずです。
そうなると、今は絶好の機会では無いでしょうか。
四万の軍団を率いていたサジェッツァ様は今は五千。対してハフモニ軍は五万近く。アレッシア側で近くに居るのはサジェッツァ様と反目しているグエッラ様やボストゥウミ様の軍勢ならば、すぐには駆けつけてこないでしょう。
戦術に絶対の自信を持っているならば、引きずり出すか、あるいは無理矢理陣地攻めを決行する可能性も捨てきれません。
我々は、マールバラが陣地を攻めてこないと言う考えの下行動し、配備しておりましたから」
エスピラは、軽く自身の右手人差し指を噛んだ。
その間にもパラティゾから素早い視線を浴びせられる。
「お得意の撒き餌戦法か」
タイリーには勝てる軍勢。
バッタリーセらには小規模すぎる勝利をたくさん。
そして、サジェッツァには自身の戦略への確信。
「あくまで、可能性の一つですが」
ボラッチャが結んだ。
「エスピラ様!」
パラティゾが切羽詰まった声を出す。
「出せる軍勢などどこにもいない。此処にもしものことがあれば、アレッシアまで道が繋がるのだ。それでは意味が無い。私もサジェッツァも、アレッシアを守るために戦っているのだ」
あえて最初は強く否定して、それから諭すような口調に切り替えた。
パラティゾも黙る。
唇は噛み締められ、変色し、血が今にも垂れそうである。それでも何も言い返さないのは、分かっているからだ。理性で理解しているからだ。
何のために父であるサジェッツァが戦っているのかを。一番大事なことは何かを。
エスピラは気づかれないように小さく息を吐きだすと、再び盤面に目を落とした。
「エスピラ様。五十騎で良ければ、推薦したい者がおります」
そんな、一息ついたタイミングでボラッチャが切り出してくる。
「武に秀で、馬の扱いも非常に上手く戦場でも周りをよく見ることのできる者です。戦闘になっていれば素早くこちらに連絡を寄こし、同時にハフモニの側面を突いてくれるでしょう。申し訳ありませんが陣地作戦は既に崩壊しております。もしもの場合はエスピラ様が、シニストラ様やソルプレーサ様、グライオ様とアワァリオ様を引き連れて加勢しても問題は無いかと」
戦闘になっていれば、の話である。
ただ、それでも軍団長でもない者が命令を違反して軍勢を集めて独断で軍事行動を起こすのはアレッシアでは咎められる行為だ。罰が確実に下る行いだ。
だが、それでも。
(アレッシアのためにも、サジェッツァは失うわけにはいかない)
友としての心配と、名門としての責務と。
一致するのであればエスピラの迷いも晴れる。
「その者の名は?」
「カウヴァッロ・グンクエス。エスピラ様より一つ下の、スタド出身の若者です」
スタドはアグリコーラ近くにある小さな街だ。吹けば飛ぶようなモノではあるが、一応壁のある街である。
「ボラッチャの目と、カウヴァッロに全てを任せる」
ちらりと浮かんだマシディリの顔を奥に沈めて、エスピラは下知を発した。




