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ウェラテヌス隆盛記  作者: 浅羽 信幸
第三十一章
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万難を排し、君に穏やかな未来を Ⅰ

「あむ! あむ! あむ!」


 ぴょん。ぴょん。ぴょん。と、三歳になるコウルスが跳ねた。顔を上に向け、跳ぶたびに口をぱくぱくと動かしている。狙いの先にあるのは母であるチアーラの手だ。何かをつまむように持っているが、手の中は空。絹で覆った三人掛けの椅子に腰かけ、ややけだるそうに息子に構っている。


(母上に似たなあ)


 表情は如何にも面倒くさがりながら、であるが、腰かけている位置は浅い。目もコウルスから離れることは無く、動かしていない左手は半分より右側。すぐにコウルスに伸ばせる位置にあった。足も淡くかつ溜めを作ってある。


「それは、何をしているのかな?」

 マシディリは、此処まで案内してくれた奴隷に手で礼を示しつつ、妹に尋ねた。


「釣られる魚ごっこよ」


 呆けるように口を開け、マシディリは眉に山を作りながら顔を上下させた。

 コウルスは元気いっぱいに跳びはね、母の手に食らいつこうとしている。


「足腰の鍛錬にも良いのです」


 すっかり流暢になったアレッシア語でモニコースが言った。

 そんなんじゃないわよ、とチアーラがきつい口調で言うが、モニコースに気にした様子は無い。


「元気だね」

「げんきです!」

「手に余るくらいよ」


 叫びながらもコウルスが最大の跳ねを計測した。

 手を食われたチアーラは、そのまま息子の口に含まれた手を下ろしている。


 釣られた魚、と言うよりも、魚に餌を奪われた釣り人ごっこ。いや、それでは遊びの主体がチアーラになってしまうのか。


「大きくなったな」

「おじうえも大きくなりましたね!」


 なるほど。

 コウルスは、良く言われているのだろう。


「あらあら。伯父上は変わってないわよ」

「威厳が増したのが分かるのか」


 どうやら、モニコースにもやや親馬鹿の気質があるらしい。

 自分のことを棚に上げ、マシディリはそう判断した。


「そろそろ」

 そして、表情をやや引き締める。

 チアーラがコウルスの口から自分の指を抜いた。


「さ、母上は伯父上と大事な話があるから。ヌンティヌスに遊んでもらいなさい」


 ぽん、とチアーラがコウルスの背中を押した。


「ううん。遊びません」


 意外と強く押しているらしい。

 コウルスがつま先をあげ、背中にある母の手に体重を乗せ始めた。チアーラの体が前に出る。片手では無く、両手で我が子が転ばないように支える体勢に変わり始めた。


「コウルス」

「ううん。遊びません」

「もう何度目かしら」

「ううん。遊びません」


「良い加減にしなさい」

「あーそーびーまーせーん!」

「じゃあ、母上も遊ばないわ」

「ははうえとあそぶー」


 くるりと体を回し、コウルスが華麗にチアーラの手をかわした。そのまま滑らかに間合いに滑り込み、チアーラの両足に抱き着いている。


「コウルス」


 ぐい、とチアーラがコウルスの頬を横に伸ばした。

 やわらかいほっぺたが、予想外に良く伸びる。これすらも遊びなのか、コウルスが、きゃっきゃと笑い始めた。


 チアーラが、肩を落としながらため息を吐く。

 しかし、決してコウルスを無理矢理引きはがそうとはしなかった。


「ねえ」

 代わりに昏い視線が向かった先は、家内奴隷。


「兄上が立ちっぱなしなんだけど」

 マシディリは、すぐに家内奴隷に右手を向けた。


「気にしないでください」

「申し訳ありません」


 声が被る。

 さらに冷たくなった空気に、家内奴隷が頭をさらに深くした。


「立ちっぱなしで大丈夫ですよ」


 マシディリはやさしく告げ、右手を軽く振った。

 部屋の外にいたらしい家内奴隷が、慌てて椅子を持ってくる。やわらかい座布団も一緒だ。


 座ろうと思えば他にも座る場所はある。だが、それを言って彼らの仕事を潰すことを申し訳ないと思うのも事実だ。


「ありがとうございます」


 だから、礼を言って椅子に座る。

 コウルスは両手をチアーラの膝にのせ、つま先立ちを繰り返していた。チアーラも再び手を作り、コウルスの前に垂らしている。


「コウルスに、婚姻をって?」


 ただし、これまでと違って本題に入った。

 コウルスがマシディリに顔を向ける。その瞬間、チアーラの手がコウルスの額を小突いた。コウルスの顔がチアーラの手に戻る。ひょこひょこと上下する手に、ぴょいやぴょいやとコウルスが食いつき始めた。


「誰から?」

 聞いたのか。

 マシディリが相手方と話をまとめたのは、つい先日のことだ。


「当たりなのね」


 確証はなかったらしい。

 見事に引っかかった、と言う訳だ。


「流石だね」

 手を挙げるしかない。


「クーシフォスの娘をコウルスに、ってとこかしら」

「本当に、流石だね」


 手を、挙げるしか、できない。

 完全な読みきりだ。降参である。


「別に。大したことじゃないわ」


 素っ気なく言っているが、挙げた手が高すぎたらしい。コウルスがチアーラの膝をかわいらしく叩いている。


「十万のトーハ族が攻め寄せてくるからってメガロバシラスから救援要請が来たんでしょ? しかも、ご丁寧に父上か兄上を指名して。大変な中で、わざわざ兄上が来る理由なんて僅かじゃない」


「かわいい甥の顔が見たかったからかもよ」

「そこは妹って言ったら?」


「もちろん会いたかったよ、チアーラ」

「べルティーナさんに言いつけてやろ」

「ソルディアンナに何か言われそうだ」

 その結果、べルティーナがソルディアンナに乗るかどうか。


 まあ、言う状況次第だろう。状況次第では、ラエテルとソルディアンナと共謀してマシディリをからかってくるのだ。

 まだ小さいから参加しないが、その内下の二人も加わるのだろうか。


「まあ、婚姻だってわかったら、後は楽よ。

 フィチリタが結婚する歳の男じゃないってだけで大分絞れるし、兄上に四人も子供達が居るのに使おうとしない。セアデラでも無い。なら、ウェラテヌス本流とは放したい相手。


 でも、兄貴でもスペランツァでも無く私のとこに来た。なら、必要なのはドーリス王家の血。


 となると、エリポスに憧れを持っている家門で、なおかつそれなりに高位の結婚を求められる家門。


 ね。クーシフォス・オピーマのとこでしょ?」


「父上がいたらべた褒めしそうだね」

「やめて」

 ふるふるふる、とチアーラが肩を竦めた。ただし、頬はやや緩んでいる。


「それに、褒められるのは兄上もでしょ」


 チアーラの手が、明らかに釣り糸はしない横跳びを始めた。

 コウルスも髪を振り乱しながら母の手を追っている。



「良い手だものね。


 コウルスはドーリスの王族でもあるのだけど、オピーマとの結婚は継承の否定になるし、継承を否定すればドーリス王族だって安心するでしょ? 


 それに、兄上の子を使ってしまうとオピーマの継承問題に干渉しているようなモノだけど、コウルスなら言い訳だって幾らでもできる。ドーリス王族と繋がれるのなら、オピーマも否定しづらい。否定する者は言っていることをころころと変える相手。


 遠慮なく裁判で叩き潰せるものね」


「兄上と、仲違いでもありましたか?」

 モニコースが前の方へと座り直した。

 この場合の兄上は、ドーリスの新王を指している。


「いえ。個人的には良い関係を築けています。ただ、個人的な関係は大きな力の前では無意味なこともありますから。担ぎ上げられる可能性を減らしておこうと思っただけです」


「私もその方が安心だわ」

 ぱくっ、とコウルスがチアーラの指に食いついた。


 チアーラが身をかがめ、コウルスの背中に左手を巻き付ける。母が持ち上げるのに従って、コウルスもチアーラの膝の上へと自由になっている手足を使って上がっていった。


「この子も、ドーリスの王になる資格があるもの。嫌ね。そんなもの、要らないのに」


 ぎゅ、とチアーラがコウルスをマシディリだけでなくモニコースからも守るように抱きしめた。


「ははうえ?」

 心配そうな声をあげながら、コウルスも手をチアーラの背に精一杯伸ばす。


「大丈夫よ。母が貴方に降りかかる災難の全てを打ち払うから」

「うんっ!」


 第一子がまだまだ幼いうちに起きた大地震。

 それが、今のチアーラを形成したのだろうか。


 答えは分からない。だが、それは、大きな愛情と言うよりは少し歪んだ愛に思えてしまった。

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