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ウェラテヌス隆盛記  作者: 浅羽 信幸
第三十一章
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メガロバシラス、前宰相

「大変なことになっておりますな」


 最初に会った時よりも大きくゆっくりとした声と共に、メンアートルがエスピラの駒の一つを自身の駒で倒した。


 場所をどけ自身の駒を置いてから、倒れたエスピラの駒をゆっくりとつまみ、盤外に置く。どうぞ、と言わんばかりに手を机の下に戻し、蓄えた髭の中に口を隠していた。


「私も人のことは言えませんよ」


 駒と陣地をすぐに取り返そうとはせず、エスピラは左側に自身の駒を固める。盤上の駒を寄せたような形だ。最も大事な駒と激戦地が近くなりやすいが、攻め込むメンアートル側はどうしても駒の総数が少ない状態で戦うことになる。


「メルア様と共に死ななかったのは、誤算でした」


 死んでくれればよかったのに。

 その思いを隠そうともせず、メンアートルが盤上をのぞき込む。


 長考が増えているのはメンアートルだ。エスピラは、自分の手番では時間をかけずに打ち返している。


「マシディリの方が手強いですよ」

「なんの。ユリアンナ様とクイリッタ様が長らくエリポスから引くのが確定的ともなれば、やりようは幾らでも」


「どうですかね」

「メガロバシラスを守るために、私はエスピラ様よりも先に死ぬわけにはいかないと言うのに、この老体に対して持久戦を仕掛けるとは性格の悪さは変わらずのようで」


「アリオバルザネスを殺したのはメガロバシラスでしょう」

「馬鹿な奴等だ」


「そんな馬鹿よりも、私とマシディリなら貴方をもっとうまく活躍させられると思いますが」

「宰相相当位以上に稼げる場所なんてありませんからな」


「嘘つきめ」

「はは」


 髭を二度なぞり、こういたしましょう、とメンアートルがまた攻め込んで来た。

 エスピラは最前線になりそうな駒を一気に左に振る。まだまだ引き込む形だ。


「何時でも。インテケルンは受け入れましょう」

 盤面を熱心に見続けながら、メンアートルが言う。


「マルテレスが出た以上、今まで以上にインテケルンの無罪放免を求めてきますよ。マルテレスは、守ることを選んだわけですから。なら、第二王子をお返ししようかとも」


「殿下は大層アレッシアが気に入ったご様子。まだ残られては?」

「陛下は喜ぶと思いますよ」


 声でメンアートルの視線を引っ張りよせ、エスピラは自身の目の下を両手でなぞった。


 大きな隈とこけた頬。たるんだ腹。

 メガロバシラスの王は、在りし日の戦場を忘れ、酒と女に溺れている。


「妻子を守っていただいた恩を返す機会すら老人から奪おうと?」

「これ以上恩を重ねては、返しきれないかと思いまして」


「その場合は踏み倒しますので、お気遣いなく」

「今も、でしょう?」


「呵々。メガロバシラスは最早我が子同然。子を守るためならば、老体に投げかけられる不義理の誹りさえかわいいものではありませんか」


「死を覚悟した者は、怖いもの知らず、か」

 エスピラは、目を閉じた。


 ぬくい空気が、広い部屋をゆったりと満たしている。メンアートルの奴隷もシニストラも動かない。遠くにある庭は、柱によって隔てられているだけだが小鳥の類は来ていないようだ。


「エスピラ様の番ですぞ」

「駒を動かさずに言うとは。卑怯ですね」

「おや。もう露見しましたか」


 くつくつと笑い、メンアートルが再び盤面を睨んだ。


「時に、トーハ族が再び軍備を整えているのは、もう知っておりますや?」

「ええ。ボホロスと共に敗戦した首脳陣にとって代わる勢力が来ていると。他ならぬトーハ族から聞いています」


「今度は北からメガロバシラスを荒らす気のようで」

「東方のボホロスの方が異民族にとって美味しい土地になりましたからね」


「アレッシアが港を奪った所為で」

「ボホロスが内部統制に失敗した所為ですよ。アレッシアは、また軍団を派遣して鎮圧の手伝いをしてあげたのですから」


 ボホロスは、マールバラどころか騎兵運用に優れ、功を挙げていた若き勇将ジナイダ・ウォロミィーロをも失っている。討ち取ったのはマシディリの軍団であるが、それはそれ。誅殺で無い以上はメンアートルも何も言わないはずだ。


「軍縮のおかげか、質は良くなりましたからな。如何です? メガロバシラスに任せる、と言うのは」

「お戯れを。数が少ないでしょう。アレッシアから兵をお送りいたしますよ」


「アレッシアこそ兵が必要でしょう。フラシでは長男陣営と次男陣営での引き抜き合戦がし烈さを増し、アレッシアには両陣営が駆けこんでいるなどと、老体の耳にも聞こえてくるのですが、幻聴ですかなあ」


「おや。もしや、アスフォスの放言を信じているのですか?」

「あのような蛮族とメガロバシラスが同格だとでも?」


 今度はエスピラが肩を揺らした。

 実にエリポス人らしい、と皮肉も口にする。


「アレッシアから軍団を送りますよ」


「遠征続きで負担が大きいでしょう。トーハ族の機動力にも対抗できておりません。メガロバシラスで軍団を用意するのが最善では? アレッシアとしても、メガロバシラスの経済力は削っておいた方が、得でしょう」


「経済力を削るのなら、目の前のご老体を殺した方が早い」


 エスピラは口角をあげ、歯を見せた。

 メンアートルがわざとらしく目を大きくし、それから左右にゆるく顔を動かす。その後に「ほほほ」と髭を揺らしだした。


「でしょうな。でしょうな」

 楽しそうに、前後にも揺れて。


「メガロバシラスにも随分と馬鹿が増えた。財を蓄えられるのなら良しとする者が上に居て、優秀な者が支える体制。しかしながら、優秀な者の背後にはアレッシアが見え隠れする。頭に立てるかは生まれ次第。立てぬ者は、支える側に回るのみ。周り、その内支配する。そのためには上は馬鹿の方が都合が良い。そして、支える者の背後に強きものが居る方が、都合が良い。優秀な者とて、私腹を肥やし、のんびりと過ごすことを所望する。

 五十年もすれば、アレッシアの言うことを聞く者ばかりがメガロバシラスを支えることになるのでしょうかな」


「そこまでメガロバシラスが存続できれば」

「ほっほっほっ。アレッシアが、トーハ族を直接抑えると?」

「冗談ですよ」


 くすくす笑い、エスピラはりんご酒を傾けた。

 メンアートルが用意した物だが、送り元はフラシ。次男陣営、ノトゴマ。


「経済力を削るのなら、北方に長城を建築してもらいたいですね。トーハ族の侵入を防ぎやすくもなりますよ」

 エスピラは、すっかり姿勢をゆるくした。


「それもやぶさかではありませんが、一番は軍団を持つこと。メガロバシラスの安心感にも、不満の解消にも。恒久的な経済負荷のためにも」

「なら、マルテレスの方が都合の良い結論を下してくれそうですね」


 エスピラは、右の人差し指を頬骨にぶつけた。目も冷たくする。

 メンアートルの深さは変わらない。


 これぐらい、慣れていなければメガロバシラスの宰相を長くは続けられないのだ。腐りゆく国を支え、新たな土台となり得る者を育てていけないのだ。


「口惜しいが、アレッシアが混乱している状況でトーハ族とは戦えないのが今のメガロバシラス。エスピラ様ほど憎い敵はおりませんが、メガロバシラスを執拗に削ろうとしたアスピデアウスや政治的な信念の無いオピーマとは手は取れたものではありません。まあ、尤も」


 二十年若返ったかのような、はっきりとした声が返ってきた。

 すぐに、老いて丸くなり錆びた老人のような姿勢に戻っていく。


「エスピラ様も、幾ら扱いやすい傀儡をメガロバシラスに送り込んだとして、メガロバシラスほどの大国を任せられる者は傀儡の外にしかおらんのでしょう?」


(嫌な老人だ)


 正解は沈黙。

 此処で第二王子の名を挙げても挙げなくても、不利益にしかならないのであれば。


 エスピラは、挙げない不利益を選ばざるを得ないのだから。

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