軋み
ついてきている足音は一つ。規則正しく、静かでありながら敢えてたてているかのように決して離れない足音。
グライオのモノだろう。
エスピラは口を開いて、刃物しか出てこないのを自覚して閉じ、壁の上に座った。
陽の位置を確認し、職務を放棄する時間の期限を決める。その時間で、確実に思いに蓋をして、この話題を終わらせなくてはならない。
だが、それにはやはり自身の内に閉じ込めておくのは厳しかった。
「君がついてくるとは思わなかったよ」
結果、最も可能性の高いベロルスの者へ刃が向けられる。
「シニストラ・アルグレヒトならば必ずやエスピラ様に付き従うと思っただけです」
「シニストラ?」
淡々と返ってきた言葉に、エスピラは疑問を投げかけた。
「はい。本来ならばエスピラ様を近くで守るのはシニストラ様がしたかったこと。それを不肖ながら私が代行させてもらっております。ならばせめて、シニストラ様が怒る要因を一つでも減らすべきだと判断いたしました」
要するに、マシディリの父親については疑念を持っていると言うことだ。
「私が任されているのは街だ。しかもアグリコーラからアレッシアに向かう街道を睨んでいる。そうそう暗殺者を入れはしないよ。それに、今私を暗殺すればマールバラの評価が一気に下がるだけだしな」
「存じております」
グライオの動きは止まっている。
どうやら、距離はいつもより二歩分だけ遠い。
「人気は落ちているとは言いましたが、未だに高い水準にあります。エスピラ様は軍団長補佐筆頭。しかし、同程度の地位が四人おり、上の役職にも六人おります。しかもまだ二十五。十番目かもう少し下かとなれば軍団にエスピラ様の意思は反映されていないと思うのも自然かと」
サジェッツァに守られたか、とエスピラは友のいる山の方を見た。
アグリコーラから再びピエタやインツィーアに戻る街道を見下ろしている陣である。
「私に預けられている兵は重装歩兵千六百に騎兵が四百。船が十五艘。破格の戦力だ。二人の軍団長にも匹敵する」
「お言葉ですが、一帯を荒らしているハフモニ軍本隊とは遠い所にあります。隘路を塞ぐ位置であり、アレッシアへの通路を遮断する要地ではありますが、本戦からはやや離れているかと」
山の中で戦うことが多かったからな、とエスピラは思った。
カルド島に遠征した者たちばかりが戦うことに納得しつつも不満に思っていた者は多いはずである。その者たちに戦いの場を提供するのと同時に、分割させることで大規模な戦いには挑ませない。配置も考え方の違う者を近くに置いている。
会戦を望む者が団結しきれないように配置しているのだ。
そこはサジェッツァの細やかな心配りである。
「これまでの戦いで満足させたから遠くに置いた、ともとれるのか。実態とは逆だな」
精鋭足り得る主戦力をエスピラが預かり、街から動かさないことで味方の会戦への意欲を削ぐ。サジェッツァの五千の兵も動かないことが分かっているから馬鹿な真似はしない。
そのための配置なのである。決して、一人戦いに満足したから、まとめやすくなったからでは無い。
「挑発に絶対乗らないからと、気が付いている者は元老院にも居るかと思われます」
「君は、どう思う?」
余計なことは言わず、言葉を止めようとしたグライオにエスピラは顔を向けた。
グライオの薄茶の瞳がゆっくりと瞼に隠れていく。
「選別をしているモノと思われます。タヴォラド様、サジェッツァ様を中心とした派閥とその意図を理解できる者。そして、意図を理解できずひたすらに会戦でハフモニを打ち破ることを求める者。それらを見極めるのにエスピラ様は非常に有用なのかと。
エスピラ様が大勢を提訴したおかげで、タヴォラド様らの意思を汲み取りアレッシアのためになら我慢をできる者が居るかどうかも良く確認できるようになったかと思われます」
エスピラはグライオから視線を外し、遠くを見て目を細めた。
「そうか。グエッラは邪魔か」
「グエッラ様は平民からの人気があり、護民官にも親しい者が居るため応援の演説は至る所で行われておりました」
エスピラはグエッラが居るはずの方向に顔を向けた。
正義感の強い彼は半島第二の都市アグリコーラに陣を張り、ハフモニ軍の狼藉に目を血走らせていると言う。
エスピラは目を閉じて耳を澄ませた。肌感覚も研ぎ澄ませる。
小さな風の音しか無く、視線も注意も感じない。
「護民官を殺せと言われれば、殺せるか?」
目を開きながら、エスピラは小さな風に消えかねない小さな声でグライオに聞いた。
「誰に命令されたかによります」
これまでと同じ調子でグライオが言う。
エスピラは口角を上げて、立ち上がった。
グライオに振り向くころには笑みを消している。
「まあ、冗談だ。護民官の任期中には危害を加えてはいけないことになっているしな」
「重々承知しております」
グライオの返事に二度、三度と頷いてからエスピラは来た道を戻り始めた。
やはり少し距離を置いて、グライオが動き出す衣擦れ音が聞こえてくる。
「アグリコーラを背負わすことでグエッラらの軽率な動きを封じてはいるが、ナレティクスの土地があるのにとフィガロット様が不機嫌らしい。ご機嫌取りを兼ねて神殿の神官を派遣してあげようと思っている。護衛を任せて良いな?」
「お任せください」
「それと、シニストラだが一度直接出向く必要があるだろう。シニストラ自身にもストレスがかかっているしな。その時は私の護衛を任せる。ソルプレーサのとこにも一応行くが、その時は状況に応じてになるな。ジュラメントや私の騎兵を統括しているボラッチャ様に任せても大丈夫そうなら変わらず護衛を頼むが、君に任せることもあることを考えておいてくれ」
グライオの足音が僅かに乱れた。
返答もグライオにしては少しだけ間が空く。
「危険だとは思いませんか?」
「ベロルスにであれば私は私の大事なモノを一切預けはしない。だが、君はベロルスであると同時にグライオと言う個人だ。実力の評価に何の関係もありはしないよ」
本心ではあるが演技でもある。
それに、実際にジュラメントでこなせそうな仕事だと判断すればジュラメントに任せてしまうだろう。先ほど、感情の赴くままに退けたこともあるのだ。微妙に迷えば、感情で外されたように思われかねないと逆に起用率が上がってしまう。
エスピラは、自分がそう言う人だと自覚はしているのだ。
(証拠も無いから意味が無いが、マシディリが不貞の子だと訴えを出す馬鹿も人気が落ちれば出てくるか)
沈めたはずの考えが浮上して。
エスピラは足を止めかけたが頬の内側を噛むといつもと同じペースで歩き続けた。
会戦は始まらないが仕事は終わらない。
外の物資の悉くは避難させて無いか、ハフモニ軍の略奪にあっている。街に居る以上は街の外にいる自軍に物資を届け、輸送部隊を守り、港を監視しなければならないのだ。
確かに、アグリコーラに陣を張っているグエッラや平野の中に位置している都市に滞在しているナレティクスの人々、そして平野の付け根の街を守っているコルドーニに比べればそこの負担は少ないだろう。だが、手配と交渉とアレッシアに近いからの戦況を伝える手紙を神殿に送るのもエスピラの仕事なのだ。
「くだらないことで粘土板を送ってくるな……!」
怒りをハフモニ軍の略奪を悪しく書き連ねて送ってきているグエッラに向けて。
ソルプレーサらから正確な情報は得ているのだとエスピラは心の中で吐き捨てた。




