神殿
関係を完全に断ち切るなら、妹、ピュローゼ・トリアヌスの運勢を聞いて、何故かと質問された時に夜這いの誘いを見向きもせずに断ったと告げれば良いだろう。少し話を盛れば完璧だ。難点は、神殿にはまだまだいるため完全に断ち切るのは下下の策であること。
アレッシアの未来、なら平凡に過ぎる。この場しのぎで、重婚の意思は無いと言う牽制にはならない。
と、なれば。
「妻と私について占ってみてはくれませんか?」
神よ、と能面の下でエスピラは祈りをささげた。
どうか、良き結果を示してください、と。これ以上ないと、文句は無いと。できれば、重婚などは凶事を招くと、おっしゃってくださいと。
占いのための炎にシジェロが近づき、何やら唱えながら炎に神木の破片がくべられていく。それによって炎が揺らめき、その様子から運勢を読み取るのだ。
先程までとは別種の不安が、エスピラの中に一瞬よぎった。
処女神の神殿で、運命の女神に祈ることは不敬に当たらないかと。不興を買ってしまわないかと。
エスピラの感情を知っているわけでは無いだろうが、占っている巫女の顔色も、悪くなった気がした。
「出ました」
エスピラは返事をしようとしたが、乾いた喉が張り付き、何も言えない。
全てを受け止めてくれそうな声なのに、裁判の結果を待つような気持ちでエスピラはシジェロのやわらかそうな神に目を向けた。
「少なくとも、メルア様にとっては間違っておりません。ただ」
「ただ?」
声を絞り出せたのが奇跡だと、エスピラは思った。一瞬の機を逃さぬように女神さまが手伝ってくださったと感謝した。
「このままではよろしくありません。何か転機、思い切った決断が必要となります。それは、エスピラ様、メルア様、どちらでも構いませんが、どちらが決断されるにせよ、良い方向にも、決定的な破綻にも繋がります」
だろうな、とエスピラは心中で頷いた。
今が上手くいっていないことぐらい、占い無くとも分かる。
このままでは良くないことも、好転しそうにないことも十分に承知している。
この前の喧嘩以来、恨めし気な目で見られたり、タイリーがせめてもの慰めにと送ってきた陶芸品が目の前で割られたりしているのだ。逆に首を絞められたり殴られたりすることは減り、昼間の内に布団を奪われたりいつものエスピラの居場所を潰されたりするようになってきている。
会話しようにも避けられ、エスピラとて家にずっといるわけにもいかない。家は、アレッシア中心部から遠いのだ。
シジェロが占った通り、何かが必要なのである。
(その何か、は私が骨を折るべきか)
例えば、神殿は遠く家から通える距離では無いが誕生日だけは帰るとか。
メルアが男としっぽりしていれば、ただの迷惑ではあるが。
「すみません。別のを、占ってもよろしいでしょうか」
エスピラは静かに落ち込んでいたが、シジェロの言葉を受けて顔を上げた。
たらり、とシジェロのきめ細やかな肌を伝った汗は、炎に炙られ続けているからでは無いだろう。
「どうぞ」
エスピラに、断る理由はもう無い。
「ありがとうございます」
同じような手順でまた木っ端が投げ込まれた。
先程よりも必死さ、悲壮さが増したように見えるのは、その前の顔が違うからだろうか。
やがて炎が落ち着き、シジェロが口を開く。
「暗雲との接触。神殿にとっては吉兆。雲の中では全てが隠れ、全てが見える。西の雲が晴れるのは、東の雲が晴れた後」
「それは?」
「勝手ながら、エスピラ様の神官について占わせていただきました」
随分と抽象的になったなと思いつつ、エスピラは神意に触れるとはそう言うことかと納得もした。
彼女ら処女神の巫女も五歳の時より特殊な環境で育ち続けているのである。十年の修行と、十年の実地。シジェロは十二年ほど、ずっと神殿で暮らしているのだ。
「西の雲、東の雲とは何でしょう」
分からないことは、とりあえず素直に口に出す。
政治と関係ない巫女にはそれが正解だろう。
「おそらく、隠し事の暗示かと思います。隠し事が露見する、あるいは既に露見している。暗雲は雷を伴いますから、力の証。復讐、あるいは何か、嵐の序章ではないでしょうか」
復讐。嵐の序章。
思いつくことが、エスピラには一つある。
ハフモニだ。
十年以上に渡った戦争の敗戦国はハフモニである。アレッシアが吹っかけたのは高額の賠償であり、その後にあくどい手段を用いて領地をさらに強奪もした。
アレッシアとしては隠しておきたいことも多いし、ハフモニの恨みは深い。
その上、タイリーがハフモニの者がアレッシアに入ってくる可能性を示唆したのだ。予想通り、エスピラの任期の内に神殿に下手人が入ってくるのだろう。
「私の任期の内で、最も運勢が動く日、特にアレッシアにとって動きがある日は分かりますか?」
やけにゆっくりとした動作で、シジェロがエスピラの方へ振り向いた。
振り向く途中で肩に乗っかった髪が、さらりと落ちて再びストレートになる。
「少し、お待ちください」
炎に一礼して、シジェロが退室した。
炎を見つめながら、エスピラは手袋の上から左手に触れる。痛みは無い。幻痛すら最近は覚えない。
エスピラは、改めて自分の左腕が完全に布に隠れているのを確認してから下ろした。
揺らめく炎を眺めて、目を閉じる。
静かだ。
静かで、遠くから物音が少しする。
その物音がどんどん近づいてきて、部屋にシジェロが戻ってきた。
「お待たせしました」
手に持っているのは、獣の肩甲骨。シジェロが骨を手に、炎の中に入れて神への言葉を紡いでいく。パチ、パチ、と音が弾け、ゆっくりと棒を使って骨が取り出された。
床に広げられた布に割れた肩甲骨が置かれる。
そこに、真剣な不言色が注がれた。
「アレッシアも含めて、ですよね」
「そうです」
エスピラは少し近づいた。
メルアとは違う女性特有の匂いが鼻腔をくすぐり、足を止める。
「九番目の月の十七日」
肩甲骨を見て呟いた後、シジェロは顔を上げて炎を見つめた。
「黒が多い、全てが動き出す」
(よりによって)
エスピラは目を閉じた。
植物が勢いを失い、木枯らしが吹く季節。雪もちらつく九番目の月。その十七日。
その日は、メルアの誕生日である。
神殿からエスピラの家は遠い。何かがあるなら、帰ることは叶わないだろう。
「これで、良かったのかもしれないな」
と言う言葉は済んでのところで唇の門でせき止めて。
「ありがとうございます」
と代わりに述べた。
シジェロの愁眉がエスピラの視界に入ってくる。目も、どこか不安げに。
「あの、占いは神の意思を聞くことではありますが、必ずも人間が全てを読み取れるわけではありませんので」
表情に出過ぎていたか、とエスピラは表情を整えた。
場を和ませる言葉を探し、口にする。
「じゃあ、確かめるために今日の夕飯を占ってもらって良いですか?」
「それは、占うまでも無いですよ」
エスピラの冗談に、シジェロがころころと笑い声をあげた。
「カジキマグロのはちみつソース和えと、リンゴのサラダですよ」
「そうですか。楽しみにしています」
エスピラは言って、骨から離れた。
「よろしければ、明日もまた占いましょうか」
「気が向いたら頼みます」
今度は失礼にならない程度に帰る意思を見せつつ応える。
シジェロは、そんなエスピラの様子にも満足してくれたように華のような笑みを浮かべてくれた。
「はい。この部屋でお待ちしております」
ああ、選択を失敗したかなと思いつつ。
「気が向いたら、ですよ」
とだけ、返しておくことにした。




