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ウェラテヌス隆盛記  作者: 浅羽 信幸
第三十一章
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魔女と剣 Ⅰ

 アレッシアはまだまだ温かいとは言い難い、むしろ子供達を思えば不意の寒さに備える季節が続くが、マフソレイオは違う。


 エスピラは、じんわりと滲んだ汗に顔をしかめ、再び室内の日陰へと戻った。数多の紙の匂いが、これまたじんわりと鼻腔をくすぐる。少々の獣臭さとかび臭さ、と言えば聞こえが非常に悪いが、紙特有の嫌いでは無い匂いだ。多くの者が嫌悪はしないだろう。好む者に関しては手を挙げる者だっているほどだ。


「川遊びの方が良かったかな」

 額の前に手をかざし、呟く。


 今日は風も無いのだ。

 太陽の直撃を免れたとはいえ、日陰でも十分に気温が高い。


「オプティアスの書の管理委員としての留学と言う名目なのですから。少しは勉強していただきませんと」


 ころころと笑うような声と共に、女王陛下の奴隷がエスピラの前にひざまずいた。手に持つ宝石が埋め込まれた瓶には水が張ってある。奴隷も、黄金の首飾りを付けている褐色の美女だ。

 もちろん、エスピラの食指は一切動かないのだが。


「ラエテルもセアデラも良くやっているよ」

「幼い頃のマシディリを思い出しますわ。お父様の膝の上を弟に譲りながら、それでもお父様はマシディリを良く膝の上に乗せ、大王の戦記を中心に良く読んでおりました」


 エスピラは、水で喉を潤しながら建物の奥を見た。


 最も風通しが良い場所に動かした机に、ラエテルとセアデラの背が見える。通訳兼護衛として連れてこられたアグニッシモは机に肘をつきながらも弟を始めとする者の質問に答えていた。


「後継候補第二位」

「誰のことだい?」


 エスピラは、瓶を奴隷に返し、下げさせた。しかし、奴隷は下がり切らず、位置を変えるだけ。エスピラの鋭敏な耳は、その理由にも検討を付けていた。


「アグニッシモ・ウェラテヌス」

 ズィミナソフィアが形の良い口を手で隠す。


「今でも目に見えて引きずるほどにお母様のことが大好きで、(たてがみ)すら垂れている状態でも私の口車を簡単に見破るほど地頭がある。扱える言語はマシディリ以上。武勇は言うまでも無く。上からは可愛がられ、下からは頼られ、身内には甘えて味方には優しく、敵には容赦ない。

 あと十年もすれば、一門の主としては優秀過ぎるくらいの男になるのでしょう?」


「振り回される周りは大変だよ」

 気分屋なところは否めないからね、とエスピラは苦笑した。

「それこそ、チアーラみたいに尻を叩き続けてくれる人が傍にいないと」


 まだ子供が小さいチアーラは、少々気がたっているのだ。

 母親の死。気分が悪くなるような噂。夫がアレッシア人では無いこと。ユリアンナに言わせれば、エスピラの暗殺未遂もそうだと言う。


 そうであるにも関わらず、朝になればエスピラがマフソレイオの両陛下から貰った屋敷からアグニッシモを叩きだし、マフソレイオの言葉で現地の人と交流を重ね、まだ幼いコウルスを手ずから育てているのだ。


「それはべルティーナと相性が良さそうですね」

「縁起でも無い」


 相変わらず楽しそうに笑うズィミナソフィアに対し、エスピラは最大級の不快感を示す顔を返した。ズィミナソフィアは人形のような目でくすくすと笑い続けている。


「ヴィルフェットの水練調教師の件、受け入れます。マフソレイオで滞在費を持ちましょう」

「助かるよ」


「それから、リベラリスを閨に誘ったのですが、断られてしまいましたわ」

「お眼鏡に叶うとは光栄だね」


 あまり、父親に話すことでも無いと思うが。


 ただ、エスピラが把握する限り、ズィミナソフィアの子供達は全員父親が違う。そして、全員が優秀な男だ。このあたりの魔性は、母親であるズィミナソフィア三世譲りなのだろう。


「噂が立ってしまうかもしれませんわね」

 揶揄いの色を強くした笑みをズィミナソフィアが浮かべる。


「あまりリベラリスをからかわないでやってくれ」

「お父様と、なんて、言ってみたり」


「馬鹿言え。メルア以外に欲情する訳が無いのに、ましてや実の娘になど。私を獣の類だと思っていないか?」

「ふふ」

 楽しそうに笑いながら、ズィミナソフィアが三歩離れる。


 それを合図にしたのか、既にそこまで来ていたマルテレスがややぎこちなく右手を挙げた。半裸だ。筋肉がしっかりと見えるし、しっとりとかいた汗でより筋肉が躍動して見える。


 そのマルテレスの目が、エスピラからズィミナソフィアに動いた。


「陛下。エスピラをあまり」

「お父様がなびくのなら、とっくに私のモノにしておりましてよ」

「だよな!」


 マルテレスが白い歯を見せて笑った。

 だが、いつもよりもかなり早く笑いが消える。


「ヘステイラに会えなかったのか?」


 エスピラはマルテレスに一歩近づいた。ズィミナソフィアはさらに離れてくれたようだ。奴隷もズィミナソフィアに連動する。晴天から屋根一つ挟んだ影の下で、エスピラとマルテレスは限りなく二人だけで会話できる、参戦するとしてもズィミナソフィアだけの状態を作ることができたのだ。


「会えたよ」


 久方ぶりの再会だったと言うのに、マルテレスの顔色はさえない。視線も下がり気味だ。


「マフソレイオなら誰も邪魔はしないさ」

「どれが正解なんだろうな」


 マルテレスの顔色に合わせるかのように、声も萎んでいった。


 エスピラはズィミナソフィアに目を向ける。ズィミナソフィアは、風土が合わなかったのでしょう、とだけ南方訛りを交えたマフソレイオの言葉で告げて来た。


 顔を戻す。

 マルテレスの眉間には皺が寄っており、唇も開きかけるのと引き締まるのを繰り返していた。拳は堅く、当然ながら図書館の奥にいる者達には見せられない状態だ。


 尤も、見たところでマルテレスを案じるのはラエテルだけかもしれないが。


「父上を、助けてはくれないか?」


(なるほど)

 声色だけで理解できる。ヘステイラにも止められたのだ。メルカトルを助けるべきでは無いと。そう言われ、それでも引き下がれず、されどできぬと言われ。


 それで、もう一度エスピラに縋り付いてきた。

 事情の知らないズィミナソフィアにも分かる声である。いや、ズィミナソフィアの場合は内情すら正確に把握しているか。


「マシディリ様と会談した直後にマフソレイオに飛んできて頼むのは、随分とウェラテヌスを軽んじた行為ではありませんこと?」


(やはり)

 ズィミナソフィアは、正確に把握している。


「陛下」

「失礼いたしました」


 再び、私は離れています、なんて態度を取るが、体の向きを横にしただけ。これからも会話に入ってくる気があるのだろう。


「エスピラ」


「ヘステイラが何を言ったかは分からないが、私がメルカトル裁判に関して口を挟めば、アスフォスが訴えられるぞ。


 トリンクイタ様の狙いはアスフォスだからな。コクウィウムの名誉を守るにはアスフォスが如何に愚鈍で、自分の息子とは違うかを明確にしたいはずだ。それでもしないのは、私が裁判に参加するのを警戒して。私が参加するなら、トリンクイタ様も遠慮なく動くとも」


 マルテレスが先に聞きたかったのは、マシディリに関すること。

 それぐらいエスピラは分かっているからこそ、話題を戻した。


「ヘステイラも親だからな」

 と、少々の思考、もとい感情の誘導も忘れない。


「サジェッツァは、どうして」


 今度は、エスピラが一度視線を落とした。


 どうしてか。

 もう一人の親友が何を考えているのかの推測は立つ。不器用なやさしさも、想像の範囲内だ。


(変な不器用さは、べルティーナにも繋がっているからな)


 互いの伴侶が間に立つことで保たれている父娘の関係改善は、エスピラの密やかな願いだ。


「マルテレス様に巨大な家門を纏める器量が足りないからでは無くて?」

「陛下」

 再び低い声を出す。


「お父様では言いにくいことかと思いまして」

 と、ズィミナソフィアが平然と言って体を再び横に向けた。顔には余裕のある笑みが浮かんでいる。


「マルテレスはただの武力装置じゃない。私の親友だ。当然、武威を示し、アレッシアのために貢献したのならアレッシアは応えなければならない。そうしなければ、アレッシアはアレッシア人からの信を失う」


「文武両道が求められる中で?」

「マルテレスの文の師匠はサジェッツァだ」


「そうでしたわね」

 くすり、と妖しくズィミナソフィアが笑う。

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