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山中の天幕にて

「飲むか?」


 シニストラが眉を下げた。


 酒は飲みたくない。だが、断るのも申し訳ない。

 そう言ったところだろうか。


「安心しろ。酒じゃない。今朝搾ったばかりのリンゴ果汁だ」


 多少アレンジを加えてはいるが。


「では」


 シニストラが差し出した手にカップを持たせ、エスピラは中身を注いだ。


「酒は綺麗で腐らないから便利だが、飲ませてくれとクイリッタが駄々をこねてね。戯れに酒の匂いを嗅がせれば嫌がるくせに私が飲んでいれば駄々をこねるんだ。おかげでお酒を飲む習慣が廃れてしまいそうだよ」


「それは……。お疲れ様です?」

「そんな話をされても困るか」


 エスピラはくつくつと肩を揺らした。


 シニストラがコップを傾ける。最初は舐めるような傾け方であったが、少しすると目が僅かに大きくなるのと共に傾く角度が大きくなった。


「さて。アグリコーラ近辺の現状だが」


 エスピラがそう切り出すと、今度は本当にシニストラの背筋が伸びた。


「私も憂いては居るよ。このままでは折角の皆の我慢を無駄にしかねない。だが、誰が悪いと言う訳では無いのだ」


 異論はあるとシニストラの表情は素直に訴えてきていた。

 ただ、口は開かない。


「アグリコーラの者にとってこの戦いは山の向こう。しかも、もう少し待てば普通に収穫できるのだ。急いでしてくれと言われても損失に対する保証があるわけでは無い。急いで刈っても損を被るだけかも知れない。ならギリギリまで待とうと思うのも当然の心理だと言えよう。

 それに、誰かが大丈夫だと言えば根拠が無くともそれを信じる。『大丈夫』と言う言葉だけが広がっていく。見えるモノだけを信じるべきだが、そう思いたいモノを信じるのが人間だ。特に集団ともなれば、信じたい方へと意識が流れてしまう。


 今後、シニストラが上に立つ時に群衆とはそうなるモノだと思って動かないといけなくなる時が来るはずだ。今回は、良い経験になっただろう?」


 シニストラが頷いた。


「それでは、どうするのが正解なのでしょうか」


 正解か、と聞かれてもやってみないことには分からない。

 上手くいけば正解で、上手くいかなければ失敗で。もしかしたら失敗しか無いのかもしれない。


 それは、本当にやって見なくては分からない。予想しか建てられないのである。


「どうするのが良いかな」

「ならば、せめてヒントをください」


(そういう意味では無いのだが)


 エスピラも本当に分からないから言ったのであって、答えを持っていてシニストラに投げたわけでは無い。


 とは言え、シニストラにはエスピラは答えを知っているように写っているのだろう。そう思われて悪い気はしないし、そう思われているのなら見栄も張りたくなる。


「では、まずはあらゆる枷が無い場合の最善の案を考えるとどうなる?」


「物資の供給を条件にアグリコーラの全ての畑から作物を刈り取ります。その上で人が住むところ全てに防御陣地を築いてマールバラに何も与えないようにするのが最善かと」


「だが、それだけの準備をすればマールバラも進路を変えてアグリコーラにはやって来ないだろうな」


 準備が万全な場所に突撃するくらいなら、多少実りが悪くても山を越えずに略奪を続ければ良いだけなのだから。


「サジェッツァ様はわざとアグリコーラの作物を残している、と言うことですか?」


「そうかも知れないし、そうでは無いかも知れない。敵軍が目の前で略奪を続けていれば兵は怒る。その怒りを鎮めるのは容易なことでは無い。下手をすれば支持を下げかねないからな。そこまでを賭けないと封鎖しやすい土地にマールバラが行かない、と言われれば私は納得してしまうよ」


 シニストラが口に手を当てた。

 視線は変わらず眼球だけが僅かに動き続けている。


「すぐに刈れる算段があるのですか?」

「私は何も聞いていないが、まあ、あるとすればどこかで先回りしてハフモニ軍の足を止めてその間に、と言うところだろうな」


「コルドーニ様が後ろを塞ぎ、エスピラ様が前面から強襲する、と言うことですか?」


 ここ最近、襲撃のために出撃した回数の半分はカルド島の頃からの軍団メンバーである。

 攻撃するならと考えた時にそうなるのは、ごく自然なことと言えるだろう。


「フィガロット様が軍団長だとは分かっているな?」


 盛大に目を泳がせながら、シニストラが「もちろんです」と返してきた。

 鎌かけの意味もあったのだが、かける意味は無かったようである。


 エスピラは溜息交じりの視線をシニストラに投げながら、コップに果汁を注ぎ始めた。


「まあ良い。それよりも、だ。シニストラ。君の発案を実行すれば致命的な欠点が生まれる。何か、分かるか?」

「致命的」


 転がすように繰り返して、シニストラがやや下を向いた。


 一生懸命に考えているようである。


 エスピラは、その間に果汁を舌に広げた。りんごの爽やかさにはちみつの甘さが交ざっている。少しばかりの香辛料は、高いが戦場で日保ちさせるための工夫だ。クイリッタと飲むときには入っていない。


(わがまま癖は治させないとな)


 自分が最も甘やかしていると言う事実は棚に上げて。


 エスピラは、クイリッタの将来を案じてそう考えた。


「サジェッツァ様とグエッラ様が喧嘩をする、と言うことでしょうか」


 シニストラの声にエスピラは思考を現在地に戻した。


「サジェッツァは相手にしないだろうが、目の付け所は良い」


 エスピラの言葉にシニストラが顔を縦に動かした。

 もう考えることを放棄した、すぐに答えを教えて欲しそうな表情である。


「軍団に決定的な溝ができかねない、と言う事だ。フィガロット様もコルドーニ様もサジェッツァの作戦に乗る形を見せている。いわば、会戦否定派だ。にもかかわらず、大きな戦闘をこの二人が行ったらどう思う? この二人の軍団が実行するのが力のバランス、引き際の見極めに於いて最善だったとしても、不満に思うはずだ。自分たちは主張していたのに、とな。下手をすれば自分たちに手柄を与えないために行動しているのではないかと言う不信感すら抱かせる」


「突撃馬鹿に任せられないだけでは無いでしょうか」


 さも当然のことのようにシニストラが言った。


「どう見えるかだよ、シニストラ。非常に不便だが、大きな戦闘を行う時はグエッラ様の軍団を加えないといけない。それでいて全軍を巻き込むような戦闘に発展させないように差配しないといけないんだ」


「……エスピラ様とマシディリ様を武の方面から支え続けますので、出世の話が出たら他の者に回してください」


 シニストラが面倒くさそうにつぶやいた。

 それから、すぐに顔が上がる。


「いえ。思い上がってしまって申し訳ありません。推薦してもらえると言う保証が無いのは承知しております。ただ、私はエスピラ様を守り、時が来れば御子息であるマシディリ様を護ると言うのもまたしてみたいと思いまして。もちろん、マシディリ様でなくとも良いのですが、エスピラ様が期待を寄せているのがマシディリ様ですのでウェラテヌスを継ぐのはマシディリ様かなと思っただけです。エスピラ様に似て聡明そうな顔立ちをしておりますし」


 随分と早口であった。


「そうか。似ているか」

「ええ。それはもう。髪の色はメルア様に似ておりますが、その他はエスピラ様似。歳不相応に落ち着いた様子も振る舞いも、最もエスピラ様の血を引いているからではないでしょうか」


 よどみなくシニストラが言いきった。


「そうだろう? 私もマシディリが一番私に似ていると思っているのだが、どうやら乳母はクイリッタの我儘な様子が幼い頃の私に似ているとも言ってきてな」


「想像がつきませんね」


「ああ。私もだ。どう考えても、私の血を一番濃く継いだのはマシディリだと思っている。だが可愛らしさもあってな。その辺りはメルアの血だろう。成長すれば同性異性問わず人を惹きつけるようになるだろうな。これもメルアの血の良い部分を引き継いだ、ということになるな」


 シニストラが頷いた後、そういえば、と口を開いた。


「ユリアンナ様はどうですか? エスピラ様から見ればメルア様似ですか?」


 エスピラの頬が緩む。


「容姿は似るだろうな。それでいて我儘を抑え分別がついたならば最早メルア以上にモテるだろう。我儘にならないまま成長すると言う保証は無いが、メルアよりも落ち着いた、ウェラテヌスに相応しい性格になれば引く手数多だ。いや、そうはならなくとも世の中の男が放っておくまい。必ずや、良縁を持ってきたいモノだ」


 一門のためになって、ユリアンナを大事にしてくれ、なおかつたまにウェラテヌスの家に戻ってくることを認めてくれるような。そんな相手が。


「しかし、ユリアンナも落ち着いている。マシディリも落ち着いている。そうなれば、クイリッタはメルア似だから我儘になったんじゃないか?」


「あり得ますね。ですが、そんなところもお好きなのでは無いですか?」

「当然だ」


 緩みっぱなしの頬のまま、エスピラはシニストラに返した。


 手を伸ばして箱を取り出し、蓋を開ける。立派な木箱の割には一通の手紙しか入っていない。


「マシディリが月に一度送ると言ってくれてね。まだ一通しか届いていないが、これがまた可愛いんだ」


 エスピラは手紙を広げた。

 読む気満々である。


「聞いて良いのですか」

「もちろんだ」


 シニストラも雰囲気を明るくして近づいてきた。


「エスピラ様」


 その雰囲気を止める奴隷の声。


「グエッラ様が話があるとのことです」


 そして、雰囲気をぶち壊す来訪者。


 エスピラよりもシニストラの機嫌が急降下して、奴隷を、あるいはその向こうにいるであろうグエッラ・ルフスを思いっきり睨みつけるように振り返っていった。


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