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神殿

 これから半年会えなくなる夫婦だと言うのにルキウスの酒宴の日以来一度も目が合うことは無く。


 エスピラは心に重石を抱えてまま、神官用の服に身を包んだ。

 とは言っても、赤紫に縁どられたやけに大きいトガを体に巻くため、奴隷がやってくれたと言うべきだろうか。トガの着付けができるウェラテヌスの奴隷は父の遺言で解放してしまったので神殿の奴隷がやってくれたのである。


 一応、トガの着付けの知識だけはあるウェラテヌスの奴隷も参加させはしたが。

 奴隷がトガに触れる機会は驚くほどに少ない。にも関わらず、トガの着付けができる奴隷は好待遇であり、なおかつ解放後には教官として手に職をつけることだってできる。

 奴隷の将来を考えれば連れ回した方が圧倒的に良いのだ。


 その恩を当てに、解放後も家に残して奴隷の教育係をさせることもできると言った、ウェラテヌスにとっての利益ももちろん考えてはいる。


「できそうか?」


 と、エスピラはエリポス語でペリースを預けた奴隷に話しかけた。

 三十ぐらいの、若いエリポス人奴隷の目が泳ぐ。視界に収めては消しているのは、神殿の奴隷と神殿、そして常駐の神官や秘書官。


「アレッシア人なら誰しも一歩間違えれば奴隷になり得ることは分かっている。会話ぐらい誰も咎めたりはしないさ」

「練習をすれば、できます」


 エスピラは二度、三度と頷いてから奴隷から顔を外した。


「離れにある布なら好きに使って良い。だが、くれぐれも本邸には入るなよ」

「はい」

「では、留守を頼む」


 奴隷が頭を下げる気配を背に受け、エスピラは大扉をくぐって神殿の内部へと歩を進めた。


 一歩踏み込めば涼しさに包まれる。乾いた冷気が肌を通り、白い壁は薄い影で覆われているみたいであった。音も静かで、廊下も徐々に細く、天井も低くなっていく。進むにつれ外からの光は無く、窓もなく、厳かに冷えていくのに気温は僅かに上昇していくようだ。


 終には人一人がやっとの大きさに空間が絞られ、白い石壁が圧迫するように寄ってきているかのようにさえ見えた。


「こちらです」


 その旅路も、正当に終わる。

 常駐神官が声を発した後に開けたのは祭壇への扉。

 開いた先は炎が祀られた、天井が吹き抜けで外界へと繋がっている空間。

 人力で開閉する獅子と狼の革で作られた天蓋は、晴れのためしまわれており、日光がさんさんと注がれ、より白く輝かしくなっている。


 エスピラは神官たちに一礼すると、儀礼に則って祭壇へと足を踏み出した。


 例えば、エスピラの信奉する運命の女神フォチューナには像がある。家にも小さな像が置いてあるし、持ち運んでいる信者もいる。だが、処女神には偶像が無い。炎に宿り、炎が神であるとみなされている。


 その中でも最も神聖とされ、神殿で守り続けられている炎に、エスピラは頭を垂れた。

 エスピラはそのまま誓いの言葉を述べ、常駐神官が炎の灯った鎖付きの燭台をエスピラの肩の上で揺らして、『聖なる言葉』なるものを紡ぐ。


 最後に巫女が祈りを籠めながら乾かしていた木っ端を掴み、エスピラは聖なる炎に継ぎ足した。


 これと言った問題は起こらず、炎が少し燃え上がる。

 次にもう一度木っ端を掴み、今度は左手に手袋をはめたままいることの許可を求め、炎に落とした。今度も順当に燃え上がるだけ。


「これよりエスピラ・ウェラテヌスを当神殿の神官と認める。これは、神の御意志である。何者も意義を挟むこと、これを許さない」


 常駐神官が厳かに宣言した。

 エスピラは炎、もとい処女神に頭を下げ、巫女たちに頭を下げ、秘書官に頭を下げ、最後に常駐神官に頭を下げた。


 この一連の儀式において、エスピラは神が認められたことになる。

 即ち、今、この時を持ってエスピラの神官生活が始まったのだった。


 とは言えども、神官としてやることなどほとんど無い。エスピラは、別に占いができるわけでは無いのだ。自身の女神以外の教えを説けるわけでは無いのだ。


 よって、やることはもっぱら粘土板の整理になる。これまでの執政官および大貴族の父祖から遡れる家系図に欠損が無いか、あった場合は修繕や新たな粘土板を作らねばならない。他には預けられている遺書を参考にしてのアレッシア国民の戸籍の把握などもある。政策やその提案者、軍事功績の整理と言った歴史の保全も一応ある。


 狼藉者の排斥並びに神殿の護衛などは滅多に無いのだ。


 少なくとも、神殿に粗相を行おうとする者はほとんどおらず、いたとしても外側に配置されているマルテレスら守り手によって防がれる。


(もう少し、持ち物を工夫するべきだったか)

 とエスピラが思うのに、十五日も掛からなかった。


 溜息一つ。

 ちょっとした憂鬱も、託された手紙を渡すのが早くなったと考えれば良いかと、無理矢理霧散させた。


 処女神の神殿において、半年任期の者が個人的な繋がりのために巫女を探す場合は如何なる理由があっても他人の手を借りてはならない。


 これは、偏に巫女を惑わす淫性があってはならぬと言うことであり、神殿内で見つけられない場合は神が認めなかったと言うことである。逆に見つけることができれば、それは神が許したと言うことでもある。


 故に、エスピラはこれまでも空き時間を利用してラシェロ・トリアヌスから託された手紙を娘であり巫女であるシジェロ・トリアヌスに渡すべく探してきた。


 直接名前を出して聞くこと、巫女の居場所を尋ねることなどは一切しなかったが、なるほど、エスピラが集めた情報によればシジェロは占いが得意らしい。


 となれば儀礼用の祭壇か、人々の告白を聞くスペースか、あるいは祈りをささげる男人禁制の場所にいるのだろう。


 そして、恐らく予想は当たった。

 人々の対応を終え、休憩するスペースにラシェロ・トリアヌスの娘、ピュローゼと同じような白ワインを煮詰めたような髪色をした女性を発見できたのである。

 纏う空気も、骨格もどこか似ている。所作はやはり俗世で貴族として育ったピュローゼと隔世的に育った巫女では大分違うところがあるが、探そうと思えば面影はあるのだ。


(さて)


 どう、話しかけるべきか。


 逡巡した後、エスピラは衣擦れの音だけが鳴るように気を付けながら巫女に近づいた。


「ご両親のことで、一番記憶に残っていることは?」


 衣擦れの音が増える。


 不言色いわぬいろ(少し赤みがかった黄色)の双眸がエスピラを映した。

 警戒など微塵も無い無垢な瞳に、エスピラは分厚い手紙を見える。その後にエスピラは笑みを浮かべはしないものの、表情をやわらかくして首を少々傾けた。


「私が巫女の見習いとして選ばれた時、そして正式に神にお仕えすることになった時に太陽の昇る方向を変えるほどに喜んでくれたことです」


 ありがとうございます、と言って、巫女、シジェロが手紙を受け取った。


「エスピラ様は?」


 手紙を解いて頬を綻ばせての発言であったが、言葉が空気を揺らした後、ハッとした様子でシジェロが自身の綺麗な桜色の唇を傷一つない手で隠した。


「『何よりも国家に尽くした男。私心なく、勝利を。繁栄を。アレッシアに、永遠の栄光を』」


 エスピラの父が自身の墓に彫らせた言葉である。


「思ってもできることではありません。私は、父を、母を、父祖を誇りに思っております。何も、お気になさらず」


 穏やかに言って、エスピラはゆっくりと目を閉じた。

 胸に手を当て、小さく頭を下げる。


 用件は済んだのだからこのまま去っても良かった。だが、それでは他人から見てシジェロの言葉に気分を害したのかそうでないのかの判断が難しくなるのは分かり切っている。


 そこでエスピラは、短く済む話題を探し、口にした。


「よく私の名前が分かりましたね」


 あくまで雑談と聞こえるように。少し砕けて。


 それに対して提示されたシジェロの笑みに、エスピラの瞳孔は大きくなった。

 懐深く、何でも受け入れるような。邪気の無い、奥に策謀のない笑み。澄んではいるが、透明な水ではなく温かなお湯のような、温泉のようなやわらかさの、エスピラが見たことが無い笑顔である。


「巫女の間でも噂ですよ。ウェラテヌスの生き残りの色男が来た、と。髪も、目も、声も。何より、アレッシア人が嫌う隠す行為をしている者など、他にはおりません」


 シジェロに続いて、エスピラの意識が左手の革手袋に向いた。


「神が御認めになられたので誰も文句はつけませんが、だからこそ、なのでしょうかね。先輩方が盛り上がっておりましたよ。ウェラテヌスは数が減ったからエスピラ様の子供が必要なのに、結婚して一年、未だに兆候は無いと。なら、結婚しようかと。幸い、見目好し、声はもっと好しの将来有望株とのお噂ですから。市中では喧嘩になっても、処女神の巫女は重婚が認められておりますから。協力してくるかもしれませんね」


 なるほど。

 おしゃべり好きなところ、一息の情報量、選ぶ話題は、父であるラシェロ・トリアヌスに似ているなとエスピラは見当違いな思考にたどり着いた。


「ならばシジェロ様からそれとなく伝えておいてはもらえませんか。幼少の時より恋愛禁止、異性との接触もままならないまま来ておりますから、悪い男にはお気を付けください、と」


 ふふ、とシジェロが笑った。


「巫女といえども役目が終われば一門の一人。結婚に愛が無くとも、お気に入りの男を愛でることができるのなら構わないと思う人もおりますよ」

「それは困りましたね。せめてもの抵抗として、極力巫女の方々とはお会いしないようにしますよ」


 肩をすくめて、完全に冗談と同じ口調で言ったあと、エスピラは背を向けた。


 巫女と会わないようにするのは、冗談でも何でもない。最初から決めていたことだ。

 処女神に仕える彼女らに余計な刺激はもってのほか。万が一にも処女性が失われれば国家の危機となる。抵抗すれば良いと一言にいえども、破壊の赤のオーラが強く発現している巫女に四肢を壊されればそんなの無意味だ。抵抗などできるわけが無い。さらには巫女の情報は秘密が多いため、起こり得ない話では無いのが、エスピラの警戒心をさらに高めていく。


「あのっ。奴隷がするような伝令を父がさせてしまったせめてもの罪滅ぼしとして、占いでも、していきませんか?」


 警戒しているからこそ、エスピラはさっさとこの場を立ち去りたかった。

 しかし、一気に贖罪の音色が増した声には足を止めざるをえなくなる。


 普通に呼び止められただけなら、また明日とか神の御導きがあればなどと言っておけば済んだのだが、占いと具体例を出されるとそうもいかないのだ。


「私、その、占いには少しばかり自信がありまして」

「そうですか」


 結局、エスピラは完全に足を止めて、同じ場所、シジェロの前に戻っていった。


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