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ティミド・セルクラウスの決断

 新たな噛み痕と爪痕を抱えて、エスピラは壁を飛び越えた。


 台代わりにした柄の大きい剣を紐を引っ張ることで回収し、音もなくアレッシアンコンクリートの上に降りる。いつものペリースを此処で広げて羽織り、月明りに照らされている他の部位に比べて明らかに白い左手を革手袋で隠した。


 準備が整ってから衣擦れの音すらたてないように歩き、中庭を通り過ぎる。


 夜の邸宅内は真っ暗だ。その中で、エスピラは淡い光が零れている部屋を見つけた。

 事前に集めた情報とも一致している。


 エスピラは扉の横に立つと静かにノックした。


 椅子が動く音がする。何かが置かれる音も。それから、足音が近づいてきた。

 エスピラは呼吸にも気を付けて、気配を極力消した。


 扉が開く。


 言葉を発する前の気配を感じ取り、開いた口に左手を押し当ててそのまま室内に押し込んだ。


「お静かに」


 エスピラは右手で短剣を抜き取り、柄頭をティミドの喉に当てた。

 家の主、ティミドがこくりと頷く。目は恐怖に溢れ、震えているようだ。


「そんな顔をしないでください。殺しに来たわけでは無いのですから」


 エスピラは短剣を腰に戻し、軽くティミドの肩を押した。


 大きくよろめいたティミドを無視して、エスピラは来客用の椅子にどっかりと座る。


「夜分遅くの訪問になってしまったことはお詫びいたします。しかし、互いに立場と言うモノがありますから。私は貴方を訴えた者たちを焚きつけたような立場として。ティミド様はトリアンフ様に泣きついて今回の騒動を起こした元凶として」

「それは」


 エスピラは右手を開いてティミドに見せた。


 言葉を封じてから、ゆっくりと横に右手を動かす。


「互いに誤解でしょう。私が一度庇った相手を攻撃する理由なんてない。同時に、貴方も私を攻撃すれば名を損ねるだけ。互いに不利益しか被っていないのです」


 座って、とエスピラはティミドに手で着席を促した。


「ティミド様のお子もまだ初陣の年齢に達しておりません。それなのにハフモニとの戦いは続く。いえ、激しさを増すでしょう。このままでは互いにかわいい我が子への負担が大きくなるとは思いませんか?」


 ティミドの顔色が悪くなった。


 エスピラの記憶通りなら、ティミドの目が子供の部屋がある位置へと動く。手も短剣を掴める位置に移動した。腰はやや浮き気味。


「此処は互いに誤解を解くのが良策。そう、思いますよね?」


 エスピラはそんなティミドの動きを無視して笑いかけた。

 ティミドの腰が戻る。


「すみません。おっしゃる意味が良く分からないのですが」


 そんな訳が無いだろ、とは思いつつも、本気かどうかを確かめる必要性をエスピラは感じていない。


 今後ティミドに何かを任せることがあったとしても、それは軍費や食糧の管理。発言権を与える気は無いのだ。それぐらいなら良し悪しを図る必要は無いし、ティミドにとっても、エスピラよりも自分を重用してくれる人の下で働いた方が良いだろう。



「タイリー様の遺言に従うと公言すれば良いのですよ。そこに一切の不満は無い。セルクラウスの当主はタヴォラド様だと認識している。当然、奴隷や被庇護者の扱いもタヴォラド様の決定に従うべきだと考えております、と。


 それでイフェメラ達が訴えた件は無効になるでしょう。貴方は私を貶める意思が無いのですから。トリアンフ様に泣きつく必要がありません」



「すみませんが、それだけで訴えを取り下げてくれるとは思えません」


「次の裁判にはイフェメラやシニストラも呼びますよ。その場で、私が呼びかけましょう。私が貴方を訴えたと言う誤解も、それで解くことができます」


 それでも、トリアンフはティミドを守れなかったと言う噂やティミドが自分を守ってくれるのはトリアンフではないと判断したと言う噂が流れる可能性はあるけれど。


 少なくとも、今よりはマシである。


「そうですね。ついでに言うのであれば謹慎を解いて名誉を回復させる手段もあります」


 食いついたかのように、ティミドの背がやや前のめりになった。


「両執政官は軍団を纏めたそうです。アレッシア軍三万とマールバラの五万がぶつかる日も近いでしょう。そうなれば次の軍事命令権保有者はサジェッツァが最有力。メントレー様はカルド島、永世元老院議員もオルニー島に行っており、タヴォラド様はセルクラウスのごたごたで優先順位が下がってしまいましたから」


「すみません! それは、今のアレッシア軍が負けると。そう言うことを」

「バッタリーセ様がタイリー様やペッレグリーノ様より才に恵まれていると?」


 エスピラは冷たく突き放した。

 ティミドも口を噤む。



「話を続けますね。

 サジェッツァに預けられるのは恐らく決戦のための兵力、一人の軍事命令権保有者にとっては最大の四個軍団四万以上でしょう。そうなれば、当然のことながら食糧や軍資金の流れもこれまでの比ではありません。適切に管理できる優秀な人材が必要です。


 ねえ、ティミド様。

 私は、サジェッツァやタヴォラド様を除けば今のアレッシアで貴方以上にこの任に適した人はいないと思っています。


 貴方の欠点はタヴォラド様も指摘した通り、その口。軽率な発言をしてしまうこと。ですが、今の貴方はどうです? 訴えられた後で、謹慎明けならば貴方自身が発言に気を付ける。その上、影響力の大きい役職にも就けられないし、素の影響力も落ちている。


 いわば、欠点を減らした状態で君の力をアレッシアのために十全に扱えるんだ。

 これぞ神の思し召しだと私は思っているよ。アレッシアが勝つために最も適切な人材を最も力の発揮できる状態で置いといてくれたと。


 この好機を逃してはフォチューナ神に嫌われてしまう。私は、この好機を逃すわけにはいかないんだ」



 ティミドが口を真一文字に結んだまま、目を落とした。


 迷いの種は血の繋がった異母兄、トリアンフを裏切る行為にもなると言うことか。


 エスピラは血の繋がりは無いが一門としての繋がりはある。その上、ティミドをトリアンフよりも高くかっている。ティミドも、タイリーが死んだ上にトリアンフの息子が二人とも結婚している以上はトリアンフと別の一門であるとも言えるのだ。


 エスピラにつくことの罪悪感は、以前よりも少ないはずである。



「難しく考える必要は無い。


 このままトリアンフについたと思われ、謹慎処分を受けるままに栄光あるアレッシアが衰退していくのを眺めるか、アレッシアの繁栄をもたらす者の一人として再度名誉を手にするか。


 二つに一つだ」


「すみませんが、その選択肢で前者を選ぶ者はいないかと思います」


 エスピラは鷹揚に頷いた。


「その通りだ。じゃあ言い換えよう。ティミド、お前はこのままタイリー様の遺言で残ったものを遠慮なく受け取って、謹慎処分も甘んじて受け続けるか? フィルフィア様やフィアバ様、クロッチェ様にメルアも国のためにその財を使うと宣言したのに? 身勝手との烙印を押されたセルクラウスから抜け出したのにお前は何でも享受するだけか? 


 それとも、自らの力で今度は父の力を借りずに栄誉を手にするか。その才が、父に頼ったものでは無い自らのモノであると証明するか。その機会を掴み取るか。


 二つに一つだ」


「それも。すみません。それもやっぱり」

「ああ」


 エスピラはティミドの言葉の途中で口を挟んだ。


「一緒だ。残された道はそれだけだ。違うと言いたいなら、今ここで案を出して見ろ。時間は幾らでもあっただろう? 訴えられてからどれだけの時間があった? 蟄居していた? 頭の動きまでは制限されてはいないだろう。この、牢獄と化した自宅を出るか。牢獄からいつもの癒しの場所に戻せるか否かはお前の決断にかかっている。どちらを取る?」


 ティミドが口を一度開き、そしてまた閉じた。

 唇が波打つように動き、顔も俯き気味。目の動きはせわしない。


 エスピラは耳を澄ませた。外は相変わらず静かで、エスピラの侵入に気が付いた様子も無い。手の痛みは少しばかり。ひと眠りしたメルアが起きてもおかしくは無い時間はもう経過してしまったか。それよりも子供たちが夜泣きするのが先か。


(時間は無いか)


 エスピラはそう考えつつ、意識をティミド邸に戻す。動きは目の前。ティミドだけ。


 やがて、目の動きがゆっくり止まっていくと、ティミドの顔も上がってきた。


「分かりました。よろしくお願いいたします」


 エスピラはゆっくりと立ち上がった。


「好機を逃さなかった者に運命の女神は微笑む。貴方にも神の御加護を」


 そのまま足音を消して、エスピラはティミドの書斎を出た。


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