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貴方は外に出られるのに

 方々から頂いたクロッカスの花を全て燃やしたことを確認してから、エスピラは市街地からぽつんと離れた木々の中にある我が家の扉を静かに開けた。風が僅かに家に入り込むが、それ以上の速さで何かが持ち上げられる。ぼんやりとした光源が現れた。オレンジ色の炎だ。炎が暗がりの中の妻の白い顔を下から照らす。


 不気味だ。


 表情が分かりにくく、不気味である。が、不機嫌であるのは確かだ。死臭は無い。気配も無い。匂いからも、誰かが居た形跡は無い。


「何かあったか?」


 軽やかに空気の流れを作って。

 メルアがエスピラの前に音もなくたどり着いた。ああ、やはり好きな匂いだなと、的外れな思考が酔いの入った脳で繰り広げられる。


「ねえ。楽しかった?」


 すん、と浮ついた思考の全てが凍り切った。


 その間にも、氷柱のようなメルアの視線は注がれ続けている。


「香水。エリポス産のものね。女性に人気の」

「『外敵を打ち倒せても、女房には敵わない』と言う有名な言葉もあるくらいだ。ルキウス様の支援を取り付けるには女性の支持を集める必要があるのは分かるだろ」

「クロッカスの花は幾つ貰ったのかしら」

「その意味は、教えてはいないはずだが?」


 エスピラが重石を怨嗟でどかすような声を出すと、メルアが高めの声で笑い始めた。

 腰を折り曲げ、腹を押さえ、上等な絹地に波を作っている。


「貴方に教えられなくとも、教えてくれる男なら幾らでも捕まえられるのだけど。そうね、教えてくれたのは誰だったかしら」


 エスピラは、握りしめた拳はペリースの下に隠せたが、目はそのまま。感情をありありと浮かべたまま。メルアを見下ろして。

 メルアが口元に白くほっそりとした指をあてた。目には喜色を浮かべて。エスピラと目を合わせてくる。


「アスピデアウスの人だったかしら。花弁を二つ折れば布団の中で膝を曲げているとか、状態によって夜這いを待っている姿勢が違うって」

「サジェッツァが居るのにアスピデアウスの者が私の目を盗めるとでも?」


 エスピラは硬質な声をメルアに叩きつけるようにぶつけた。

 メルアの眼球が一瞬だけ動くが、すぐに元に戻る。


「エスピラが私と寝た男を全て知っているとでも思っているの?」

「黙れ」


「把握しているつもり、なだけでしょう。夫が妻のところにいることの方が少ないのだから」

「黙れ」


「知っているつもりで満足しているだけでしょう。本当に残念な男ね。いや、哀れな男と言うべきかしら? 名門に生まれたのに財は無く、結婚したのに家に居場所は無い。いえ。それとも逃げたのかしら。外に。こんな牢獄が嫌で。そうよね。放っておけば女が寄ってくるんだもの。穢れていない乙女も多いんでしょう? 神に祝福された乙女ばかりでしょう?」


 言葉を呑み込んだ。

 ぐっ、と数秒我慢した。

 酒の酔いがぐるぐると心の大鍋を回すが、エスピラは強引に火を踏み消した。


「アレッシアのためだ」


 そうして、言葉を絞り出す。


「ウェラテヌスはアレッシアのために財をはたいた。その決断を誇りに思うことはあれども哀れだとか愚かだとか思ったことは無い。だからこそ、私も外に出る。アレッシアに求められれば応える。それが、一門の、父祖のためだ。個人の事情など関係ない」

「そう。私はどうだっていい。一門セルクラウスも、アレッシアも」

「メルア」


 流石に、看過できる発言ではない。


「あら。エスピラの責任じゃないの? 私にしっかりと教えてくれればよかったのに。父祖とやらがどれだけありがたいか、アレッシアが何をしてくれるのか。ねえ。エスピラ」


 メルアの熱い体温が、ぬるりとエスピラの腰元の短剣を鞘ごと抜き取る。

 闇の中で短剣が一回転すると、エスピラの胸元に突きつけられた。払えば簡単に落ちる程度の強さで、胸に当てられている。


「そう。私にとって、国家も一門も、必要ない話だから」


 また遊ぶように回されて、短剣が机の上に投げ捨てられた。ぶつかる音が立ち、机上を滑っていく音が離れて行く。熱源もエスピラから静かに離れて行った。


「外では言うなよ」


 熱源の動きが止まり、勢い良くメルアが振り返った。


「外? 外ですって? 私に外があると思って?」


 余裕の無い、勢いだけの言葉。憤り。

 暗闇で見えないが、唾が飛んでいてもおかしくは無いだろう。


「出られるさ。あと、一年もすれば必ず」


 メルアが鼻を鳴らした。


「お父様がそう言ったの?」

「いや。だが」

「じゃあ無理ね。お父様が拒否すれば全て駄目になる。エスピラだってどうせそう思ってるんでしょ。お父様の意思さえなければこんな女と結婚なんかしなかったって!」

「メルア」

「うるさい!」


 優しめに出した声を両断されて。

 エスピラは、嘆息するとともに無駄だろうが直線で話をつけようと結論付けた。


「凱旋式に夫も連なるなら、妻も沿道に出てくるものだろう? いや、ルキウス様の凱旋式ならばセルクラウスの名誉もかかる以上は出てこざるを得ない。私は神官を務めた後、海を渡って戦いに参加することになっている。な。もうじき、外に出られるようになるだろう?」

「あら。戦争は一日で終わるのかしら?」


 少しだけ、メルアの声が浮ついたように聞こえた。


「私が任ぜられたのは処女神の神官だ。一番目の月には間に合う」

「あら。失礼。此処にいると季節が分からなくなるもので」


 浮ついていた声が瞬時に地の底へと落ちていった。

 季節が分からない、とは言うが、流石に暑い盛りだと言うのは分かるはずである。神官が半年任期の方であることも分かりそうなものである。


「ええ。そうですね。念のため聞いておきますが」


 言葉とは裏腹に、既にエスピラの反応が分かっているような声である。


「神殿には此処から通う、と言う認識で?」

「此処はアレッシアの中心地から遠いからな。泊まり込むことにするよ」


 十分に暗闇になれていた目が、メルアの不機嫌な表情をしっかりと捉えた。

 機嫌の下降を隠そうともしない、社交界慣れしていない彼女そのものを表している顔。華となれるのに自ら千切り散らかすような態度。


 エスピラは、その態度自体には嫌悪感はこれっぽっちも持つことは無いのである。


「どうぞご勝手に」

「近くには居るよ、メルア」


 これは、余計な一言であった。

 元から存在していた怒気が、これ以上があったのかと感嘆するほど膨れ上がり、破裂した。


「近くに居るですって? 私は行けないのに!」


(失敗したな)


 エスピラの左目が細くなり、言葉を探す。

 しかし、メルアがわざわざ見つかるのを待つわけが無い。


「ええ。ええ。そりゃそうでしょうね。エスピラみたいに、世界が広い人には同じアレッシアにいると言うだけで近くなのでしょう。でも残念。私はここが全て。この狭い家屋が世界の全てなの。言わなくても分かるでしょう? どうせ、私が他国の言葉を幾つ分かろうと宝の持ち腐れ。使うことが無いものね。さぞ滑稽に映ったでしょう? ええ。どうせ。エスピラが悪口を溢せないようにするぐらいしか使い道が無いもの」


 衣擦れの音。次いで、メルアが机から何かを、布を持ち上げたのが見えた。振りかぶられ、強引に投げ捨てられる。布は、エスピラに届く前に床に落ちた。


 メルアの荒い息が静寂をしばし支配する。


「メルア」

「何。何も言うことは無いでしょ。どうぞご勝手に。幾らでも侍らせれば? 私は私で好きにさせてもらうから。それで良いでしょう。この部屋から出なければ、私はどうせタイリーのお人形でエスピラをセルクラウスに繋ぎ止める役目を果たしてるんだから」


 言うことは言ったと。

 メルアが鼻を鳴らしてさっさと自身の寝室へと大股で去っていった。

 残されたのはまだ火を灯している光源と、すっかり酔いの醒めたエスピラ。そして、投げ捨てられた布。


 エスピラは布を拾うと、軽くはたいてから綺麗にたたんだ。光源の傍におけば、砕けたタイリーの花瓶の代わりにエスピラが買ってきた花瓶が目に付く。なんとなく触れば、ずっと炎に当たっていたのか少し熱くなっていた。


「はあ」


 メルアが消えた寝室の方を見る。


 また明日は過激な起こされ方をするのだろうな、ともう一度溜息を吐いて、エスピラは光源を持ち上げて自身の寝室へと引いていったのだった。

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