けしごむ
「盗むつもりなんかなかったのにさ」
雄介はふてくされる様に頬を膨らませると、掌の中のピンク色の消しゴムを見つめた。
学校からの帰り道。
走ってここまで来たせいで、少々息が上がって喉の奥に鉄錆びた匂いを感じた。
頭上に広がる空は、夕方に向かう優しい色をしていて、横を通り過ぎる海へ向かう風はどこまでも自由なのに、雄介の気持ちはこの掌の中の消しゴムに縛り付けられていた。
イチゴの匂いのする、少しだけ角のとれた消しゴム。
隣に座っていた朱莉の消しゴムだ。
どれだけ頼んでも貸してくれなかったこの消しゴム。半ば意地で借りたつもりで手を伸ばしたのが2日前。
声をかける勇気がなくて、黙ってこれを手にとったのが、大きな間違いだった。
朱莉のお気に入りだったらしく、彼女はその後、さほどの間をおかず自分の筆箱からこの消しゴムがなくなったのに気がついて泣きだした。
女子が彼女を取り囲んだ。
彼女達で懸命にこの消しゴムを探していた。
その間、雄介はいつ自分の方に疑いが向けられるかと思うと気が気でなくて、時がたつほどに、朱莉の目が赤く染まっていくほどに、言い出せなくなっていた。
その日、かえっていくつも返す言い訳を考えた。
正直に話そうか? 落ちていたのを拾ったと言おうか? たまたま同じのを持っていたと言おうか?
考えても考えても、彼女の泣き顔が追いかけて来て、雄介の胸は無理やり口をふさがれた時のように苦しくなった。
次の日、隣の席には彼女の姿がなかった。
自分のせいだ、消しゴムを返さなかったせいだと思った。
席が彼女の隣に決まった時、本当に嬉しかった。
誰にも言えない気持ち。自分でもよくわからない気持ち。
ただ、彼女の声を聞くと、心臓が駆け、胸がいっぱいになり、苦しいのに不思議とくすぐったくて笑みがこぼれる。
もっと、彼女と仲良くなりたかった。彼女の事を知りたいと思った。喜ばせてあげたいとも思った。
でも、席替えして一週間、まともに話す事は出来なかった。挨拶すらどぎまぎして、いつも怒ったように顔をそむけてしまい、憎まれ口ばかりをたたいていた。
「本当に、盗むつもりはなかったんだ」
雄介は掌の消しゴムに囁くように声を落とす。
今日も彼女の顔を見る事は出来なかった。代わりに告げられたのは……。
ぎゅっと消しゴムを握りしめる。
彼女の転校だった。
最後に見たのが彼女の涙だったなんて……。
雄介は力が抜けそうになる足に力を込め、学校が終わるとすぐに走ってここまでやって来た。でも、もう限界だ。
どうやったって、この消しゴムは彼女に返せない。ごめんね、の一言も言えない。
自分は、彼女の消しゴムを盗んだ泥棒のままだ。
「雄介君?」
その時、声がして、雄介は顔を上げた。
振り返る。
そこには……
「朱莉!?」
信じられない事に朱莉が立っていた。ランドセルを背負い、大きな手提げカバンを肩にかけ、母親とこちらを見ていた。
「今から、電車に乗る所だったの。びっくり〜」
朱莉は母親のもとから彼へ駆け寄ると、満面の笑みに寂しさを滲ませた。
「皆に挨拶もできなかったから……。でも、雄介君に最後に会えてよかった」
そういって薄ら浮かんだ涙をぬぐった。
雄介の鼓動が体の内側から強く彼を打った。
今だ。謝るのなら、返すのなら今だ。
嫌われるかも知れない。嫌われたら、もう仲直り何かできないかもしれない。
でも、でも……。
「あ、あのね、一昨日の消しゴムの事、覚えてる?」
朱莉が頬を赤く染めて訊いた。瞬間、鞭で打たれたように雄介の背筋が伸びる。
朱莉は目を伏せながら肩まで真っ直ぐに伸びる髪を耳にかけ
「もし、見つかったら、そのまま捨ててね」
そう言った。
「え?」思わず声を漏らす。
「大切なものじゃなかったの?」
「うん、大切な、消しゴムだったよ」
「じゃ、どうして?」
朱莉は顔を伏せた。「もう、いいの」消え入りそうな声は涙に滲んでいる。
彼女の辛そうな顔、痛みに耐える顔……雄介の胸が軋んだ。頭ががんがんするほどの罪悪感に、唇を噛む。
ダメだ。やっぱり、ちゃんと謝らないと!
せっかく会えたんだ。嫌われてもしかたない。自分は消しゴムを、彼女の大切なものを黙って取ってしまったんだから。
それより、彼女に、朱莉に消しゴムを返して、彼女の喜ぶ顔を見たい。そうするべきだし、今、しなければきっとずっと後悔する事になる。
雄介は息をのむと、すっと、その彼女の顔の前に手を差し出した。
「ごめん、これ」
「え!?」
朱莉が顔を上げ、手の中の消しゴムを見つめる。
背中に冷たい重しがのしかかるような感覚に、雄介は胸が潰されそうだったが、それを振り切るように頭を下げた。
「盗むつもりはなかったんだ。ただ、借りたつもりで。でも、返しづらくて」
「雄介君」
朱莉はそれを手に取る。手の中からあの小さな塊がなくなり、雄介はホッとした反面、どうしようもない後悔に目を開けられなかった。
その肩に、小さな手が添えられる。
「雄介君、見て」
「?」
朱莉は怒ってはいなかった。むしろ小さな笑みをこぼし、消しゴムを差し出して見せている。
「これね」
そしてすっと消しゴムのケースを引いた。そこには
「僕の名前?」
雄介の名前が赤いペンで書かれていた。朱莉は頷き
「おまじないなの。好きな子の名前を書いて、誰にも触らせないで使い切ったら両想いになれるっていう」
「じゃ、じゃあ……」
朱莉は真っ赤な顔で俯くと、小さく微笑んで。
「おまじない、失敗しちゃった。でも、お手紙、書いていいかな?」
「う。うん」
「忘れないでね」
「わかった」
交わした言葉は短かった。朱莉はその後母親に呼ばれ、駅の方に姿を消してしまった。
雄介は何度も振り返り自分に手を振る彼女の背中を見送りながら、温かくて泣き出したくなるような、自分でも抱えきれない想いに立ちつくした。
彼女が見えなくなった。
掌をそっと開いてみた。
もう、そこにはない小さな消しゴム。
イチゴの匂いが仄かにして、雄介の頬の涙を優しく撫でた。