第6話
しん、と静まりかえった牢獄に、水が流れ落ち音がする。牢獄内にはほとんど風は吹いていないのに、ヒュゥヒュゥと風が通り抜ける音がした。
その牢獄にコツコツという靴の音が響いてきた。足音は牢獄の前で止まると、鍵を解除して、扉を開いた。
「ヒュゥ……ヒュゥ……」
牢獄に入ってきた尋問官はその風の原因を目の前にして、うっとりと顔を緩ませた。そこには、磔になったままのリクトの姿があった。
身体は乾き、口はだらしなく開いたまま。ほぼ白目だけの瞳。生きている人間から見れば、それは死んでいるのと同じだった。そんな状態でも、リクトは生きていた。
呼吸はろくにできず、喉を潤すことも叶わず、食物も食べず、寝ることも許されない。そんな状況が、2日も続いた。
尋問官はその様子に満足した様子で、リクトを押さえつけていた岩を1枚1枚取り除いていく。全ての重しが無くなったとはいえ、リクトの様子は変わらない。
尋問官はリクトに強心剤を打ち込んでから、ゆっくりと水を喉に流し込んでやる。いずれ、リクトの呼吸は元に戻り身体が動くようになっていった。
「おはよう。今度はいい返事がもらえるといいのですが?」
「いい返事? それは、僕が無実だという答えのことか」
掠れた声でリクトは言い返した。その回答に、尋問官の顔は笑顔に歪む。
尋問官は仰向けになっているリクトの、手に届きそうな場所に水の入ったコップを置いた。今すぐにでもそのコップを手に取り、水を飲み干したい衝動に駆られる。
「お前が偽造を認めるなら、飲むことを許可します」
コップに伸びていた手が止まる。喉を潤したいという渇望、罪を認めるわけにはいかないという固い意志がリクトの中で揺れ動く。本能と理性がぶつかり合う。手を伸ばしたまま、リクトは動きを止めてしまった。
「どうしたのです? 飲まないのですか?」
尋問官の言葉が甘い蜜の様に聞こえる。カサカサになった喉は水を求めてやまない。心が本能を許してしまいそうになる。伸びていく手を、もうひとつ手で押さえつける。
そんな揺れる心を理解している尋問官はもうひとつ用意したコップをリクトに見せる。そのコップには水がなみなみとはいっており、リクトは視線を向けてしまう。それを見た尋問官はコップを口につけて、飲み干した。
「はぁ。なんと美味しい水でしょう。身体に染みわたるようです」
尋問官はリクトに見せつけるように、その飲んでいる姿を見せつけてきた。乾いているはずの喉がゴクリと鳴る。リクトはすぐに視線を外すと、目をつぶって何も見えないようにして、誘惑から逃れようとする。
「……用事を思い出しました。俺はここを離れます」
そう言いった尋問官が去っていく足音が聞こえてきた。どこかへ行ってしまったようで、水の入ったコップがそのまま残されていた。リクトは目を閉じて開けないように努めた。水を見たら、飲み干したいという衝動に負けてしまう。それは絶対にしてはならないことだ。
尋問官が去ってから、どれだけ時間が経ったのかわからない。必死に水を飲まないことだけを考えていた。いつしか、匂いがないはずの水が甘い匂いを漂わせてきた。匂いなどないが、リクトにそう錯覚させてしまっていた。どれだけ待てばいいのか、わからない焦燥感が苛んでくる。
リクトは少し考えてしまう。少し飲んで、コップを叩き割ってしまえばいい。割ったコップから流れた水など、正確にわかるわけがない。一度思いついたことは、なかなか頭から離れない。そんな方法で無罪を勝ち取って何の意味があるのか。そう心に言い聞かせて煩悩を打ち払う。
カツカツと革の靴が石畳を叩く音が聞こえてくる。それはこちらに近づいており、すぐ隣にくると足を止めた。
「すばらしい。よく我慢しましたね。お前という人間がほんの少しわかってきました」
目を開けると尋問官がこちらを覗きこんでいた。その目は細く、目じりが下がっていた。
「じゃあ、答えてください。城塞で偽造手形を使ったのですね?」
リクトはカラカラになった喉から必死に声を絞り出す。
「絶対に、使っていない」
声を出すだけで、喉に痛みが走った。リクトは顔をしかめながらも、そう言うことができた。
「いい返事です。そこまで言うなら、お前にチャンスをあげましょう」
尋問官はそう言うと、リクトの前にパンと冷めたスープ、さらにコップに入った水を差しだしてきた。どうやら、先ほど立ち去ったのは、これを持ってくるためのようだった。
リクトはそれに手を出さなかった。まだ、自分は試されていると考えていた。今までの仕打ちから、こんなことを許されるなどある筈がない。
「これは、交換条件です。この食事の代わりに、俺の言うことをきいてもらいます」
そう言い終わると、尋問官はリクトのすぐそばにあったコップを手に取ると、リクトの口に水を注いできた。急なことに、リクトは激しくむせてしまい、激しく咳をした。その度、身体が痛んだ。
尋問官の手で仰向けのリクトは上半身を起き起き上がらせられた。コップを手に持たされ、尋問官の誘導で口に持ってきた。それをゆっくりと喉に注がれた。
先ほどの乱暴なものではなく、こちらの身体をいたわっているように感じた。許されたのだと、リクトは思った。空腹を覚えていたリクトは痛む喉をいたわりながら、ゆっくりと食事を取った。
リクトが人心地ついた頃に、尋問官が語りかけてきた。
「戦争に参加して、戦場で戦ってもらいます」
尋問官の言葉に、リクトは眠たそうだった目を見開いた。
戦争。
それは田舎にいたリクトでも分かる。だが、それは、人間のすることではない。とっくの昔に人間は役立たずになったはずである。
「どういう……意味か分からない。人間なんて役になたたないはずだ」
尋問に耐えてきたリクトであっても、尋問官の申し出は理解しがたいことだった。
「戦争なんて、マナ人間がやることだ。僕に馬の代わりに馬車を引けと言ってるのと同じだ」
戦争。
それは、マナ人間が行う代理戦闘。
人と人が争わない為に、マナ人間が戦闘行為を行い、国家間の陣取り合戦をする。だから、戦争というのは、人の為であっても、人が行うものではない。
「そうです。お前には馬車の代わりにマナ重機を動かしてもらいます」
リクトにとって、いや、人間にとって、意味の分からない言葉に、ただ混乱するだけだった。マナ重機。それは人間では動かすことのできない機械。人間が動かせないものに乗って戦争に参加しろというのか。
「お前には新設される部隊の部隊長として指揮を執ってもらいたいのです」
リクトは混乱する頭で何が起こっているのか整理を始めた。だが、整理が追い付かないまま、尋問官は言葉を続ける。
「どうせ、尋問に耐えられず死ぬか、あることないことを自白させられて処刑されるか、そのどちらかしかありません。生きたいのであれば、選択の余地はないと思いますが?」
リクトも選択の余地がないことは理解できる。もう一押し欲しい、と思ってしまう。このまま尋問を受け続け、無実を証明できる可能性も捨ててはいない。今は尋問官によって生かされているとう現状もある。尋問官の思いひとつで、自分は簡単に死んでしまう。それを踏まえて考えなければならない。
「新設の部隊で戦果をあげれば、お前の故郷、ハジクシミに金銭的援助をするように上申することを考えています」
尋問官の甘い言葉に、リクトの考えは纏まった。
工芸品を売ることができなくなった現在、故郷にお金を持ち帰ることはできない。だが、戦争に参加すれば、故郷にお金が入るかもしれない。ここで無駄死にするよりも、故郷に貢献できる。その可能性があるのだというなら、リクトの答えは決まっていた。
「わかりました。戦争に参加します」
その回答に、尋問官は今までにはない最高の笑顔を見せた。同時にリクトも腹を決めた。