第3話
母が死んだ。
母と2人暮らしであったリクトは、近いうちに母が死ぬことはわかっていた。
ただの風邪だったはずが、その病状は治まることはなく、母親はどんどん衰弱していった。
そして、看護の甲斐なく、今日、ついに母はその命を落とした。
母の遺体を村の外れに埋葬した後、リクトは母と暮らした家へと戻ってきていた。
日は落ち、夜に近づく時間、リクトはベッドに座り、蹲っていた。
普段は感じなかったが、ひとりになったせいか、部屋の中がやけに広く感じる。
今にも母の細い声が聞こえてくる気はするが、そんなことはない。
あまりにも静かで、自分の鼓動以外は、何も聞こえない。
今はベッドの上で微笑む母の顔が思い出せる。
いずれ、それも思い出せなくなることが、リクトは怖かった。
どれだけ時間が経ったのだろうか、夜が訪れ家の中は真っ暗になってしまう。
灯りひとつない室内で、リクトは何をするともなく膝を抱いて蹲ったまま、存在していることしかできなかった。
真っ暗な部屋のドアが開き、ランタンの灯りが入ってくる。
そのランタンはリクトの顔を照らしてきた。
「……まだ、ここにいたんだ。大丈夫?」
ランタンを持ち込んだのは、ハルカだった。
リクトを心配して、家までやって来たのだろう。
テーブルにランタンを置くと、リクトの前までやって来る。
「大丈夫。僕は大丈夫だよ」
リクトはようやく顔を上げた。
その顔をハルカの手が触れる。
「そんな事ない。だって、泣いてるじゃない」
その手で、頬を伝う涙を拭ってくれる。
そこで初めて、リクトは泣いていることに気付いた。
母が亡くなったことで、胸にぽっかりと穴が空いている。
母の愛は最も深い。その愛が、リクトから零れ落ちてしまっていた。
「おかしいな。僕は大丈夫なのに。こうなることはわかっていたはずなのに……」
リクトは自嘲気味に言い捨てる。
ハルカはそんなリクトの頭の後ろに手を回すと、自分へと引き寄せると、胸で抱いてきた。
「お母さんの代わりにはなれないけど、リクトが辛いときは、私が傍にいてあげる」
いつしか、リクトの涙は止まっていた。
◆
「おい、牢から出ろ」
衛兵の声にリクトは目を覚ます。石の床に寝ていたせいか、身体が冷たい。幾度となく受けた暴行で、全身が痛む。声の方を見ると、2人の衛兵が牢屋の外からリクトを見ていた。
「……」
リクトは無言で相手を睨む。彼らはリクトにとって許すことのできない相手だ。だからと言って、抵抗したところで状況は好転しない。また暴行を受けるだけだ。身の潔白を証明する他にない。
起き上がろうとするが、手足の痛みから上手く立ち上がれない。少しよろめきつつも、衛兵のいる手前までやって来る。
「……少しは大人しくなったか」
中年の衛兵が牢のカギを解除して扉を開く。若い衛兵は素早くリクトに近づくと、木製の手枷をつけてきた。
「お前はこれから王都セントロタスへ送られる。そこで裁判を受けろ」
若い衛兵に背中を蹴られて、倒れるように牢の外へ出る。中年の衛兵の先導によって、石造りの部屋から出ていった。
大きな城塞の隅に備え付けられた金属製の扉から、衛兵2人とリクトが外に出てくる。その脇には幌馬車が停留されていた。
「おい、こっちだ」
若い衛兵に引っ張られて、馬車の後ろにやって来た。そこからは、幌の中がよく見える。リクトと同じように手枷をされ、貧相な身なりの人が十数人乗っていた。
誰もが俯き、喋ることもしない。ここにいる人たちは自分と同じなのだと、リクトは理解した。
「乗れ」
中年の衛兵に促され、馬車に乗り込む。リクトと同様に牢に入れられていた人間が多いのか、酷い臭いが鼻を突く。鼻を押さえようにも、手は拘束されており、それは叶わない。
人ひとりが座れるスペースに腰を下ろす。それを確認した中年の衛兵は手を振って、御者に合図を送る。御者は手綱を振って、馬車を発進させる。
最初こそ激しく揺れたが、その後は軽い振動しか感じなくなった。リクトは無言で馬車に揺られ続けた。
「あんた」
誰かを呼ぶ声がした。
そちらを見ると、目が落ち窪み、頬はこけ、額には深いしわを刻んだ白髪の老婆がいた。彼女の視線はリクトに向けられていた。
「あんた若いのに、何をしたんだい?」
自分に訊ねかけられていることに気付く。そのしわがれた声は酷く疲れているように聞こえた。
「僕は何もしていません。ですが、偽の通行手形を使ったことにされました」
リクトの言葉に、老婆は目じりを下げて、こちらを見つめくる。その視線は哀れみだった。
「そうかい? でも、ちゃんと告白しないと、罪が重くなるわ。本当のことを言いなさいね」
自分の身は潔白であるのなら、告白する罪などありはしない。そのように言っているにも関わらす、老婆は罪を告白しろと言う。その言葉に苛立ちを憶えた。
「僕には告白するようなことはありません」
「それはダメ。きちんと言わないと、はただ苦しくなるだけなのだから……」
老婆が何を言いたいのか、その意味がリクトには理解できない。全てを諦めきった老婆の姿は、もう罪を認めていた。後は、どんな罪状を押しつけられるか、それを待っているだけに見えた。
「僕は無実です。こんなのは間違っている」
託された品々を壊されたことで、もうお金を得る手段はない。それでも、なんとかしてお金を稼いで村に送らなくてはならない。
このまま犯罪者に仕立て上げられる訳にはいかなかった。
リクトの言葉が、老婆にどのように聞こえたのかわからなかったが、もう声をかけてくることはなかった。
※
馬車に乗り、どれだけ経ったのだろうか。少なくとも2度は日の出を見たはずである。いつしか、軽い揺れは収まり、馬車が停止した
「おい、出ろ」
誰かの声が聞こえ、ひとりまたひとりと、馬車の中から人が減っていく。話しかけてきた老婆も、馬車から降りたのか、姿を消していた。
リクトの番になり、馬車を下りようとするが、意外と車高が高い。手枷をつけられた状態では、少し不安定になってしまう。下の方から、誰から手を差し伸べられた。透けてしまいそうな白い手。その手を借り馬車の荷台から降り、石造りの道に足を着ける。
荷台から降りると、白い手の主を見ることができた。
人間離れした色素の薄い緑をした髪と瞳。
意志がないかと思うほど、表情のない顔。
薄汚れた布切れと変わらない服を着た女性だった。
「マナ……人間?」
その人物にリクトは目を白黒させた。
「なんだ、貴様。マナ人間を見るのは初めてか?」
罪人を見張る兵士のひとりがリクトに声をかけてくる。
マナ人間。
人間とは全く違う生まれを持つ人間。
生まれた時から、意志は薄弱、人に命令される下等な存在。そのため、人間と区別するためにそう呼ばれる。
「僕は田舎で暮らしていたので」
「そうか。なら、王城を見るのも初めてだな、上を見てみろ」
兵士に言われるまま、上を見る。そこには、大きな高い屋根を持つ城が見えた。その屋根からは木の枝が生えており、青々とした葉をつけている。まるで、城と木が同化しているようようだった。その城の隣には、屋根より高い煙突があり、黒煙が昇っていた。
王城を初めて見るリクトには、あまりに異様に感じる。ただ、人が住まうだけのものではないと、直感で理解した。
「城から生えているのが、マナの大樹だ。あれの実から――」
「罪人が逃げたぞ! 捕まえろ!」
解説する兵士の声を遮って、怒声が響く。
その声を見ると、手枷をつけた比較的若い男性が組み伏せられていた。その様子を見ているだけの女性がいる。彼女は色素の薄い、マナ人間であった。
「くそっ! 簡単に逃がすんじゃねぇ! 全く、これだからマナ人間は使えねぇ」
苛立つ兵士が棒立ちしていたマナ人間を殴る。マナ人間は抵抗するでもなく、地面に倒れ込むが、何も言わず立ち上がった。あんな仕打ちがあったというのに、マナ人間は何の感情も持っておらず、平静なままだった。
人間であれば、その仕打ちに何らかの感情を抱くはずだ。だが、マナ人間にはそれがない。その様子はあまりに異様であり、生物的な嫌悪があった。リクトにとっても、マナ人間という異質な存在に、胸が気持ち悪くなった。
リクトと話をしていた兵士も慌てて、見張りに戻っていった。
「……こちらへ」
マナ人間の指示によって、罪人たちは1列に並ぶ。リクトも同じように列に並び、先導されるがまま先に進む。
「おい、お前はこっちにこい」
見張りの兵士が槍で行く手を阻むと、違う道を示しす。
なだらかな傾斜をした石造りの道は城門へと続いていた。列から外れたリクトは、先ほど見上げていた大樹の生えた城へと歩き出した。