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後編

 リガスは控え室で、拳に拳帯を巻いていた。

 既に試合を終えた闘技者たちは、各々思い思いのことをして時間を潰している。普段ならば自分の試合が終われば帰る者が多いが、今日は違うようだ。

 部屋の隅に目をやると、少女がひとり、柔軟体操をおこなっている。控え室にいる者たちの注目はリガスと、先の試合で実力者であるエジェオを破った彼女――トゥリに集まっていた。

 今日、リガスとトゥリは舞台上で闘う。

 三日前トゥリから出された条件を満たすために、今日の試合が組まれた。先日の試合で確かな実力を示し注目も集まっているトゥリと、闘技場最強の男であるリガスとの闘いは、興行的にも申し分ない。ふたりが直訴すると、興行主のフリアンはあっさりと試合を認めてくれた。

 何度も闘った舞台だ、緊張はない。それよりも《双半月》の遣い手と闘えるという事実が、身体を昂ぶらせている。これまで積み重ねてきた己の強さが、あの武術に通じるのかどうか。それを確かめられる絶好の機会だ。

 控え室の外で歓声が上がった。どうやら前の試合が終わったらしい。リガスは立ち上がり、入場口へと向かう。トゥリもそれを見て、後に続く。ふたりが観客の前に姿を見せると、歓声が起こる。この日最後の、そして最注目の試合を前にして、会場の熱狂も最高潮に達していた。


 ふたりが円形の舞台上に上がると、一際歓声が大きくなった。

 リガスとトゥリは互いに向き合う。

 身体はいままでになく軽い。左半身で、拳は軽く握り左腕を少し下げる。身体に染みついたその構えが、リガスを闘争の世界へと誘ってくれる。


「さあ、やるぜ」


 リガスが言うと、トゥリは愉しそうに笑って頷いた。


「うん」


 試合が、始まる。

 トゥリは相変わらず、足を交互に後ろに下げる例の足捌きを見せる。これが彼女の遣う《天つ風》の基本的な構えなのだろう。

 お互い、すぐには動かない。リガスにとってトゥリの武術は未だに得体の知れない部分がほとんどで、迂闊に動くことは敗北につながりかねない。彼女は昨日でリガスの実力を見抜いているはずで、慎重に動くことだろう。

 リガスが踏み込むような仕草を見せれば、トゥリの足踏みが一瞬乱れる。実際に踏み込むわけではない、あくまで重心移動による牽制であることは容易に見抜かれているらしく、彼女はそれ以上の反応は見せない。


 相対してみて初めてわかったが、トゥリの構えは想像以上に闘りづらい。

 上体をかなり低くしているため、元の身長差も相まって、拳闘を主とするリガスは有効打を打ちにくい。そのうえ、あの妙な足捌きのせいで蹴りが繰り出されるタイミングがうまく掴めない。そもそも蹴り技の方が殴打よりもリーチが長く、特にあの脚を振り回すような技の圏外となると、かなりの距離が開く。安易にその領域に飛び込むことは、間違ってもできない。

 均衡状態がしばらく続くと、最初は謎の少女対路上闘技の王者に盛り上がっていた観客たちも、次第に苛立ちを募らせ始める。歓声の中にちらほらと、「ガキにビビってんのか」「やる気ねえならやめちまえ」といった、リガスに対する罵倒が混じり始めた。しかし、それは彼らが何の心得も持たない素人ゆえ、仕方のないことだ。

 この何もしていないように見える時間にも、リガスとトゥリは、四肢の僅かな動き、重心の変化、視線といった数多の情報をやりとりして、互いの出方を窺っている。その情報が溢れかえり、堰を切ったように流れ始めるとき。


 それは、瞬く間に訪れた。


 リガスが、蹴りの間合いに左足を踏み入れる。

 トゥリの右脚が下がった瞬間に合わせて、左外腿を狙った鋭い右のローキック。機動力さえ奪えば、力で勝っているリガスが圧倒的に有利だ。だが彼女はその蹴りを、軸足を右に移して左脚を浮かせ、身体を一回転させることで躱す。回転の勢いを利用し、浮いた左脚でそのまま前回し蹴りを放つが、リガスの右腕で簡単に受けられる。重心が後ろだったために威力はほとんどなかったが、リガスは一度後退することを選んだ。ふたたび、両者の身体が間合いの外に外れる。

 昨日は見せなかった足技とあって、彼女の不意を突くことを期待したのだが、そう上手くはいかない。それどころか反撃まで。やはり足技は相手の土俵だ。

 踏み込んで蹴りの間合いを殺しての近接格闘。それが最良だろう。


 ふたたび間合いに、今度はぐっと身体を縮こめて勢いよく飛び込む。それを見越したかのように、トゥリは右後ろ回し蹴り――《双半月(エスタ・ロ・ムルナ)》の体勢へと移行した。

 意識を刈り取る魔性の鎌。それがリガスの右側頭部に襲いかかる――が、リガスは怯むことなく右腕で防御しながらさらに踏み込む。固く締まった向こう脛が腕を打つ音が響く。打点をずらされた蹴りの威力は半減し、二周目に移ることはできない。


「な――っ!」


 トゥリが思わず声を上げる。昨日一度見せただけの技を、こうも容易く攻略されるとは思ってもいなかったのだろう。だが、リガスにとっては数え切れないくらいに思い描いた技だ。

 《双半月》はただの後ろ回し蹴りではない。通常のそれは相手に背を向けるために衝撃の瞬間、相手から視線を切ることになる。だが《双半月》という技は、股下から相手を覗き込むことで相手の回避をも見通すことができる。それを知らない相手は普通の後ろ回し蹴りと同様の対処をして、顔面を打ち抜かれることになる。初めからそのからくりを知っていれば、たったいまリガスがしたような対応も可能になるのだ。

 勢いの死んだ右脚を、リガスは空いた左手で掴む。トゥリは左脚で思いっ切り地面を蹴り、空中で身体を左に捻り脚の拘束をうまく切った。だが、体勢は崩れたままだ。

 両足と左手により着地、右手で顔の急所は防いでいるものの、それはリガスにとって紙と変わらない防御だ。


「隙だらけだぜ」


 身体を沈ませながら右脚を踏み込み、弾くように右のアッパーフックを振り抜く。トゥリの身体が大きく跳ね、後方に吹き飛んだ。本来カウンターとして放つことで威力を倍増させる《跳ね角(クエルナ)》だが、体勢の崩れた相手に対しても同様の威力を発揮する。受け身は間に合ったようだが、いままでの曲芸師のような着地ではない、背中からの接地。

 リガスの拳に残った感触は、顎の骨を打ち抜いたものではなく、前腕の筋肉を打ったものだった。トゥリは、防御に加えて衝撃と同時に後ろに飛び上がったらしかった。威力は多少殺せただろうが、《跳ね角》によるダメージは大きいはずだ。

 リガスが追撃しようとしたところで、トゥリが前蹴りを放つようにして飛び起きたため、右足を一歩踏み出したところでその場にとどまる。


「リガス、強いね」


 微かな笑みを浮かべる彼女は、口許を切ったのか僅かに血を流している。


「軽口叩いてる暇はねえだ――ろッ!」


 叫び、リガスは蹴りの領域へ飛び込む。

 放つのは体重を乗せた右ストレート。トゥリは上体を手が地面に着くほどに反らしそれを躱す。リガスの足下に残ったままの両脚を跳ね上げ、顎に向けての蹴りを放つ。息が止まる。重心をすんでのところで後ろに移すが、間に合わない。彼女の右の爪先がリガスの顎を掠める。僅かに怯むが、それだけだ。地面に向かう力に逆らう一撃は、直撃ならまだしも掠めただけでは大の男を昏倒させる威力は持っていない。

 リガスは背中を反るように重心が崩れているし、トゥリは背を向けて倒立の姿勢だ。お互い、体勢は十分でない……はずだった。


「はァ?」


 思わず、リガスの口から声が漏れた。

 トゥリはそのまま倒れ込むどころか、両脚を天に伸ばし倒立を保っている。真剣勝負の最中だというのに、彼女はまるで子供が戯れるように逆立ちをしていたのだ。

 自分の理解が及ばない光景に、彼はほんの瞬く間、思考の自由を失った。だがそれは、リガスにとって致命的な一瞬となり得る。

 ふと我に返ったときには遅かった。

 次の瞬間に彼を襲ったのは、足の甲が左頬を強く叩く衝撃だった。重くはない。だが、身構えていないところにまともに喰らってしまった。視界が揺らぐ。世界が傾きかけた直後、リガスはすんでのところで身体を支えきることができた。

 そこまで経ってようやく、リガスは目の前の少女が何をしたのかを理解した。倒立のまま腰を捻ることで反動をつけ、同時に支点を右片手のみにすることで独楽のように回り、右足による蹴りを放ったのだ。

 リガスはすぐにトゥリに向き直る。すでに彼女は地に足をつき、必殺の一撃を放つ準備を終えていた。


 ――来る。

 回避は……かなわない。ならば先程のように一撃目を受け、反撃に転じる。……いや、あれは体勢が十分だったからできたこと。


「《双半月》」


 トゥリの左手が地面につく。股下から覗く彼女と、リガスの視線が交差する。上体により反動のついた右脚が、半月の軌道を描いてリガスの首元に迫り来る。だから彼は――右足を、思いっ切り踏み出した。

 その行動により、がくんとリガスの頭が沈み込む。予想外の行動だったのか、はたまたそれすらも計算の上なのか、トゥリの右脚はリガスの頭頂部を僅かに擦り、鈍い音とともに通り抜けていった。無傷ではない。だが、勝ちの目はまだ途切れていない。この一歩は《跳ね角》の開始動作だ。二周目に入るために起き上がったトゥリの顔をこの技で打ち抜く。


 トゥリの頭が起き上がってくる。リガスの、牡鹿が角を跳ね上げるような右拳が、それを捉えるべく下方から迫る。だがその一撃は、虚しく宙を切った。二周目の軌道に入ることを想定した軌道のはずだった。彼女は、ふたつ目の半月を描かなかった。呟いた技名がはったりだったとリガスが気付いたときには、もう遅かった。

 上体が起き上がってきたところで、トゥリはそれをそのまま前方に投げ遣る。お辞儀をするようなこの行動のために、リガスの拳は彼女の背中の上の何もない空間を通り過ぎたのだ。

 上体を前に倒す反動と同時に、トゥリは地面を蹴っていた。左手のみを支点として、彼女の全身が宙に投げ出される。小さく丸めた身体が回転の力を余すところなく伝えるのは、唯一天へと伸びた右脚だ。


「《雷光(ヘランシオ)》」


 それは、稲妻の如く天から落ちてきた。


 低く沈んだリガスの頭。《跳ね角》を空振り大きな隙の生まれた頭頂部に、トゥリの振り落とした踵が突き刺さる。脳が揺れる。リガスの視界が白く染まり、星が瞬いた。意識が朦朧とする。まるで、夢をみているかのようなふわふわとした感覚。このまま全てを放り出せたら、どれだけしあわせなことだろう。


 ――負けられない。


 ふっと胸に湧いたその感情が、ただそれだけが原動力となって意識が途切れる寸前のリガスを動かした。前に倒れつつあった身体を、無意識に踏み出した左足が支える。闘争本能に身を任せて、前を向く。

 白い視界の中心に、彼はいた。

 褐色の肌、亜麻色の髪。トゥリに重なるその顔の輪郭。ああ、そこにいるのは、リガスが夢想し、追い求めた強さの象徴ではないか。

 現実にはそこにいるはずのない彼が、何かを口にしたような気がした。それは、あの半月の夜に彼が言った言葉だ。


 ――ああ、そうか。おれはまだ強くなれるのか。


 頬を叩く強い衝撃。半月の軌道を描いたトゥリの右脚が、リガスの意識を刈り取った。




 リガスが目を覚ますと、目の前には天井があった。背中には固い感触があり、ベンチの上に寝転がされていたのだろうとわかった。それが何を意味するのか、長くここで闘ってきた彼はよく知っている。


「負けた、のか」


 茫然と、呟く。

 ここは闘技場の控え室だ。勝負が決し自力で動くことができなければ、深刻な状態を除きここに運ばれ、適当な場所で意識が戻るまで寝かされる。

 身体を起こそうとするが、失神させられた影響か、起こそうとした上体がぐらりと傾く。倒れそうになったリガスの右腕を咄嗟に支えたのは、小さな女の手だった。


「大丈夫?」


 訊ねる声の主は、リガスを気絶させた張本人であるトゥリだった。彼女に支えられながらリガスは周囲を見回したが、二人の他には誰もいない。


「おれはどのくらい寝ていた?」

「もう夕暮れだよ」


 言われて初めて、窓の外から差し込む光が茜色であることに気付いた。試合のときが昼下がりだったことを考えれば、随分と長い間眠りこけていたことになる。他の闘技者はもう帰ってしまったのだろう。

 添えられたトゥリの手を払い除けようとして、リガスは彼女の顔を見た。

 憂いを帯びた表情からは、本気でリガスを心配していたのだろうことが伝わる。先程まで、殴り合い蹴り合う、最も原始的な手段で語り合っていた相手とは、とても思えない。彼女のそんな様子を見ていると、胸の内で渦巻いていた悔しさはどこかへいってしまった。

 強く撥ね除けようとしていた彼女の手を、代わりにそっと払う。


「負けたよ、トゥリ」


 彼女に向き直ってそう言う。リガスのような人間にとって素直に敗北を認めることが、どれだけ難しいか。だが、彼女のお陰であの男――マールとの距離がわかった。あとどれだけ研鑽を積み、死闘を越え、強くなれば良いのかが。

 改めて彼女の顔を見ていると、確証のなかったはずのマールが父親だという話も、改めて信じられる。闘ってわかった。やはり間違いなく、彼女は彼の娘なのだ。

 すっと、開いた右手がリガスの前に差し出される。


「また、やろう」


 にかっと歯を見せて笑う彼女は、どうやら握手を求めているらしかった。

 少しの間、リガスは彼女の手を見つめていた。それから自嘲気味に笑ってその手を握り返した。


「当たり前だ」


 ――おれは、まだまだ強くなるのだから。

 格闘が書きたかったんじゃい。

 というわけでカポエイラ風武術VSボクシングを書きました。

 最近格闘技にハマってて、いや昔から『あしたのジョー』とか好きだったんですけど、なんだか書いてみたくなって、本当に数年ぶりにバトルのある作品を書きました。久々にしてはそれなりに読めるものに仕上がった気がします。

 ちなみに、≪双半月≫はハボ・ジ・アハイアであったり、≪跳ね角≫はガゼルパンチであったり、基本的に技の原型は現実にあるものですが、≪雷光≫については半ばオリジナルです。


 めっちゃ続く風に書きましたが、そんな予定はありません。いつか書くかもしれないけど。

 格闘技経験は合気道半年のみのだいふくがお送りしました。それでは。

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