前編
しくじったと思った。
リガスのように身寄りのない子供がこの町で生きていくのならば、理不尽な力を持つ者に逆らってはならなかった。そのはずなのに、今日は本当についていない。酔っ払ったならず者に目をつけられ、町の外れまで連れ出されてしまった。
この男は、最近この辺りで悪名を広めている。噂によると、何人か殺したことがあるとか。はっきり言って、リガスは最悪の相手に絡まれてしまった。
ならず者は、リガスを乱暴に地面に押し倒す。ぎろりと睨みつける三白眼が、強く尻餅をついたリガスをその場に縛り付ける。
――駄目だ、殺される。
リガスがそう思ったとき、ならず者の肩を誰かが叩いた。それは、彼が振り向いた刹那のことだった。
半月を、見た。
空に在る月ではない。だが、その男の脚が描く軌道は紛れもなく、今宵、頭上に浮かぶ半月であった。
回し蹴り、になるのだろうか。
腰から上をぐっと後ろに回しながら頭を落とし、左手を地面につく。まるで左脚を軸にした独楽のように美しく回転する。半月のように弧を描いた右脚が、踵から相手の顔面を捉えるかに思えたが、相手のならず者にも格闘の心得が多少あったのか、酔っ払っているにも関わらず、上体を反らすことで紙一重で蹴りを躱した。
後ろ回し蹴りは威力が大きい反面、いまのように躱されてしまえば大きな隙が出来る。それは、素人であるリガスでも分かるようなことだ。
ならず者は反撃の好機とみたか、後ろに下げていた重心を前に傾ける。
次の瞬間、彼の顎は男の右踵によって打ち抜かれた。
その衝撃はならず者の脳天を揺らし、彼の意識を簡単に刈り取った。
ふっ、と白目を剥いたならず者は、膝から地面に崩れ落ちた。きっと、彼は目を覚ましても何が起きたかわからないことだろう。傍から見ていたリガスでさえ、どのような術によってそれが為されたのか理解できていなかった。
避けられた筈の半月が、まるで先ほどのものが幻影であったかのようにふたたび現れ、敵対者の顎を打ち抜いたのだ。
地面にへたり込んだまま呆然としていたリガスをちらりと見て、男はひと言呟いた。
「エスタ・ロ・ムルナ」
この国の言葉ではなかった。
薄雲に隠れていた月が顔を覗かせて、男の姿がはっきりと見える。
褐色の肌は、白い肌を持つルメイア人とは、つまりリガスとは異なる人種であることを示している。海の外から来た者たちが、そのような肌の色をしていると耳にしたことがあった。
褐色の男はリガスに手を差し伸べる。その手を取ると、男はぐっと引っ張り上げリガスを立たせた。それからリガスの両肩に手を乗せて、背丈に合わせるように中腰になる。彼は黒い瞳でリガスをじっと見つめ、
「強く、なれ」
片言のルメイア語でそう言った。
男はそれ以上何も言わずに立ち上がり、どこへともなく去って行った。
その場に残されたリガスは、彼が闇の中に消えゆくのを見届けた後、空を見上げた。そこには、半月が在った。
――強くなれ。
男の言葉を、脳裏で幾度も反芻する。
夜が、更けていく。
***
広場はいま、熱狂に満たされていた。
集った人々は何かを中心にするように輪をつくり、怒号と歓声を浴びせている。
リガスはその狂乱の中心、円形の舞台上にいた。
左半身に構え、左腕は胸元まで下ろしている。
相対するのはオルトロという、体格の良い格闘家だ。リガスよりも一回り以上も大きい……が、ただそれだけだ。必要以上に肉のついた身体は、胴体への打撃の衝撃は緩和できるかもしれないが、その分動きは鈍重になる。重さに任せた攻撃は確かに威力はあるものの、避けてしまえばどうということはない。
オルトロとリガスはいままでに何度か対戦したことがある。結果はいずれもリガスの勝利。正直なところ相手にならない。観客もリガスにばかり賭けるものだから、配当金が低くなる。とはいえ、この界隈でリガス以上に強い者がいないのだから、仕方のないことだ。
オルトロのスタイルはリガスと同じ拳闘だ。打たれ強い肉体で攻撃を受けて、反撃の一発を確実に当てる。体格任せの闘い方とはいえ、贅肉の下に隠れた筋力は相当のもので、喰らえばリガスとて無事では済まない。
喰らえば、の話だが。
リガスは軽快なフットワークでオルトロとの距離を詰める。オルトロは警戒しているのか慌てて距離をとるが、リガスの速度の方が勝っている。距離を測りつつ、しなるような左の軽打を数発、太い腕の上から見舞う。隙を見つけたと言わんばかりに大ぶりの右が横から飛んでくる。戻した左腕で受けるが、ガードの上からでもその一撃は重く響く。軽打で牽制しながら一度大きく距離をとる。
様子見程度の打ち合いであっても、興奮した観客は湧き上がる。
観客がリガスに求めているのは、ただの勝利ではない。白熱する試合。あるいは、王者であることを示すような圧倒的な勝利だ。
リガスはもう一度、今度は一気に距離を詰める。焦ったオルトロが迎撃しようと左のジャブを繰り出してくるが、それは簡単にいなす。彼の左腕の戻りに合わせて、リガスは腰をひねり、防御の上から渾身の右ストレートを叩き込んだ。布で固められた拳はガードを弾き、オルトロの鼻頭を強く打った。腕で威力が軽減されたせいか、ダメージはそこまで大きくないようだが、それでも彼の鼻からは鮮血が噴き出た。リガスの左腕は胸元におかれたままで、彼の左頬はがら空きだった。後退しようと、リガスは重心をやや後ろに反らす。
リガスが退こうとするのを好機とみたか、オルトロはリガスとの距離を離すことなく踏み込み、渾身の右フックを放ってくる。そして、それはリガスの思い通りでもあった。
重心移動は、はったりだ。
リガスは左前方に沈み込むように踏み込んで、オルトロの拳を避けつつ懐に飛び込む。同時に、振り上げるように弧を描いた左拳がオルトロの顎を強かに打ち抜いた。
自身が踏み込もうとする勢いが上乗せされた顎への一撃。いかに牛のような巨体といえど、その威力には耐え切れないらしかった。まるで糸が切れたようにあっさりと、オルトロは地面へと崩れ落ちた。
――《跳ね角》。牡鹿の角のように懐から突き上げられる拳は、まともに受ければいかに頑強な者でも耐えることはできない。
リガスの代名詞とも言える技による劇的勝利に、歓声が巻き起こる。リガスは右拳を高く突き上げ、雄叫びを上げる。彼を賞賛する声と、オルトロを罵倒する声が広場に響く。
リガスが広場の闘技舞台を降り控え室に戻ろうとすると、にわかに歓声が大きくなった。この闘技場で最も強い彼の試合が目玉として最後に据えられているはずなのに、その後にこれほど盛り上がることがあるはずがない。驚いてたったいま自分が降りてきた舞台を振り返ると、その熱狂の原因が何であるかはすぐにわかった。
少女が、舞台上に立っている。
褐色の肌と亜麻色の髪をもったまだ幼い少女。ルメイア人ではない。肌と髪の色のせいか、あの男とどこか似たような雰囲気を感じさせる。
まさか彼女が闘うわけではあるまいと思ったが、彼女は拳に、闘技者だけが巻くはずの拳帯をきつく締めていた。
「まさか、あいつが?」
信じられない、というようにリガスは呟いた。
下半身は緩いズボンのせいでどうかわからないが、少なくともシャツから伸びる腕の筋肉は、それほど力強そうには見えない。いや、いくら筋肉をつけていたとしても、武術を遣う男との差をそう簡単に埋められるはずもないのだが。
そもそもリガスは、彼女を控え室で見た覚えがない。おそらくは、興行主であるフリアンの差し金なのだろう。若い娘が闘技場に立てば、試合の内容がどうであれ盛り上がる。そういう見世物としての役割ならば、控え室にいなかったのも頷けた。この場の誰も、彼女に対して闘技者としての実力など期待してはいないのだ。
少女の対戦相手が舞台に上がる。エジェオという、この闘技場の闘士でも指折りの実力を持つ体格の良い男だ。いよいよ、この試合は見世物としての意味合いが強くなってきたなと、リガスは鼻で笑った。
試合が始まる。平常よりもやや早い心拍と、整った呼吸。歓声の中、少女は場の雰囲気に飲まれている様子はなかった。
――場慣れしてるのか……?
少なくとも、観客に囲まれて戦うのは初めてではないだろう。リガスでさえ、初めて路上闘技の舞台に立ったときはその熱狂に呑まれたものだ。
それよりも気になったのは、少女の構えだった。
しゃがみ込む――いや、上体だけを低く下げて、両の脚を交互に下げるような奇妙なステップを踏んでいる。こんな構えは、見たことがなかった。
対戦相手であるエジェオは組み技を得意とする闘士だ。地を這うようなタックルで相手を捕らえ、投げ、あるいは締めで止めを刺す。拳闘を得意とするリガスにとっては苦手な相手の一人――とはいえ勝ち越してはいる――だが、少女はそんな相手にどう戦うのだろうか。
先に動いたのはエジェオだった。
両者の距離を一息で詰める高速のタックル。相手が女であっても手を抜くようなことはせず、一瞬で決着をつけるつもりなのだろう。組み技に持ち込んでしまえば、体格で勝るエジェオが負ける道理はない。そう、単純明快なこの一手が勝ちの決め手となるはずだった。
直後、エジェオの身体が急停止した。同時に飛び上がるように大きくバック転をして距離をとる少女。タックルを仕掛けたエジェオの鼻からは一筋の血が垂れている。一連の応酬に観客が沸く。
「《鹿脚》」
少女が小さく呟いた。それが、いまの蹴り技の名前らしかった。
その正体は、足裏による前蹴りだ。
爪先で蹴る通常の前蹴りとは異なり、威力は格段に落ちる。だが、蹴った相手の勢いを殺し、間合いを離すのに十分な反動をつけることができる。体重のある者が放てばその反動により相手を弾き飛ばすことができるが、軽い彼女は自分が飛び退くことで間合いをとったのだろう。
だが、相手から遠ざかるだけでは勝利には繋がらない。それに、次に同じことをすれば、エジェオは間違いなく少女の足首を取ることができる。少女が《鹿脚》と呼んだ技は封じられ、一方でエジェオのタックルは健在。
再び、エジェオがタックルを繰り出す。《鹿脚》を封じられた少女の脚を取りに行ったエジェオの腕は、虚しく空振った。
少女の身体は、宙を舞っていた。
上体を思いっ切り左方へ倒し、腕を引き上げる反動で飛び上がる。空中を半回転させるように脚を振り回して着地する。まるで曲芸師のおこなう側転ならぬ側宙のような動きだ。
少女の軽業によりタックルを躱されたエジェオは、向きを変えるために上体を一瞬起こす。その僅かな隙を、少女は見逃さなかった。
リガスは再び、半月を見た。
エジェオの上体が立ったその一瞬を狙ったかのように、少女は腰をひねりながら頭を背後に落とし、左手を地面につく。地面から真っ直ぐ伸びた左脚を軸に、少女の右脚は美しい半弧を描いて、向き直ったばかりのエジェオの顔面を捉えた。勢いの乗った後ろ回し蹴りは、軽い少女の一撃とはいえ、打たれ馴れた大の男をよろめかせる程度の威力は持っていた。もしかすると、衝撃の瞬間、エジェオの意識はほんの僅かに飛んでいたかもしれない。
だが、それは勝負を決するような一打ではなかった。確かにエジェオに与えたダメージは大きいが、所詮は女の筋力に過ぎない。意識を完全に刈り取ることは叶わない。
後ろ回し蹴りの直後にできる隙を突くべく、エジェオはほとんど反射的に少女にタックルの体勢をつくっていた。
だが、リガスは知っている。半月はひとつではないと。
少女の回し蹴りは、一回転では終わらない。
蹴り脚が接地したのは一瞬だった。一周目の勢いを残したまま、再び軸足に重心が乗せられ回転が始まる。ひとつ目の半月に重なるかのように新たな軌道が描かれる。
重心を完全に前のめりにしていたエジェオは、不意に襲ってきたそれを回避することができない。彼のこめかみを、少女の踵が捉えていた。
「《双半月》」
エジェオの身体がぐらりと少女の右側に傾き、タックルの勢いのままに倒れる。地面に這いつくばった彼は、まだ起き上がろうとしているのかぴくぴくと身体を動かしている。しかし、あの状態ではそれは叶わないだろう。目の前が真っ白になっているはずだ。
歓声が沸き起こる。その中にはエジェオに対して浴びせられる罵声も混じっている。ほとんどの客が彼に賭けていたのだろう。手練れの男にこんな少女が勝つなど、リガスを含め誰が想像できただろうか。
最初の一撃は、エジェオが体勢を変えるタイミングであったこと、そして蹴りの威力が弱かったからこらえられた。だが、この二撃目は先のそれとは威力があまりに違う。反動がついて速度の増した蹴りを、カウンター同然に浴びたのだ。
瞬く間に二度の後ろ回し蹴りを浴びせる技――《双半月》。
一度この技を見たことがあるリガスだからこそ、術理を理解できた。観客たちはいま目の前で何が起こったか理解できていないだろう。そして当然、この技を食らったエジェオも。
この技はかつて、リガスを救った褐色の男が使っていたものと同じだ。彼と同じ色の肌を持つ少女が同じ技を使っている。
リガスにとって、褐色の男とこの技は強さの象徴だ。あの男と出会ったからこそ、リガスは強さを求めた。路上闘技に通い詰め、闘技者の技を覚えた。自分の身に最も合ったのが拳闘とわかってからは、独学でそれを修めた。
あの男になりたいわけではない。だからこそ、あの男とは違う闘い方を学んだ。ひとりの格闘家としていつかあの男と対峙し、超えたいと願う。
故に、少女の遣う《双半月》を見て心が震えた。
叶わぬものだと思っていた。名も国も知らず、彼の風体とひとつの技のみが手がかりだったのだ。だが、不意に彼女という希望が目の前に現れた。彼女は、彼について何かを知っているかもしれない。
舞台から降りてきた少女に駆け寄る。彼女の方もリガスに気付いたようで、視線をやって眉をひくりと動かした。
「よう、ちょっと良いか?」
「……わたしに、用?」
やや外国訛りのあるルメイア語。リガスの台詞を理解し、返答もできるということは、この国に来てからの日は浅くはないようだ。
「あんたの遣う技に興味があってな。話を聞かせて欲しい」
単刀直入に言うと、少女は訝しげな表情を浮かべる。
「嫌って言ったら?」
「そんときゃ力尽くだ。こう見えてもおれは強いぜ」
リガスは軽く腕を構えて見せるが、少女はそれに応じる様子はない。それどころか、くすりと笑ってみせた。
「見てたから、知ってる。最後の技凄かった」
「……そりゃどうも」
毒気を抜かれたリガスは、腕を下ろして構えを解いた。あれほどの技の遣い手に褒められて、悪い気はしない。
少女は、リガスをまるで値踏みするかのようにじいっと見つめている。
「いいよ。話、してあげる。ただし、ひとつお願いがある」
「なんだ、そのお願いってのは」
どんな条件を提示されるのかと、内心覚悟を決めてみたものの。
「――わたしに、ご飯を食べさせて欲しい」
彼女のお願いは、とても可愛らしいものだった。
リガスと少女はパブに来ていた。
広場での興行が終わった後なせいもあって、店内はいつにも増して盛況だ。
リガスは生温い麦酒をあおりながら、対面に座る少女を見る。
木製のハイスツールに腰掛け、匙を不器用に握り締めて鶏肉のパエリアを頬張っている姿を改めて見ると、とてもじゃないが大の男を倒した人物と同じには思えない。
とはいえ、それは一見そうだというだけであって、軽く観察してみれば彼女がただ者ではないことはわかる。麻製のシャツから伸びる二の腕は、リガスのように拳闘を主体にする者ほど発達してはいないが、近くで見れば年頃の娘のそれではない。対して脚の筋肉は、リガス以上のものだった。くるぶしまでを覆うやや緩いズボンにも関わらず、その腿の筋肉がどれだけ異常な密度であるかが見て取れる。
そんな肉体なのに、その顔はとてもあどけない。年の頃は十三、四に見える。試合のときには後ろ括りにしていた髪はいまは下ろされている。肘ほどまで伸ばされた、この国ではほとんど見かけない亜麻色の髪は、傷んではいるが綺麗に見える。
「まずは名前を聞かせてくれ」
麦酒のジョッキをテーブルに置いて、リガスは話を切り出した。少女は匙を動かす手を止めて、口の中に入っていたパエリアを飲み込むと、あっさりと答えてくれた。
「トゥリ。あなたは?」
「リガスだ」
「リガス、これ美味しい。ありがとう」
満面の笑みを浮かべて、匙で手元のパエリアを指す。
「別に構わねえけどよ、なんだってロクに金を持ってねえんだよ。出場給は出ただろう」
「女だから最初は腕試しだって、太っちょがお金くれなかったの」
「ふっ、なるほどな」
フリアンが太っちょと呼ばれたことに、思わず口許が緩む。確かにその呼称に相応しい体型はしているが、それなりに権力を持っているあの男がそう呼ばれるのを聞けると、なんだか面白い。無報酬というのも、あのがめつい興行主のことだからそれくらいはしそうなものである。
「それで、話って?」
「トゥリ、あんたの遣う技が何なのか知りたい」
《双半月》。半月のような弧を描く二重の蹴り。あの褐色の男が遣ったものと同じ技が、一体どのような武術の体系に属するのか。どこの国の武術なのか。少しでも知らなくてはならない。
思ってもみない質問だったようで、トゥリは不思議そうに首を傾げた。
「なんで?」
「……昔の話だが、あんたと同じ肌の色をした男に助けられたことがある。そのとき、男が見せたのが、あんたがさっき遣っていた《双半月》だった」
「それ、いつのこと?」
トゥリの声に真剣味が混ざる。
「一〇年前だ」
リガスの答えに、彼女は少しの間考え込んだ。
「……わたしたちが遣うの《天つ風》という武術。そして、その男、マールという名前」
「なぜ男の名までわかる?」
それが意味するのは、彼女と男との間に何かしらの繋がりがあるということ。外れではなかったという喜びを表に出さないよう抑え込みながら、リガスは問う。
「その男がわたしの父さんだから」
トゥリはあっさりと、しかし予想だにしなかった答えを返してきた。にわかには信じがたく、リガスは眉をひそめる。
「……本当か?」
確かにトゥリにはあの男の面影があるように思えるが、リガスが男を見たのは一〇年も前のことで、そのときの一度限りだ。血の繋がりを確信できるほどの根拠にはなり得ない。
「わたしの国に《天つ風》を遣う人、ほとんどいない。父さん、わたしが小さい頃に海を渡った。だからたぶん、リガスがいってる人がわたしの父さん」
「じゃあおまえ、《天つ風》は父親から教わったんじゃないのか?」
リガスが男に会ったときの年齢を考えると、そういうことになる。まさか、齢一桁で武術を完全に修得したわけではあるまい。
「父さんからは足捌きと《双半月》だけ。父さんがいなくなってから、父さんの弟子に教わった」
あの男との最大の共通点、《双半月》。彼女の遣うそれには確かに、あの男の影が見えた。彼が彼女の父親――マールであると信じてもいいかもしれない。
問答の間にも、トゥリはパエリアを頬張る。その食べっぷりに、リガスは少し呆れながら質問を続ける。
「ちなみにおまえ、年は幾つだ?」
「ええと、十六?」
リガスの見立てよりはいくらか上だったが、つまりトゥリは、六歳になるよりも前から武術を――《天つ風》を学んでいたということになる。それならばあの強さにも納得がいく。
「おまえは、どうしてルメイアに来た? 父親を連れ戻しにか?」
意外なことに、トゥリは首を横に振った。
「少し違う。わたし、ただ父さんを探して、どうしてこの国に来たのかを、知りたいだけ。どうしてわたしたちを置いていったのかを、聞きたいだけ」
トゥリの声音に熱がこもる。何故自分たちを捨てて、海を渡ったのか。リガスも彼女と同じ立場ならば、その疑問は抱くだろう。だからといって、本当に父親を追いかけてルメイアに来る根性は見上げたものがある。
「それで路銀が要るから、こうして路上闘技場で稼ごうって肚か」
「いままでも、そうしてきた」
「ふうん」
ルメイアの各地には、リガスが出ているような闘技場がいくらでもある。それは、単純な見世物としての舞台でもあれば、賭け事の場であったりもする。商人などが主催していることもあれば、貴族が戯れで催していることもある。確かに、腕に覚えがあるならばそこで闘技者として闘い、出場給を稼ぐのがいい。
「なら、その旅におれも連れて行け」
ほとんど考えることもなく、リガスは言った。
「なんで?」
匙を握って、トゥリは首を傾げる。
「おれは、おまえの父親に用がある」
「用って」
「おまえの父親と闘い、そして勝つことだ」
間髪入れず返された回答に、トゥリは再び疑問を投げかける。
「どうして闘わなくちゃいけないの?」
その答えは、決まっている。一〇年前からずっと変わらない、リガスが闘うただひとつの理由。
「強く、なるためだ」
「……ふうん」
リガスの答えを聞いて、トゥリは考え込むように左手を口許にあてた。少しの間があいて、彼女が口を開く。
「わかった、いいよ」
「本当か!?」
リガスは思わず声をあげて立ち上がる。その様子を見て、トゥリはくすりと笑った。
「リガス、断っても着いてきそうだし」
「まあな」
「ただ、その前にわたしと闘って欲しい」
「……何でだ?」
悪戯っぽく口角を上げて、トゥリは笑った。
「リガスとおんなじ」
どうやら彼女も、同じ種類の人間ということらしい。リガスは愉快そうに笑みを浮かべる。
「そりゃあ申し分ねえ理由だ」