志奈子(しなこ)の柿
その日、生まれて初めて祖母の志奈子の家を訪れた透太は、門に絡まる蔦の葉をじっと見ていた。葉先になるほど紅葉して深緑から黄緑、薄黄色に染まり、葉脈が朝日に透けて白く光っている。
透太は今年、数えで5歳。母の藤子が心配になるほど無口な少年だったが、誰よりも透き通った観察眼を持っていた。
隣に立つ藤子が透太の顔を覗き込むようにかがむ。家ではいつも麻の着物を着ている藤子もこの日ばかりは艶のある薄水色の地に小笹が描かれた訪問着を着ていた。
「透太さん。緊張してらっしゃる? 大丈夫よ、お祖母様は、ぱっと見は怖い方だけれど御心は優しい方だからね」
藤子が透太に対し優しく微笑む。透太は藤子の顔を見ながら口をへの字に結び、すぼめた。藤子の傍に少し近寄り、着物の裾を右手で掴む。
「来たわ。お義母様が」
門の奥、家の中から志奈子が現れた。
濃い紫の地に白金の芒模様を描いた着物に包まれた志奈子の顔は色白で美しく、まだ白髪の目立たない黒髪を耳隠しで結っていた。
しずしずと門に近づくと、その志奈子の動きに合わせるように藤子は透太の頭に置いた手に力を込め頭を下げさせた。藤子も同時に頭を下げる。
「お義母様。お久しゅうございます。本日はお日柄もよく。……この子が私と蒼一さんの息子の透太でございます。今年で数えで5つとなりました」
透太は頭をひと振りし、藤子の手をのける。顔を上げまっすぐに志奈子を見つめ、まばたき一つしなかった。
志奈子はその透太を感情の無い瞳に映すと、きっ、と藤子に顔を移した。
「ようござんしょ。事前にお話しを伺っていた通り、透太さんを一日お預かり致します」
くるりと後ろを向くと、志奈子はそのまま家へ引き返そうとする。少し首を後ろに向け、透太を見る。
「何をしているんです? さっさとついていらっしゃい」
透太は志奈子の顔をじっと見ながらきょとんとした顔をしている。藤子は困ったような笑みを浮かべ、その背を柔らかく押した。
「いってらっしゃいな。透太さん」
藤子の顔に目を向けた後、志奈子の首筋の後れ毛を見て、こくんと頷き歩き出す。
品良く早足で家に向かう志奈子と、それに追いつこうと大股に歩く透太を見つめ、藤子は思った。
(昔も冷たい印象の方だったけれど、その中に一粒の灯のような優しさのある方だった……。けれど一年前にお義父様が亡くなられてから、その灯もついぞ消えたような、氷のようなお顔になってしまった。透太さん、大丈夫かしら)
そっと目を閉じ、祈るような手合わせをする。
居間は縁側が明け放たれており、秋の凛と冷たい風が入る心地いい空間だった。
その居間で、きょろきょろと辺りを見渡し、落ち着かない透太がいる。
孫の姿に一瞥もくれず、真ん中に置かれたちゃぶ台の前に正座し、志奈子は茶を啜っている。
縁側から見える庭にはたわわに実った一本の柿の木があった。透太はその柿の木に視線を定めると、おそるおそる、次第に速度を速めて縁側へ辿り着く。縁側にぺたんと手をつき、瞳をらんらんと輝かせながら深い橙色の柿の実を見つめる。その姿を無表情で志奈子は見ている。
「透太さん、柿がお好きなの」
透太は声に反応すると口を開けたまま顔を向けた。志奈子は柿の木を見た後、再び透太に目を向ける。
「……食べてみますか」
一拍置き、目を大きく開け、透太はこくこくと首を上下に大きく振った。
真剣な目つきの志奈子の前には柿の木がある。実の付け根を左手で押さえ、右手に持った鋏でぱちんと切る。
ぽとりと落ちた柿の実は、透太の足元に転がった。
透太がその実を拾おうとすると、透太の目の前に志奈子が屈み、拾った柿の実を透太に差し出した。透太は柿の実を持った祖母の青白い血管の浮き出た細い手首を見つめると、実を受け取り笑顔になった。
「ばあば、ありがと」
志奈子は孫の言葉には反応せず、遠い目をして背を向け、立ち上がって膝を払った。
その志奈子の様子を見ていた透太は、急にうとうとと眠気を帯び始めた。やがて完全な睡魔に襲われると、身体ごと糸が切れたように倒れ、暗闇に包まれた。闇に覆われる一瞬前に、志奈子の若紫色の鼻緒の下駄がこちらに振り返ったような気がした。
ぼんやりとした糸に絡まれた視界が徐々に明るくなり、消された電球のついた天井が見える。起き上がると透太は自分が紅繻子模様の入った布団をかけられ、寝かされていたことが分かった。
ひとつまばたきをすると起き上がり、辺りをきょろきょろと見回す。
少し離れた距離に、自分を見ている志奈子がいることに気づいた。
「ばあば」
「起きましたか。あなた、倒れるように眠ってしまったから驚きましたよ。まったく、死んでしまったのかと思ったわ」
ちゃぶ台の上に皿があり、その上に切られた柿が瑞々しく乗っている。
「……食べますか?」
柿の橙と、志奈子の白い顔を交互に見ると色の感覚が面白かった。透太は最終的に志奈子に視点を定めると、開けたままの口が徐々に大きく広がり、笑った形になった。
両手に切られた柿を持ち、貪るように透太は食べていた。固くて艶のある薄茶色の大きな種にまだ永久歯のない歯が当たり、皿にぺっ、と吐き出すといったん落ち着いた。
その隣で正座をしながらつまようじに柿を刺し、片方の手を下に添え、上品に柿を啄む志奈子の姿がある。目を閉じ、柿をむぐむぐと味わっている志奈子に、透太は遠慮なく話しかけた。
「ばあば、これおいしいね」
透太は手に持っていた食べかけのぐちゃぐちゃの柿を志奈子に見えるように近付ける。
「……」
志奈子はじっと透太の手の柿を見つめていた。透太は自分の口の周りに柿の汁がついていたことに気づき、袖でぬぐおうとする。
「おやめなさいな。汚いですよ。こちらの手ぬぐいでお拭きなさ……」
懐から藍のてぬぐいを差し出すと、透太の柿の汁まみれの顔をじっと見つめ、志奈子は動かなくなった。
志奈子の身体が硬直したあと、徐々に震えだした。
「ふふ……」
透太は祖母の異様な動きに訝しむように顔を覗き込む。
「ちょっと……」
身体を震わせながら片手で口元を抑えている志奈子。
「ふふ……。ふふふっ……。あなたのお顔……。可笑しいっ……」
耐えきれず、身体を軽く九の字に曲げると、志奈子は笑い出した。
その祖母の様子に動揺し、透太は目を見開き、ぽかんとしていた。唇から柿の汁がぽとりと畳に落ちる。ひとしきり笑った後、笑い涙を細い指先で志奈子は拭った。
「ふふふっ……。こんなに笑ったの、何時ぶりでしょう。一年前に善一さんが亡くなって、独りになってしまってから、何をするにも心が感じなくなって、笑うことも忘れてしまっていたようだわ」
笑い皺を目元に寄せ、縁側から差す紅い夕陽に照らされて輝いている志奈子の額の生え際を見ていた透太はふいに思ったことを口にした。
「ばあば、かわいい」
志奈子は孫の声を聴くと、手ぬぐいで透太の顔に付着した柿の汁を拭ってあげた。
透太はその手ぬぐいの動きに合わせ、目をぎゅっと閉じて擦られている。最後に全体を円を描くように拭き終わると、志奈子はゆっくりと微笑を浮かべた。
「さあ、これで美青年になったわ」
「ばあば、ありがと!」
志奈子は目元に皺が寄り、柔らかい笑顔を浮かべている。鼻筋から頬に夕陽が当たり、金色の影が出来ている。
透太は透き通った茶色の瞳でその影をいつまでも見つめていた。
翌朝、志奈子の家の周りには薄い霞が漂っており、湿り気を帯びていた。
門の外側に透太を迎えに来た藤子が傍らに透太を寄せ、門の内側にいる志奈子と向かい合っている。薄桃色に桔梗模様の訪問着を着ている。
「お義母さま、ありがとうございました。この子何か粗相を致しませんでしたか?」
紫の絹の手ぬぐいに包んだお礼の品を志奈子に手渡すと、藤子は透太の背に手を回し、少し志奈子の前へ押した。志奈子は透太の方へ、つ、と視線を向ける。
「我が息子、蒼一に似て抜けたところのある子でしたけれど……」
何かやらかしたのだわ、と蒼白になる藤子は次の瞬間、目を見開いた。
「とっても楽しい時間を頂けましたわ。ありがとうございました」
あの冷たいお義母さま、志奈子の顔に笑みが広がっていたのだ。
紺の銘仙を着た志奈子は、朝の霞に包まれ、幽玄な美しさを感じさせた。
(お義母さまが……笑ってらっしゃる……)
「お義母さま! そんな……! こちらの方が感謝をしていますのに」
深く体を折りたたみ、藤子は頭を下げた。
「それではお義母さま、本当にありがとうございました。透太と蒼一さんと一緒に、来年のお正月にまたご挨拶に来させていただきますわ。ほら、透太さんもお別れをして」
藤子は透太の背に回した手に力を籠める。しかし透太はぼんやりとした顔で志奈子を見ているだけであった。息子の睫毛に霞の水滴が宿って震えている。藤子は鼻をならす。
「もうこの子ったら」
志奈子にもう一度頭を下げ、透太を促すと、背を向け歩き出した。
透太は前方に広がる杉木立に囲まれた帰り道を眺めていたが、ふいに道の途中で後ろを振り返った。その動作は母には気付かれなった。
紅葉した蔦の絡まる門の下で、志奈子が袖を押さえながら優しい笑みを浮かべ、透太に向かってゆっくりと手を振っている。やがてその姿は、朝日を孕んだ白銀の霞に隠れて見えなくなってしまった。
透太はその姿を認めると、笑みを浮かべ、小さく手を振り返した。
その晩、透太の初めての乳歯が抜けた。歯裏には鮮やかな柿の果肉が付いていた。




