第一話 落ちていくその先に待つは
紅茶を淹れればいつもより味が濃い『気がする』と言われ、掃除をすれば埃が残っている『気がする』と言われ、椅子になれば座り心地が悪い『気がする』と言われ──とにかく適当な理由をつけて、罰を与える口実とするのが妹の常套手段であった。
隅から隅まで磨き上げても意味はない。不満点を改善しても意味はない。昨日と真逆のことを指摘する、なんてものは当たり前で、指摘する箇所がなくなればありもしない過失を咎めてくるだけである。
つまりは、妹の気分次第。
気まぐれに痛めつけられてきたレンディナ=レッドサラマンダーはその日、不気味なほどににこやかな妹、ランディ=レッドサラマンダーと遭遇する。
「おほほっ! おーねーえーさーまー?」
「は、はい、……何か、ご用でしょうか、ランディさま」
妹を前にして、姉は膝をつき床に頭を擦り付ける。こうべを垂れるのは基本中の基本である。
「今日、遠出するからお前もついてくるですわぁ」
「え?」
「なに、その反応。へーんーじーはー?」
ゴヅンッ!! と床に擦り付けた頭を上から妹の踵が叩き潰す。衝撃に鼻を打ち、ぶしゅっと潰れる感触と痛みに顔をしかめながらも姉は即座に謝罪を口にする。
申し訳ありません、と。
それ以上の──魔法を叩きつけられることだけは回避するために。
やはり今日は機嫌が良かったのか、妹はふんっと息を吐き、その場を立ち去っていった。
遠出。
屋敷から一歩も外に出たことのないレンディナ=レッドサラマンダーはその日、多くの『はじめて』を体験することとなる。
ーーー☆ーーー
レンディナ=レッドサラマンダーはレッドサラマンダー公爵家の長女である……とは、その見た目からは到底想像できないだろう。
膝まで伸びた長い銀髪はろくに手入れされておらず、鈍くくすんでいた。痩せ細った身体は美しさよりも先に痛々しさを感じさせるほどであり、左頬から左足にかけて広範囲に及ぶ火傷の痕が刻まれていた。
そして、何より目立つは瞳の色。その色は漆黒。
魔力をほとんど宿していないことを示す、大多数の群衆が持つ灰色よりもなお深き、数百年に一度生まれるかどうかというほどに『悪い意味で』有名な漆黒であった。
漆黒、その役を『空』。
すなわち属性どころか魔力すら持ち合わせていないということだ。
大多数が持つ灰色でさえも微弱ながら魔力を宿し、魔道具を動かすことくらいはできるというのに、公爵家の一員たるレンディナ=レッドサラマンダーは一切の魔力を持ち合わせていない。
それは大陸を略奪と侵略と武力で統一したグランドラーズ王国の基本理念たる『力こそ全て』に反する悪逆であった。
その理念は特権階級こそ守るべき誓いである。というよりも、それこそが貴族を貴族たらしめていた。
『力』こそ他者を支配し、上に立つ者の証明。ありとあらゆる反論を一蹴できるだけの暴虐があったからこそ、グランドラーズ王国を大陸の覇者と押し上げたのだ。ならば、これまでは元よりこれからも『力』を保持しなければならない。
ゆえに、『力こそ全て』。
ゆえに、貴族には暴虐が求められる。
すなわち、魔法。
血筋に大きく左右される力であり、筋力や武術など才能なき人間でも積み上げられるチンケな抵抗を圧倒する災厄。
赤、その役を火。
青、その役を水。
黄、その役を土。
緑、その役を風。
四つの属性と灰色の無属性とに分けられた、血筋が大きく関与する才能。その力は絶大であり、三百年前に大陸を統一したグランドラーズ王国が初代王は腕の一振りで数万にも及ぶ軍勢を皆殺しとした、などという伝説が残っているほどである。
ゆえに貴族の座は魔法的才能が優れた家系で埋められていた。というよりも、力を基準に特権階級を定義したならば、自然と才能ありし血筋がピラミットを作ったとも言える。
だが、血筋は必ずしも優れた魔法師を生み出すわけではない。突然変異というものは上に突き抜けることもあれば、下に落ちていくこともある。
レンディナ=レッドサラマンダー。
妹であるランディ=レッドサラマンダーが歴代でも類を見ないほどに鮮やかにして強大な赤き瞳を示しているのとは正反対に位置する、能無し。
生まれながらにその存在を隠匿され、社交界にデビューすべき十二歳ながらに一度も公爵家本邸から外に出されたことがない、恥さらしであった。
ーーー☆ーーー
努力なんて意味がなかった、というよりも、努力する機会なんて与えられなかった。
妹であるランディは一流の家庭教師が学問や礼儀作法を教え、父親直々に赤の役を示す火系統魔法を指南しているが、対するレンディナは言葉さえも周囲の使用人のそれを聞いて会得しているほどである。
物心ついた頃は飼い殺しであった。漆黒という悪い意味で珍しい性質を確保しておこうと思ったのか、血筋だけは受け継いでいるのだから(これまた珍しいとはいえ)歳を重ねることで何らかの属性を宿すことを期待していたのか、それともこの頃は多少なりとも家族の情があった……なんてのは、希望的観測が過ぎるか。
とにかく最初の数年はまだマシだった、はずだ。
二歳年下の妹が成長した頃から環境はガラリと変わったのだから。
血筋とは才能。その才能を伸ばすには強き心が必須であると言われている。そして、だ。心を伸ばす手っ取り早い『方向性』は残虐性。実の姉さえも痛めつけられるだけの心の有様が魔法の才能を伸ばすことは歴代の『英傑』たちが証明している。
だからこそ。
レンディナ=レッドサラマンダーの左半身には隠しようもない火傷の跡があった。実の姉を痛めつける、という『教育方針』の賜物である。
妹には才能があった。鮮やかな赤もそうだが、何より残虐性が有り余っていたのだ。
両親が背中を押すまでもなかった。初めて姉と邂逅した際、妹は鮮やかな赤き瞳を侮蔑に歪めて、『穢らわしいゴミクズですわぁ』と吐き捨て、誰が指示するまでもなく魔法の炎を叩きつけたのだから。
それからは妹の餌となるのがレンディナの役目であった。残虐性の増幅、実の姉を炎で炙ることを愉悦と感じる精神性の熟成。
繰り返される蹂躙が、残虐性を促進させる。ランディ=レッドサラマンダーの才能を開花させる。歴代でも最高峰の才能を、サイケデリックな精神でもって伸ばすことで、レッドサラマンダー公爵家にふさわしき『英傑』へと昇華していく。
ゆえに。
来たる『選抜』に合わせる形で餌を喰らい尽くし、ランディ=レッドサラマンダーが完成する瞬間はすぐそこに。
ーーー☆ーーー
ゴッオ!! と開かれた扉から猛烈な風が流れていた。レッドサラマンダー公爵家が所有する魔法飛空船……とやらが空を飛んでいた。
実の家族どころか使用人からさえも『痛めつけていいモノ』として扱われてきたレンディナ=レッドサラマンダーは又聞きの知識しか持ち合わせていないため正確な情報を知り得ているわけではないが、彼女たちが乗り込んでいる乗り物は空を飛ぶ船らしい。魔法道具。魔力さえあれば誰でも使える簡易版魔法を出力する道具の一つが魔法飛空船であるようだ。
空を飛ぶ浮力は風系統魔法、推進力は火系統魔法だろうか。とにかく空飛ぶ船の中、開かれた扉から吹き荒れる暴風にレンディナは立っていられず、床に座り込んでいた。
船内にはレンディナの他にも多くの人間が乗り込んでいるはずだが、操縦や魔力供給に駆り出されているのか彼女のそばにはランディ=レッドサラマンダーしかいなかった。
おほほっ、と。
珍しく上機嫌に笑みをこぼす妹だけが。
「お姉様」
「はっ、はいっ」
普段であれば暇潰しに炎で炙られてもおかしくないというのに、やはりその日のランディ=レッドサラマンダーは機嫌が良かった。
にこやかに、楽しそうに。
こう言ったのだ。
「私、これまでお姉様に酷いことしてきたですわぁ。恥ずかしい限りですわよねえ」
「え……?」
それはどれを指した言葉であったのか。暇潰しに炎の塊を口内に突っ込まれて爆破されたことが原因で味覚がなくなったことか、敵対関係にあるブルーウンディーネ公爵家の令嬢に敗北した腹いせに左半身にどんな薬草でも癒せない火傷の痕が残るまで火炙りにされたことか、おそらくはわざとレンディナの収納場所である地下室に迷い込ませた子猫とレンディナとが仲を深めた時に件の子猫を焼き殺したことか。
とにかく、だ。
酷いことをしたと、そう口にしたのだ。何があったのかはわからない。どんな心境の変化があって、そんな言葉を口にすることへと行き着いたのかは不明ではある。
だけど、もしも謝罪するつもりならば。
それを許せるか否かは置いておいて、もうこれ以上執拗に痛めつけられることがなくなるのならば。
これからレンディナ=レッドサラマンダーの人生は変わるかもしれない。諦観。逃げるだなんて叶いっこない希望を持つことを諦めていたレンディナは『はじめて』、そんなことを考え──
「魔力の一滴も持ち合わせていないゴミクズを生かしておいただなんて」
ガッ! と。
床に転がるレンディナの胸ぐらを掴み、開け放たれた扉のその先へと突き出すランディ。
ゴッオ!! と吹き荒れる風がレンディナの全身を煽る。いきなりのことに反応できず、ずるっと片足が飛空船の外に出る。
片足で立つ不安定なレンディナの体勢がぐらぐらと揺れる。全身を叩く風圧も加わり、落下の恐怖に喉が干上がり、脂汗が噴き出し、心臓が不気味に脈動する。
「な、え?」
「生き恥、ああ本当恥ずかしい限りですわよねえ。ただの平民でさえそんな色を背負っては哀れだろうに、公爵家の血を宿してながらって、おほほ! 哀れ、本当哀れですわぁ。一思いに殺してあげなくてごめんなさいですわねえ、お姉様。こればっかりは本当に酷いと反省しているですわぁ」
レンディナをそのまま幼くして、なおかつ磨き上げられた美貌の妹は、笑う。
唯一、姉と大きく違う鮮やかな赤き瞳──純度が高ければ高いほど強大である証となる瞳の輝きに残虐性を乗せて。
「それではお別れですわぁ、お姉様。せめて最後まで楽しませることですわぁ。それが、お姉様がこの世に生まれてきたせめてもの理由となるのですわぁ」
吐き捨て、そしてレンディナの胸ぐらを掴む手が爆発する。正確にはランディの手から炎が噴き出し、レンディナを吹き飛ばしたのだ。
飛空船の外へと。
真下、森らしき緑がひどく遠くに感じられるほどの高度からレンディナ=レッドサラマンダーの華奢すぎる身体が落ちていく。