第一話 日常
書き直し
藍に濁った空の下、白線の剥げたアスファルト道路が伸びている。
道路の脇には風化した建造物が立ち並び、自然の色はどこにも見られない。遠い昔に置いて行かれた街並みは、空と同じ藍色に染まっていた。
そんな廃れた街中を、一人駆けていく少年がいた。
少年の恰好は簡素なものだった。安っぽいTシャツは地肌に着込み、裾の短いズボンには、ポケットが腰の左右に一つずつしかない。地面を蹴りつけるスニーカーもロゴらしき文字が掠れてきていた。
少年は、こぶし二つ分ほど膨らんだビニール袋を大事そうに抱えていた。そして走りながら、ときおり後方へと顔を向ける。視線の先には、バス一台ほど大きな芋虫のような化け物がいた。化け物は少年を追いかけていた。
足の速さでは少年が勝っていた。化け物との距離は徐々に広がっている。
しかし、化け物も意地になっていた。追いつかれることはなくとも、このまま少年の住処までついてきそうな様子だ。
少年はしばし考えたあと、ビニール袋を抱えたまま近くの建物へと入っていった。
建物は例にもれず廃墟と化していた。もとは小さな事務所だったのか、建物内には書類棚や事務机が多くあった。
部屋の片隅には比較的大きな瓦礫が積まれていた。その真上の天井にはぽっかりと穴が開いており、そこからぱらぱらと粉くずが落ちていく。化け物が近づいてきていた。
少年は抱えていたビニール袋を口にくわえると、途端に瓦礫の山へと駆け出した。
勢いをつけ、一歩、二歩と上に跳ぶ。無造作に積まれた足場は衝撃にぐらつくが、少年は構わず三歩目を踏み切った。
そして、上に伸ばした両手が、天井から露出していた鉄筋を掴んだ。
少年が二階に身を引き上げた直後、一階の道路に面した方から激しい破壊音が響いた。脆くなっていた壁を難なく突き破り、化け物が建物内へと侵入してきたのだ。
即座に少年は穴から離れた、身を伏して地面に耳を当てる。
ずり...ずり...ずり...ずり...。
化け物は先ほどまでの勢いを失くし、ゆっくりと這いずり回っているようだ。少年からは見えないが、隠れている自分を探し回るさまを容易に想像できた。
少年がその場で辺りを見回すと、壁に背をつけ並んでいた縦長なロッカーが目についた。半開きの扉からは鈍色の金属片が見える。足音を立てぬよう気を付けながらロッカーへ近づくと、どうやらそれは壊れた掃除用具のようだった。金具の一部は歪み、尖っていた。
少年は金具付きの棒を手に取り、周囲に散らばっていた房糸で穂先を固定する。
急造の槍を手にし、先ほどの穴から下を覗くと、化け物は同じところをぐるぐると這いずり回っていた。まだ少年に気付いていないらしい。
少年が息を殺し槍を構える。つま先で穴の縁をとんとんと叩くと、細かな破片がぽろぽろと落ちていった。
直後、化け物は急発進し音のした方へ、瓦礫の山へと突っ込んだ。
山はガラガラと音を立てて崩れ、建物全体も共鳴するように揺れる。
揺れの収まらぬうちに、少年は眼下で蠢く化け物目掛けて穴へと飛び込んだ。
ぐじゅり、と不快な感触が槍を介して伝わってくる。落下の衝撃を乗せ、槍が化け物の身体を貫いた。足元からこの世のものとは思えないほど不気味な絶叫が鳴り響いた。
化け物は痛みに身をよじり、暴れ出した。机や棚がなぎ倒され、天井がボロボロと剥がれ落ちてくる。
それでも、少年は力を緩めなかった。全身を打ち付けられながらも、槍が抜けないよう、より深く刺さるよう、押し込んでいった。
しばらくして、辺りに静寂が戻った。
少年はようやく手を放し、動かなくなった化け物の頭から降りた。着地の衝撃に足がしびれる。
赤黒く濡れたシャツを脱ぎ捨て、大きく息を吸うと、シャツだけでなく自分の身体からも悪臭が匂った。たまらず鼻をつまむとさらに異臭が増し、少年はため息をついた。
「やれやれだな」
◇ ◇ ◇
街の外には瓦礫の平原が広がっていた。流星群でも降ったのか、ところどころに大小さまざまなクレーター痕があった。
中でもひときわ大きなクレーターの底に、少年の家はあった。廃材の丘に穴をくりぬいたような、そんな住まいだ。
家の前には水道場があった。前の時代の名残だ。少年は、黒ずんだホースがつながっている蛇口をひねる。ホースの先からは清潔な水が噴き出し、少年の身体を勢いよく濡らしていく。薄まった赤色が、隙間だらけの地面に流れ落ちていった。
ひとしきり返り血を洗い流した少年は、近くの鉄棒に掛けられていたタオルで身体を拭く。そして立てかけただけの肩扉を開け、家の中へと入っていった。
「ただいまー、エダ」
誰もいない室内に、少年の声が木霊する。天井からぶら下がる照明に光が満ち、辺りにはかつて栄えた文明の利器が所狭しと並んでいた。
「おかえりなさい、ルーク。随分と汚れましたね。それに、ひどい匂い」
名を呼ばれ、少年が声のした方へと顔を向ける。
小さなモニターに、金髪の女性の顔が映っていた。ディスプレイの中で女性の口が動く。
「シャツはどうしました?何かあったんです?」
ルークと呼ばれた少年は、不貞腐れたように口をとがらせ、答える。
「大喰らいが出た。服は汚れたから捨てた。......そんなに臭い?」
「はい。かなり生臭いです。嗅覚機能を一部制限させてもらいますね。それはそうと、これから食べます?」
「そうする。風呂は後ででいいや」
そう言うとルークは持ってきたビニール袋の中身を取り出し、外装を剥いで電子レンジの中に入れる。つまみを回すと、レンジ内がだんだんと橙色を帯びていった。
その傍らで、エダの映るモニターとは別の巨大なディスプレイ機器が点灯する。明るくなった液晶内で人の手の形をしたカーソルが動く。それはエダの意志に沿って動き、「未視聴」と名付けられたフォルダが開くと、画面に大量の動画ファイルが展開された。
エダは過去この星で製造されていた家庭用教育AI、製品名ヒューマノイド・バトラーである。正確には、バトラーとは汎用AIに付属するアタッチメントの一種であり、もともとはとある施設の管理AIに過ぎなかった彼女に後から機能を拡張して今に至る。
多くの機能を携えた上級AIとして申し分ないエダだが、そんな彼女は今、ルークの教育係兼親代わりとして大きな壁にぶつかっていた。
コミュニケーション能力である。
人がヒトとしての人格を成すやめに必要不可欠なコミュニケーション的経験値。多くの人類が去ったこの星では、誰かと接する機会が極端に少ない。ルークは今日までに十五の齢を重ねたが、エダ以外の知的存在と会話をしたことなどなかった。
他人との関りを一切経験せずに成長した人間は、善悪の概念、倫理観、道徳意識というものが形成されない。それはもはやヒトではない。ただひたすら生存本能に従うだけの獣である。
そうならないよう、エダはルークに過去作られた映像作品を見せた。過去何千年もの間、童話や民謡、絵本などを通して行ったように。それらはルークに、ヒトの心情変化や多様な価値観、またかつてあった彼らの日常を教えた。そうしてルークはエダの生まれた時代の子供らと近しい感性を持つようになった。
しかし、ルークは影響を受けすぎた。本来ならば他者との間に起こる摩擦によってそぎ落としていく「非常識」を、そのままに積み重ねてきた。創作物の中だからこそ許される主義、正確、口調。なにもないこの世界に生きるルークには、現実的とそうでないものの区別がつかなかった。
ルークは、過去とある界隈で使われた俗語で言うところの、「痛いやつ」になってしまった。
「ふむ。今日も俺はクールだったな」
電子レンジのタイマーを待つ間、ルークは意味もなく右手を顔に添える。それを見てエダは無いはずの胃がきりきりと痛むのを感じた。
「やれやれだわ」