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逃げちゃ駄目よ

 


 コクラデス。雪山の猛獣。専門のハンター五人がかりでも倒すのがやっと。酷く獰猛で、肉食。鋭い爪や牙があって、走るのが速くて、とても大きい。

 そんな化け物が、三つ隣の山間の村に現れて、その村の人を、男の人も、女の人も、子供たちも、お年寄りも、みーんな食べてしまったんだって。


 怖い話だね。




 そう言って僕たちは、暖炉の前で、顔を見合わせて笑った。



 ***


 雪山を走るのにはコツがいる。そして僕の前を走るシミア姉さんは、それを熟知していた。

 新雪を蹴散らし、急な斜面をほとんど滑るようにして下ってゆく。猛然と突き進むシミア姉さんに手を掴まれながら、僕は叫んだ。


「コクラデスはもういないよ!」


 シミア姉さんは一言も口をきかず、真っ直ぐ前を見たまま坂を下り続ける。僕はそれについて行けず、ついに雪に足を取られてしまった。けれどシミア姉さんは止まれない。

 強く腕を引かれた僕は、つんのめって雪に頭から突っ込んだ。その勢いのまま、雪の中を転げてしまう。

「ラザ!」

 シミア姉さんがすぐに僕を助け起こした。優しさの欠片もない手つきで僕の二の腕を掴み上げ、そのまま引きずるように突き進む。

 しかし体勢を立て直しきっていなかった僕は、それからほとんどしないうちにまた転んだ。今度はシミア姉さんも一緒になって足を滑らせてしまった。


「シミア姉さんっ」

 視界に舞い散る雪をかき分け、僕は姉さんに手を伸ばす。彼女も同じように腕を伸ばして僕の手を掴み、指を絡ませた。

 雲間から光が射した。目もくらむような眩しさの白銀の中、僕たちは細かな粒子の中をもんどり打って転げ落ちていった――



 ***


「……やな夢見た」

 僕は寝台の上で額を押さえた。見慣れた寮の天井は、視界いっぱいに広がっていた。


 寮の食堂に向かうと、友人が僕の席を取っておいてくれていた。ありがとう、と平静を装って言ったつもりだったが、友人は少し首を傾げた。

「体調でも悪いのか」

「え? いや……、別に」

 そうか、とどこか釈然としないように呟いた友人は、「あ、」と視線をずらした。


「手紙が来ていたから代わりに貰っておいたぞ」

「ありがとう」

 言いながら受け取り、僕はあからさまに顔をしかめた。

 淡い緑をした爽やかな色の封筒だった。……この手紙の差出人は、中身を見るまでもなく分かった。



 友人の隣に腰掛けながら、乱暴な手つきで封を切った。ずき、と古傷が痛んだ気がした。

 封筒と揃いの便箋を取り出し、僕は片手でそれを開く。



 そこには不揃いな文字が並んでいた。

『こんにちは、ラザ。

 最近はめっきり暖かくなってきて気分が良いですね。でも春のありがたさは雪山にいたときの方が感じたわね。こちらはあまり雪が降らないから。

 勉強ははかどっていますか? お隣さんに聞いてみたんだけど、春先に一週間ほど休みがあるそうですね。もし良かったら――――



 そこまで読んで、僕は手紙を放り捨てた。水差しが置いてあった場所にひらりと落ち、丸い水の跡が染みていく。

「おい、ラザ!」

 慌てたように友人が手紙を拾い上げた。僕は一瞥すらせずに、「いらないから捨てといてよ」と鼻を鳴らした。


「何言ってんだよ、そんなことできる訳ないだろう。捨てたいならお前が自分で捨てろ」

 胸元に便箋を押しつけられ、僕は咄嗟に受け取れずに奥歯を噛んだ。そのまま膝に落ちてきた便箋を、仕方なしにそっとつまみ上げ、また封筒の中に戻す。羽織っていた上着のポケットにそれを突っ込み、僕はそれきり手紙の存在を忘れ去ろうとした。


 ……シミア姉さんからの手紙。

 僕がこの世で一番憎んでいる人からの、許しを請う手紙だった。



 ***


 シミア姉さんの横顔が、暖炉の炎に照らされて浮かび上がっていた。右手で頬杖をつきながら、左手で時折ページをめくる。

「シミア姉さん、外に遊びに行こうよ」

「うん、ちょっと待ってね」

 シミア姉さんはまたページをめくって、生返事をした。


 一緒に外にそり遊びに行くのは、昨日から約束していることだったのに、シミア姉さんは動こうとしない。僕は姉さんの正面に回り込んで、彼女が読んでいる本の上に書いてある文字を追った。全訳陸上生物図説、第五章、472ページ。

 僕がそこまで読んだところで、シミア姉さんは本を閉じて立ち上がった。

「いいよ、行こっか」

「うん!」

 僕は明るく返事をして、シミア姉さんについて部屋を出た。


 玄関の二重扉を開けた瞬間、冷たい空気が顔を覆う。シミア姉さんはちょっと口をすぼめて白い息を吐いた。

 僕は納屋からそりを二つ引っ張ってきて、一つをシミア姉さんに渡す。

 足跡がちらほら見える村の雪道に、四本の線が延びた。



「シミア姉さん、今日の夕飯はどうする?」

「うーん、今日はお父さんとお母さんが帰ってくるし、ハンターさんたちがいらっしゃるから、たくさん作れるものがいいね」

 冬になると、村の人は面倒がってあまり外に出なくなる。食料は一度にたくさん買い込むし、作れるものも限られていた。

「……じゃあ今晩は、シチューにしようか」

「本当? やったあ!」

「ラザも手伝ってね」

 うん、と頷きながら、僕は弾む歩調で姉さんの一歩先を行った。


「あ、シミアとラザ」

 そりの上に荷物を積んで運んでいた近所の子が声をかける。

「そり遊びに行くの? いいなあ、今度僕も連れてってよ」

「いいよ、今度ね」

 僕が手を振ると、彼はそのままそりを引いて歩いて行った。

「頑張ってね」とシミア姉さんが声をかけると、嬉しそうに頷いた。その様子に僕は少しもやりとして、空いている手でシミア姉さんの上着の袖を引く。

「どうしたの?」

 振り向いて首を傾げた彼女の顔を見上げて、僕はつと言葉を失った。


 僕らは残念ながら本当の姉弟ではなかった。咄嗟に正しく辿れないくらい遠縁の親戚でしかないのだ。

 でも僕たちは、確かに姉弟だった。少なくとも、僕たちがこうして一緒にいる限り。

 そこに、他の気持ちは必要ない。僕は心の中で呟いた。



 ***


 先生が教室の前方を、右に左に、忙しなく何かを言いながら移動していた。時間は昼下がり、生物の授業。

「――ですから、そのような環境下にいる生物は、目が大きく進化したり、その環境に適応するように形質を変えていきます。これが――」

 先生が黒板に文字を書くと、皆の頭が下がる。ノートを取り始めた様子に流されて、僕も黒板の文字を書き写した。内容は一切入ってこなかった。


 一度あくびを漏らして、眠気に耐えかねた僕はそのまま机に突っ伏した。腕に額を置き、目を閉じる。少しめまいのように足下がくらついたが、すぐに眠りに落ちた。



 最近は、あまり眠れていなかった。原因は分かりきっていた。

 目を閉じると、瞼の裏に毎回同じ光景が蘇った。原因は分かっている。最近、特に頻繁に送りつけられてくる、あの恥知らずな手紙だ。


 ……シミア姉さん。

 僕は、固く目をつぶったまま、唇だけで囁いた。



 僕がシミア姉さんと別れ、山間地から遠く離れた街で学校に通い始めてから、もう七年ほどが経っていた。自分から知ろうと思ったことがないからよく分からないが、シミア姉さんも山を出たらしい。

 その間、シミア姉さんはおおよそ年に二回ほど手紙を送ってきていた。ある程度の長さの手紙で、綺麗な文字で書かれたものだった。


 それが、この春になって、様子をおかしくしていた。

 一週間おきに寮に届く、便箋一枚にも満たないような手紙。子供が書いたみたいながたがたの筆跡で、ただひたすら『顔を見せに来て欲しい』と訴えるものだった。

 僕はそこに常軌を逸した何かを感じて、封を切るのすら戦々恐々とするありさまだった。何か切羽詰まったものを感じる手紙だった。


 末尾に記されたその名前を見るだけで、僕の胃の底がむかむかとした。毎夜蘇る悪夢に、寝返りを打つことすら恐ろしくなった。



 シミア姉さん。

 ……僕は、あなたを信じていたのに。



 ***


 坂を登って、少し平らなところまで行くと、僕たちは揃ってそれぞれのそりに乗った。

「行くわよ」

「うん」

 かけ声をかけて、体を揺すると、そりは少しずつ前進する。そしてとうとう坂に差し掛かったそりは、勢いをつけて滑り出した。

 シミア姉さんが甲高い声で歓声を上げながら、僕の少し先をゆく。僕も声を上げて、斜面を滑り降りた。



「あわっ!」

 そりが止まる頃、シミア姉さんがバランスを崩して転ぶ。雪の中へ横向きに落ちたシミア姉さんを指さして笑うと、すかさず彼女は雪を投げつけてきた。

「ぶっ」

 僕は顔に雪がかかって、思わず尻餅をつく。シミア姉さんはなぜか勝ち誇ったように笑った。


「何するんだよ」

 雪を払いながら、僕は憮然としてシミア姉さんを見る。シミア姉さんもふくれっ面で、僕を見返した。

「だってラザが笑うから」

「だってあんな盛大に転んでるんだもん」

 二人して唇を尖らせて不平を述べてから、同時に吹き出す。……あんまり、馬鹿らしくて。



「もっと上まで行ってみようよ!」

「そうね」

 立ち上がって、各々のそりの紐を掴んだ僕たちは、山を見上げた。僕たちの村は山の麓にあって、この山は幼い頃から慣れ親しんだ山だった。正確に言うと、僕の生まれはここではなかったけれど。


 天気は良くもないし悪くもなかった。今のところ、空は薄い雲がかかっているだけで、視界は存外明るい。


 誰も踏み荒らした痕跡のない雪原を踏み分けながら、僕たちは山を登っていった。自分で登った分だけ滑れるのだから、ついつい、あともう少しと欲張ってしまうのは仕方なかった。




 それに遭遇したのは、僕たちが満足いくぐらいの高さまで登ってきたときだった。


「流石にここまで来たら、一気に降りるのは危ないね」

「そうだね。あそこの木のところで一旦止まろうか」

 これより上は、森があって、そりで滑れる環境ではなかった。だからここまでが限界だね、とそりの準備をし始めた、ちょうどその折。



 ……背後で、低いうなり声を聞いた。先に振り向いたシミア姉さんが、息を飲む。

「どうし――」

「動かないで」

 僕の言葉を遮って、シミア姉さんは低く押し殺した声で囁いた。僕は体を強ばらせ、息を殺す。




「……コクラ、デス、」

 シミア姉さんが呟いた言葉に、僕は目を剥いた。彼女が僕の手を握る。僕は背後を見れなかったが、どこか遠くから聞こえる、雪を踏みしめる重い足音は、何かがいることを如実に表していた。


 シミア姉さんは、腰に提げているナイフを取り出し、慎重な動きで身を屈めて、そりにナイフを突き立てた。縁に三本線を刻みつけ、そして、斜面の下に向かって、そっと流す。誰も乗せていないそりは猛然と滑り出し、瞬く間に小さくなっていった。

「行くわよ」

 囁いて、シミア姉さんは僕の手を引いた。僕は訳が分からないまま、言われるとおりについていく。やけにゆっくりとした動きで、僕たちは雪の中を歩いた。

 普段そり遊びに使っているのとは違う、別方向の斜面に足を踏み入れたシミア姉さんは、少し様子を見るように振り向いたあと、いきなり猛然と駆け降り始めた。


 あまりに急な斜面に、僕は怖じ気づいて足が竦む。そんな僕を容赦なく引きずりながら、シミア姉さんは坂を滑るように降りていった。



「コクラデスはもういないよ!」

 僕はシミア姉さんに向かって叫ぶ。鼻の頭を赤くしたシミア姉さんは答えず、僕を引いて走る。僕が転んでもすぐ助け起こし、再び走る。


 ついに足をもつれさせた僕につられて、シミア姉さんも足を滑らせ、僕たちは手を繋いだまま、雪の中に突っ込んだ。



 ***


 夏休みの初め、混み合う街をかき分けながら、僕は馬車の乗り合い所まで急いでいた。

 シミア姉さんは必ず手紙の末尾に居住地を書いていた。その街へ行く馬車は一日に二度しか出ず、これを逃したら今日は行けないと思った方がいい。


 本当は行く気などなかった。けれど、春から夏に移り変わるにつけ、更に頻度を増す手紙に耐えかねて、僕は仕方なしにシミア姉さんのところに行くことにした。



 ……恐らく彼女は、僕に謝りたいのだろう。あれ以来僕たちはほとんど顔を合わせることもなく離ればなれになってしまったし、シミア姉さんも謝罪のタイミングを失ったままここまで来てしまったに違いない。

 もし、シミア姉さんが、僕の顔を見て真っ先に謝ったなら、……許してやっても良いかもしれない、と思う僕がいる。それと同時に、彼女に見捨てられたときの恐怖、恨みもまだ、色濃く残っていた。



 ――シミア姉さんが僕を刺したときの傷は、まだ消えていない。



 初夏の風を受けながら、僕はシミア姉さんのことを考えていた。

 山の麓にある、あの閉鎖的な村で、シミア姉さんは異彩を放っていた。元々彼女の家が、村の中でも有名な豪家だったこともある。

 元気いっぱいで、溌剌としていて、図太くて、馬鹿げたことにも付き合ってくれた。それでいて不意に、どこか理知的な目をすることがあった。

 村の少年の八割方はシミア姉さんのことが気になっていたと思う。そもそも女の子は町の方に針子なんかとして出稼ぎに行っている子も多かったから、村に少女が少なかったのだ。シミア姉さんにその必要がなかっただけで。


 恵まれた人間特有の、嫌みのない素直なところが、僕には少し眩しかった。



 僕も実の姉のごとくシミア姉さんを慕っていたし、彼女も同じように思っているとそう信じていた。けれど、そんな幻想も、一瞬で打ち砕かれたのだ。


 彼女が僕を置いて、我先にと逃げ出したその背中を見た、瞬間に。

 ……当時のシミア姉さんの年齢を越した今なら、あのとき彼女は心底恐怖に駆られていたんだと分かるけれど。でも、あのときは僕も幼かった。



 もう七年が経った。

 僕は、彼女を許すことができるだろうか。今の僕より年下の少女のことを、許してやれるだろうか。

 恐れにも似た感情が胸を満たす。僕は彼女を許したかった。でもそれと同じくらい、会うのが恐ろしかったのだ。



 ***


 沢の近くの岩陰に、僕たちはぴったりとくっついてうずくまっていた。息は白く、お互いがたがたと震えているようだった。

「……来た、」

 そう、シミア姉さんが呟いた。

「どうして、」と泣きそうに戦慄いた呼吸の隙間に漏らす。彼女はぎゅっと痛いほど僕の手を握って、唇を噛みしめていた。僕は訳が分からない不安のまま、シミア姉さんの手を握り返していた。


 ぎゅ、と雪に重いものが沈む音。荒い息づかいは誰のものだったろう。


 森の奥から、ゆっくりと姿を現したそれを見て、僕は「ひ、」と息を漏らす。

 コクラデスが人目につくことは珍しい。普段はどこか真っ暗な洞窟の中に住んでいるのだと聞いたことがあった。

 写真で見たコクラデスはみな、剥製か何かだった。生きているコクラデスを見たことがある人間なんてほとんどいないんじゃないだろうか。


 それは思っていた以上に大きかった。しかし決して愚鈍には見えなかった。固そうな毛に包まれた体は酷くしなやかそうに動いたし、鋭い牙や爪も見て取れた。

 あれに襲われたら、ひとたまりもない。考えるまでもなくそう直感できる何かが、その生き物にはあった。

 ずし、と、雪を踏む。僕たちの何倍もある巨体が、森から出てくる。僕は凍り付いたようにそれを見つめていた。


 シミア姉さんの荒い息が僕の首にかかる。岩肌に僕の背中を押しつけて、覆い被さるように抱きすくめてくる彼女は、血走った目で僕を見た。

 雪の上に触れる僕の尻は濡れ、体は冷え切っていた。


 コクラデスはすんすんと鼻を鳴らしながら、森と沢の間を闊歩する。大きな岩と岩の隙間にうずくまった僕たちにはなかなか気づかないようで、僕はずっと、早くどこかへ行けと願っていた。



 ***


 住所に書いてあったとおりの街で馬車を降りる。そこは、高原にある静かな街だった。


 学校のある街は木が沢山あったが、ここの近辺に森はないようだった。蝉が鳴いていないことに驚き、そこで初めてあの鬱陶しい鳴き声が耳にこびりついていたことを知る。


 住んでいる人間も皆ゆったりとした動きで、彼女がここに住んでいることが想像できない僕がいた。ここでは、シミア姉さんは、声を上げて笑えないんじゃないだろうか、と。

 時間の流れがせき止められたようにのどかな街で、僕は番地を頼りに通りを歩いていった。



「……ここ、は、」

 住所が指し示す建物の前に立ち尽くしたまま、僕は言葉を失った。咄嗟に理解できず、耳の奥で血が巡る音だけを聞きながら、しばし呆然とする。

「病院……?」

 数度、手紙に書かれた住所と、目の前の病院の番地を照らし合わせた。……間違って、いない。



 恐る恐る、入り口に足を踏み入れる。ちょうど通りかかった看護師は、見慣れない僕の顔に怪訝そうに首を傾げたが、僕がシミア姉さんの名前を出すと、すぐに表情を変えた。

 どこか気遣わしげな眼差しで、彼女はシミア姉さんの病室の番号を教えてくれた。その事実に、彼女がここにいることをはっきり理解して、息が詰まった。




 涼やかな風が空気を混ぜる。薄手のカーテンが小さく揺れた。

 明るい色をした光に横顔を照らされて、彼女はそこにいた。寝台に備え付けの机に置いた本を俯きがちに見ながら、時折左手でそのページをめくる。


 シミア姉さん、と、声にならない息が漏れた。彼女は髪を揺らしながら振り返り、そして、眦を下げて微笑んだ。


「久しぶり、ラザ」

 懐かしい声が僕を呼ぶ。喉元が震えた。本を閉じ、穏やかにこちらへ向き直ったその人が、息だけで笑った。

「……ずっと、来れなかったのかな」

 彼女は柔らかい声で告げる。僕は咄嗟に言葉が出てこず、小さく頷いた。


 七年ぶりに会った彼女は、ぐんと大人びてはいたものの、その目の光は変わっていなかった。きっと彼女も、今の僕にかつての少年の面影を見つけたに違いない。彼女の目が緩む。



 ――――許してくれ、と彼女が言ったら、すぐにでも許してあげよう。

 そう僕の心は決まっていた。



 優しい表情で彼女は言った。

「大丈夫よ、許してあげるから」



 その言葉に、僕は思考が停止したのを感じた。しかしそれは僕の表情には表れなかったようで、彼女は言葉を続ける。


「そうだよね、来れなかったよね。……でも、気にしなくたっていいのよ。だって私、あなたのお姉ちゃんなんだから。あなたは何も気に病まなくていいの」

 意味が、分からなかった。僕は自分の息の音だけをずっと聞いていた。


 ようやく絞り出せた言葉は、震えていた。

「…………許して貰うのは、そっちでしょ」


 その短い言葉に、彼女は一瞬きょとんとしたように目を瞬き、それから、唇を閉じたまま、大きく目を見開いた。鼻腔が広がる。何かを必死に考えるように、その眼窩の中で目が忙しなく揺れ動く。



 ややあって、彼女が唇を薄く開いた。

「そうだね。……私、何か勘違いしてたみたい」

 どこか先程とは違った笑みで、彼女はそれだけ言った。



 僕は、彼女の異変を感じていた。……病院にいるからには、恐らく彼女は何かの病気なのだろう。心の病なのかもしれなかった。無理もない、あんな思いをしたのだから。

 僕は寝台の上の彼女に歩み寄って、そっとかがみ込んだ。彼女の目が僕を見返した。


 シミア姉さんは僕の頭をくしゃりとかき混ぜた。

「大きくなったね、ラザ」

 僕が「うん」と頷くと、彼女は嬉しそうに笑う。

「会えて良かったわ。元気そうね」

「うん」

「さっきから『うん』ばっかり」

「うん」

「あはは」

 彼女はくすぐったそうに笑い声を漏らす。喉奥でくつくつと笑って、彼女は僕の頬を挟み込もうとするみたいに腕を伸ばしかけた。


「あ、」と僕は呟く。息を飲んだ彼女は、見られたくなかったように身をひねり、俯いた。

 彼女の着ている長袖の、右腕。半ばからだらりと垂れた布。その光景に、僕の脳の奥がひやりとした気がした。



「隠さないで」

 向こうを向いてしまった彼女の顔を覗き込むように、僕は寝台に手と膝をついて身を乗り出した。覆い被さるみたいな形でその目を見つめると、彼女は嫌そうに眉をひそめる。


 彼女の右肩から、慎重に指先をなで下ろす。「痛い?」と囁くと、彼女は無言で首を横に振った。彼女の二の腕を辿っていた僕の指先は、途中で行く先を見失った。

「……あのときの、」

 最後まで言えずに尻切れとんぼになった言葉を、シミア姉さんは正確に拾い上げたようだった。その目が僕の視線を迎え入れる。魅入られたように動きを止めた僕は、唇を噛んだ。

 目頭が熱くなる。シミア姉さんは、残った左手で僕の頬を撫でた。


「――シミア姉さん、どうして」

 僕は食いしばった奥歯の隙間から呻く。

「どうして、あのとき、僕を見捨てたの」


 シミア姉さんは苦しそうな顔で僕を見据えた。



 ***


 いつしか空は夕暮れ、岩陰にうずくまったまま、僕たちはただ息だけをしていた。

 暗くなってゆく空の下、僕は半分泣きべそをかいていた。コクラデスはずっとここから離れようとしなかった。

 数時間前に捕まえた牝鹿を食べ終え、それで一旦満足したのか、雪の上に丸まっている。雪の上に散った鮮血と鹿の残骸は、僕の目に入るところにあった。


 ……あいつに捕まったら、僕もこうなるんだ。


 僕はシミア姉さんの肩口に顔を埋める。シミア姉さんは僕の頭を抱いたまま、視線だけを後ろに向けて、鋭い目でコクラデスを見据えていた。


 ふと、コクラデスの頭がこちらを向いた。僕はシミア姉さんの肩越しにそれを見て、はっと息を飲む。シミア姉さんも体を強ばらせた。

 においを嗅ぐみたいに鼻をひくつかせながら、コクラデスは立ち上がる。僕たちは声もなくそれを見ていた。



 僕がシミア姉さんの服をぎゅっと握りしめると、シミア姉さんも僕の背を強く抱いた。コクラデスが、一歩、また一歩と近寄ってくる。


 突如として、シミア姉さんが雪を掴んだ。握りしめた雪を、小さな動きで投げる。いきなり何をするのかと、僕はぎょっとして体を強ばらせた。

 一瞬だけコクラデスの頭が雪の落ちた方を向いたが、すぐに興味を失ったように、再びこちらを振り向く。

 シミア姉さんの息づかい。僕の鼓動。冷えた体。

 白い息、赤くなった鼻。白々とした雲の隙間に見える赤い夕暮れ。白い雪の上に広がった鮮血。



 コクラデスは鼻を鳴らし、時折迷うようにしながらも、着実に僕らの方へ近づいてきていた。恐ろしい牙が眼前に迫るように感じた。飛びかかってくれば、ほんの一呼吸の間に喉を裂かれそうな距離だった。



 そのとき、僕の脇腹に、鋭い痛みが走った。


 あまりの痛みに声も出なかった。見下ろすと、血のついたナイフを持った手が見えた。僕は唖然としたまま、シミア姉さんを仰ぐ。かひゅ、と細い息が漏れた。

 シミア姉さんはもう一度ナイフを持ち直し、今度は僕の右足の太股を数度刺した。


 ――どうして、シミア姉さん。

 僕は戦慄く息で縋る。


「逃げちゃ駄目よ」

 そう囁いたシミア姉さんは、丁寧な手つきで僕の頬を撫でた。少し眉根を寄せ、にっこりと笑う。僕の頬に唇を寄せて、低い声で告げた。

「じゃあね」

 僕の心を絶望が満たした。あまりの痛みに頭がくらくらする。


 酷いよ、シミア姉さん。僕は涙に歪んだ視界で、彼女を睨みつけた。彼女は表情を変えないまま僕から顔を背ける。



 身を翻し、雪を蹴散らして逃げてゆく後ろ姿を見送りながら、僕は雪の上に倒れ込んだ。


 どうして、と、心の中でもう一度呟いた。

 そのとき、弾かれたように振り返り、雪上を駆ける獣の四肢が、視界を横切る。僕は目を見開いた。



 森に響き渡る甲高い悲鳴。僕は体を強ばらせたまま、視界に僅かに映るその姿を捉えた。


 体から引き千切られた腕が宙を舞った。柔らかい体が吹っ飛ばされ、地面に叩きつけられる。コクラデスが吠えた。僕の腹から流れ出した血が雪を染める。


 鋭い爪が振り下ろされた。何人にも踏み荒らされてこなかった、静謐な森の白雪に、シミア姉さんが染みてゆく。


 報いだ、と僕は薄れてゆく視界の中で囁いた。

 ……ああ、シミア姉さん、どうして。



 ***


 眠る彼女の枕元で、僕は静かに外を見ていた。高原の中にあるこの街の中でも、ここの病院は一段高いところにあった。街の外に広がる草原が、風が吹き抜ける度に波のようにさざめく。草原を割るように伸びた道は、遙か遠くまで続いていた。

「…………ラザ、」

 ふと、か細い声が僕を呼んだ。


「……今日も、来てた、の?」

「うん」と僕は頷き、椅子を回転させて彼女を振り返る。


 枕に頭を乗せた彼女が、小さく笑った。

「右側にいたら、手を握ってあげられないわ」

 息混じりにそう囁いた彼女は、寝返りを打って左手を僕に伸ばす。


「ラザ」と彼女は小さく呟く。その目はどこか遠くを見ているようだった。


 彼女の手は僕のものよりすっかり小さくなっていた。細く華奢な指先が、僕の手に縋るように絡められた。

「いきなり、いっぱいお手紙送ってごめんね」

 震える声で、そう告げる。

「いつもは、看護師さんにお願いして清書して貰ってたんだけど、どうしても、自分の文字で伝えたくて、」

 彼女の左手が、僕の手の中にあった。

「どうしても、一度、会いたかったの。それだけなんだよ」



 華奢すぎる指先が、するりと僕の手の中から逃げた。僕はそれを止められず、黙って見送る。

「ラザ、」と、柔らかい口調ながら、ふと真剣な色を湛えたシミア姉さんの双眸が僕の目を射貫いた。


「来てくれてありがとう」

「うん」

「会えて嬉しかったわ」

「うん」

「あなたは私の大切な弟よ」

「……うん」

「だから、」

「うん」


 シミア姉さんが、柔らかい声で、それでいて鋭く告げる。

「もうここには来ないで頂戴」

「……いやだ、」

 僕は喉を絞るように答えた。シミア姉さんは驚いたように眉を上げ、言葉を見失ったように唇を引き結ぶ。



「――僕は、シミア姉さんと一緒にいたいよ」

 彼女は息を飲んだ。

「たとえシミア姉さんが僕のことが嫌いだとしたって、僕は、シミア姉さんと一緒にいたかったのに」

 僕はシミア姉さんの左手を掴んで訴える。彼女は無言で僕を見つめていた。



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