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家族は私が盗難に遭ったものと思い込んで、一人旅の危険さをくどく説いてきた。私は私で今回の旅でアオという気を許せる年齢の近い異国の友人を持てたことで舞い上がっていた。
大学でゼミを担当する今西教授にアオのことを話した。もし良ければ国際交流としてアオを日本に招待し、その後私がアオの村で一時を暮らすということをとりもってもらえないかとお願いした。学業に熱心な私の姿は教授に評価されており、彼に甘えるのはそう悪くない案だと考えていた。
「明石さんがお世話になったところはM族の集落の一つだね。なんというか、……なかなか接触しづらかったところだったんだ。彼らが由美子さんを歓待してくれたっていうんなら、これほど喜ばしいことはない。むしろ由美子さんにこちらとむこうとの仲立ちをしてほしいくらいだよ。提案は喜んで引き受けさせてもらう」
今西教授はニューギニアでの資源採掘や土地開発において、日巴両企業が行う多民族との折衝に同行して文化人類学の観点からの研究を行っており、私は自分の目論みが成功したことを心の中で快哉を上げた。
この件をきっかけに学内の国際交流大使として選ばれた私は、半年後、教授とNGOから派遣された職員、採掘プラント企業の社員と一緒にニューギニアへ飛んだ。かつて私が保護されたルートをそのまま逆にたどり、一日車中で野宿を挟むと翌日の昼前にはアオの村に着いた。
想いは違えど、私と教授は目的の場所で感嘆の声を上げた。私はアオと半年ぶりの再会を祝い、教授たちはポートモレスビーで合流していた在巴外務省ODAの職員と揃って、国際交流の意思と共に現地視察と開発交渉をしに村長宅を訪れた。
教授連はご挨拶にと菓子折りをまず手渡した。村長と年寄達を初め、それを口にした村の人間たちはその味の良さを口々に褒めたたえ、日本の食べ物は大変甘く美味しいものなのだと深く感心していた。その後で交渉を始めたこともあってか、村長は娘に日本を体験させるということに賛成し、開発その他にもまんざらではないという態度のように見えた。
村はかつて私を迎えてくれたように、彼らにも数日間、歓待のおもてなしを行った。日本から持ち寄ったお酒と共に食べて飲み、途中寝ている隙に自家製缶詰を盗まれるというハプニングもあったが(後にこれは子供たちが物珍しさに失敬し、食べ物かどうかも判別せず、結局は蹴り遊びに使われていたのが判明したが、盗まれた当の教授本人は気にするふうでもなかった)、私は皆と一緒に村の生活を満喫すると、ゼミの課題を仕上げるため、教授たちより先に帰途についた。
帰国してしばらくすると前期末試験が始まり、終わると大学は夏季休暇に入った。
私は成田空港の国際線到着フロアに並ぶ椅子の一つに腰かけ、手首の内側につけた時計と到着出口を交互に見ていた。
やがて、目的の人物が人の群れと共に現れるのが見えた。私は立ち上がり、相手の名前を呼んでその中に駆けていった。
そこには、NGOスタッフの手で服の着こなし方と道程をエスコートされたアオがいた。川の流れの中に鎮座してそれを二分する岩のように私は人波の行きかうその場で彼女と向かい合い、そして歓迎の意を表した。
家に帰った時には日はもうすでに暮れていた。両親が玄関先でアオを快く迎え、アオと同伴していたスタッフを含めて私たちをダイニングへ招いた。
慣れない箸とスプーンでぎこちなく口元に運んでいくアオをフォローしつつ、料理に舌鼓を打ち終えて私たちが一息つくと、父がすでに数杯ひっかけた顔でウイスキーと数個のグラスを両手で持ってきたが、私たちはそんな度数の高いお酒飲ませて何かあったらどうするのと彼を諫めた。
アオのやってきた一日はそうして終わった。