Prologue
――俺だけが生き残ってしまった。
【火星 ラスター連邦火星探査局】
連邦軍が火星に建設した施設で、俺は普段と変わらず探査用機械の電装系をチェックしていた。
人類は宇宙開拓時代に火星での「酸素現地生成」を成功させ、この太陽系における第四惑星は人が生身で活動出来る惑星へと変わった。しかしながら、未だ人類が火星へ移住するには至っておらず、火星資源の調査と実験が繰り返されたいる。
掘削機械が今日、最初の整備対象だった。正直、こいつの相手は好きじゃない。かなり大がかりな図体の上、構造が複雑だ。何事も無く修繕が進めば良いが、淡い期待を持たない様にしている。それがこの仕事を通して学んだ処世術だった。
別の箇所で作業をしている機械担当班が揉めている声が聞こえる。事前に聞いていた情報より深刻な状態なのだろうか…? 機械担当が整備を完了しなければ、電気担当は電源を入れ試運転確認が出来ない。つまり機械担当の工程が伸びるほど、俺の睡眠時間は消えていく。
この様な事は初めてでは無い。何度も経験してきたし、今回だって何とか乗り切る事が出来るだろう。
そう――。いつもと変わらず他の仲間達と同じ様に、作業に取り組み軽口をたたいて笑っていた。必要な工具を取りに持ち場を離れた。「サボんなよ」という仲間の声を後にして倉庫へ向かう。ただそれだけが他の奴らと違う行動だった。
平穏だった整備区画に何の前触れも無く、巨大な光の柱が突き刺さった。日常の崩壊を報せる鐘が、爆音として施設に響き渡った。
俺は生じた爆発により、まるでボールの様に何度も床に叩きつけられながら吹き飛ばされる。
「――あ…がぁ…っ」
激痛により呼吸が止まる。叫び声を上げて少しでも痛みを身体から逃そうとしても、突き刺さるような痛みがそれを許さない。苦痛に顔を歪めながら、周りを確認する。整備区画は容赦なく荒れ狂う炎により蝕まれ、辺り一面は黒煙に包まれている。崩れ落ちた天井に仲間達は為す術なく押し潰されていた。
言葉が出ない。痛みによるものではなく、いや、痛みすら感じない。音も聞こえず、焦げ付く臭いもせず、焼き尽くす炎の熱すら感じない。時間が自分だけを置き去りにしてしまった様に思えた。取り残された俺は、ただ無残な姿となった仲間たちから目が離せなかった。
天井に空けられた大きな穴は、本来なら火星の空が見えるはずだが、巻き上がる黒煙により空は覆い隠されていた。しかしそれ以上に不自然な光景が現れた。
天井の穴を覆う黒煙から、目の様な丸い球体が六つ浮かび上がっていた。次の瞬間、まるでカマキリの様な爪が整備区画の床を突き刺した。けたたましい音を上げながら、爪が整備区画を引き裂く。六つの目は別の獲物を捉えたのかぎょろぎょろと蠢いた後、轟音と共にその場から去った。
「…『鼠』? 」
いや、人類が「宇宙鼠」と呼ぶ異形の生命体には、あのカマキリの様な爪は無い。
ここは軍事施設のため、勿論のこと兵器に監視レーダーも備えている。だが、現実に施設のレーダーに何も反応せず、ただ蹂躙される事を許してしまっている。機器の故障は考えられない。他でもない自分達が整備しているのだから。考えられるのは、レーダーで探知されない若しくは索敵範囲外から攻撃する術を持つ新種の鼠が現れたという事だ。
外から戦闘音が聞こえる。部隊が出撃したらしい。どれだけの被害が出ている? 頭の中は沢山のビー玉が散乱してしまった様だった。今、自分に出来る事を…。整理が追い付かない頭を押し黙らせ、立ち上がった。生存者を探さなくては。
バックポケットに入れていたタオルで口を押さえる。炎と瓦礫を避けながら鉛の様に重くなった身体を進ませた。
――自分以外に呼吸をする存在がいない。
――何故そうなったのか理解が出来ない。
非常事態を報せる赤色灯の光と炎、血まみれで横たわる職員達。自分のいる世界は紅蓮に覆われ、そして残酷に染まっていた。遠くで起きた爆発が地響きの様に伝わり、目の前に鉄骨が剥き出た天井が落ちてくる。惨状と化した施設で、進む事が出来る道は限られていた。それでも少ない可能性を歩き続けた。
浸食する炎はあまりにも貪欲に生きた場所を、思い出を食らい尽くしていく。歪んだ通路に横たわる仲間達は目を見開いたまま、微動だにせず。先程まで人間として生きていた事が嘘の様に思えた。
これが現実であると受け入れる事から、逃れるために必死に探した。望みを掛けて到達した管制室も、他と変わらない惨状が広がっていた。その光景を無機質な赤色灯の点滅だけが、微かに照らし出していた。
――もう…諦めよう。
――可能性を探したところで…見つけたところで…。
これ以上、生にしがみついたとしても、大切でかけがえの無いものを失ったという過去が創りあげられ、絶望の牢獄で生きる未来へ向かう事になるだけだ。
壁に背を預け座り込む。直にここにも火の手が回ってくるだろう。鈍い痛みが右腕から伝わり、頭は鉄球の振り子を打ち付けられるように、ズキズキと周期的な痛みが襲う。視線を落とすと作業着の所々に血が滲んでいた。自分はこんなにも傷を負っていたのか。
胸ポケットから取りだしたタバコは、吹き飛ばされた時に平たく潰れてしまったらしい。父親から譲り受けたフリント式のライターは、いつもと変わらない姿でズボンの右ポケットに入っていた。
最後の時を思い出に浸りながら迎えようと思っても、何も考えられなかった。湧きあがる感情は無く、溢れるはずの涙も出ない。
歪な形のタバコを口に咥えヤスリを回すが、火花を散らすだけだった。
――――。
無心でヤスリを回していた手が止まる。微かだが聴こえた。
――人の声が。
咥えていたタバコが落ちる。感覚が戻り痛む身体を奮い立て、音の方向へ進む。もう自分が生きる意味も未来も、この音の向こうにしか存在していなかった。