「お胸、見せて下さいまし」
聞いて下さいますか、フランツさま。
ええ、すべて思い出したのです……何もかも。
シシィは、あの子は、私の妹です。
本当の血縁かどうかは分かりませんが──私にとっては大切な『妹』です。
私たちは『神の家』で暮らしていました。
母に当たる人物も『神の家』の人間です。父親はわかりません。
『神の家』は神仕えをする女たちの家ですが、ときどきそこで新しい命が生まれるのです。私たちの神はそれを咎めるような存在ではなく、生まれた命はいつだって歓迎されました。
シシィは、神の家で生まれた、最後の赤ちゃんでした。
私たちが子どものころ、あそこには何人も神仕えの女がいました。老いたものもいましたし、いまの私と同じ年頃の娘もいました。
昔はもっといたそうですが、だんだんと減って行きました。老いて亡くなったものもいます。昔はそれが普通でした。でも、死ぬものと同じだけ、生まれるものがいたのです。
昔は……ええ、昔は。
シシィを産んだ女を最後に、身籠った女が神の家で赤子を産むことはありませんでした。
皆、外で産むようになったのです。そして、赤子が生まれた後も戻ってくることはありませんでした。
何故行ってしまうの、と出て行く女に訊ねたことがあります。私が十にもならない頃でした。
「星神様がそう仰ったからよ」
子どもだった私には、よくわかりませんでした。星神様はありがたいものですが、何か言葉をかけてくるようなものではなかったから。
私は数人にまで減ってしまった他の女たちとともに、神仕えを続けました。
出て行くのは身籠った女だけではありませんでした。私よりも先に生まれ、子どもではなく大人になった者たちは、皆順々に出て行きました。
……ええ、寂しかったです。
寂しかった。
やがて神の家は、私とシシィの二人だけになりました。
私たちには、まだ星神様の声が聞こえなかったから。
ですが月日がたち、十三を過ぎた頃だったでしょうか……私にもある時、聞こえたのです。
『外へお行きなさい』
と、そう聞こえました。
『外へお行きなさい』
とても優しい声でした。優しくも絶対的で、それ以外は考えられなくなるような。
『外へ行って、幸せにおなりなさい』
でも私には、シシィがいましたから……
……行かなかったのです。
私が行ったらシシィは一人になってしまう。だから私は、とどまりました。『神の家』にとどまりました。
星神様の声は月ごとに聞こえ、そのたびに私は揺れましたが……
だけど、私はシシィを置いて行けなかった。行けなかったのです。なのに──なのに……
「リサ、リサ、どこにも行かないで」
なのに、シシィはどんどんおかしくなっていったのです。
あの子には何も聞こえていないはずなのに、私を外に出そうとする声は聞こえていないはずなのに、泣きながら言うのです。
「私とリサは違う。違いすぎて一緒にいられない。リサは私を置いて行ってしまう、私を一人にして行ってしまう」
そう言って泣くのです……私を離すまいと抱きついて、胸に顔をうずめて泣くのです。
あの子はこうもいいました。
「行くのなら、私も連れて行って」
うなずくべきだったのかもしれません。一緒に行こうと、言うべきだったのかもしれません。
でも私は、そうするべきではないと思った。
一緒にいてはいけないと、そう思った。
だから「だめよ」と言いました。
「なんで!!」
シシィは狂乱しました。狂乱して叫びました。
「私の体がこんなだから、私だけ置いて行くの!?」
事実、神仕えの女たちは皆、私のように……その、乳房が大きく、女らしい体つきをしているのです。
なのにあの子だけはいつまでも幼子のようで……
「私だけ違うから。私だけ置いて行かれる。嫌だよリサ、嫌だ、嫌だ」
そう言って、泣いて……
「リサ。リサ。リサ。どこにも行かないで。ずっとここにいて。ずっと。ずっと」
──それが毎日。
毎日です。
私もおかしくなりそうでした……いえ、おかしくなっていたのかもしれません。
二人きりの『家』で、出て行けという声と、行かないでという声と、それを疎ましく思う自分の声と、その浅ましさを責める別の自分と……
思いつめていたのだと思います。或る夜、それがはじけました。
『外へ行きなさい。幸せにおなりなさい』
季節は過ぎ、寒くなっていました。毎日少しずつ雪が降り、『家』のまわりは真っ白でした。
その日もシシィは泣き疲れて眠り、私もくたくたで……そんなとき、窓の外を見たのです。月と星の明かりが煌めいて、別の世界のようでした。
私は『今だ』と思いました。
そして上着も何も羽織らず、転げるように『外』に出たのです。
森の中を歩いて、歩いて、歩いて──やがて雪の中に線路を見つけ、私はそれを辿ってまた歩きました。
そうすれば、必ずどこかに辿り着くと思ったから。
歩いて、歩いて、歩き続けて、ついに森を抜けたそのあとは……力尽きたのだと思います。眠くて仕方なくて、全身が凍りついて痛かったことだけ、覚えています。
そしてフランツさま──あなたに、助けて頂いたのです。
* * *
話し終え、顔を伏せて、毛布の端を握りしめ、リサは肩を震わせた。
なんだかすごい話を聞いてしまった。しかも、けっこうデリケートな内容だ──はたして、どうやって慰めたものだろう。
「……なあ、リサ」
リサがいる寝台の端に腰掛け、フランツはそっとその背中をさすった。
今はそのくらいしか、思いつかない。
「話してくれてありがとう。その……えーと、話しづらいことでもあったろうに」
「いえ……」
リサは指先で涙をぬぐい、小さく首を横に振る。
「私こそ、ごめんなさい……こんなこと聞かされたって困ってしまいますよね」
「いやいや、それは気にするようなことでは……」
たしかに困りはするかもしれないが、「聞かなければよかった」とは決して思わない。それを伝えようと口を開いたが、リサが堰をきったように話そうとするのを、遮ることもまた躊躇われた。
「ですからその、これは私とシシィの問題なんです。あの子がここに来て暴れたのは、私が黙って出て行ったせいですから」
「……まあそれはそうかもしれないが」
「だから私が、なんとかしないと。どうしてこんな大切なこと忘れていたのかしら。ごめんなさい、思い出せないのをいいことに、私……」
「リサ」
「私、いつまでも、このおうちにいられるって……思ってしまって……みんな優しいから。フランツさまも、ばあやさんも、ヨセフも。
はっきりわかったんです……私はそれに甘えてるって」
空いた方の手を、フランツはおのれの胸に当てた。
人と違う体になって苦しめばいい──この呪いは、あの少女の苦しみそのものだったのだ。そしてその苦しみをどうすることもできなかった、リサの苦しみでもあるのだろう。
「しかし、リサよ……おまえはシシィを嫌って出てきたわけではないんだろう?
もしもそうなら何年も何年も、春が過ぎて夏が終わり、秋が去って冬が来るまで頑張ることはできなかっただろう?」
リサはパッと顔を上げた。そして「もちろんです」と答えた。
「そりゃたしかに、おまえの体つきとあの子の体つきはまったく違うと思うよ。だけどそれは、おまえがあの子を置いて行く理由にはならない。そうだろう?」
「はい」
「どんな外見だって、あの子はおまえの大切な妹だ。あの子も冷静になれば、そこんとこわかると思うんだが……」
まあ、中々そうはいかんのだろう。
すぐに冷静になれるようなら、ここまで拗れはしなかったのだから。
周りの人間が一人また一人といなくなり、それが皆立派なおっぱいの持ち主で、自分だけ少年のようにつるぺったんとしていれば──気にしない方が難しい。
しかも二人っきりの空間で年がら年中朝昼晩、この立派なおっぱいが目に入るのだ。
なんとも悩ましい状況だ。
ではなかった、気に病んでしまうのも無理はない状況だ。
出口のない状態で、自分の思い込みにがんじがらめに縛られる──誰にだってありうることだろう。何もシシィだけが特別なのではない。
「あの子がどんな見た目だって、おまえはあの子が好きなんだろう?」
「もちろんです、もちろんです」
「他の誰かだって、あの子のことを好きになるって思うだろう?」
「もちろんです、もちろんです。本当は素直で明るい子なんです。私の後を、ニコニコしながら、どこまでもついてくるような……そんな子なんです」
そう言うとリサは、ぐすっ、とひとつ鼻を鳴らした。
「人と違う体じゃ、つらいだろうな」
フランツはしみじみと呟いた。「お優しいんですね……」とリサがまた目元をぬぐう。
「いやいや違うんだよ、そうじゃない。私なんか鈍いものだ。あの子に呪われるまで、ちっとも思い至らなかった」
「呪われ……?」
「いや、うん、何かされたわけじゃあない。ちょっと言い争いのようになってね」
なんでもないんだよ、とフランツは笑ってみせた。リサだって動揺してるし、疲れているのだ。心配事を増やしても仕方あるまい──と、そう思った。
しかし、当のリサは不安げに眉をよせた。
「あの、シシィが何か……フランツさまに失礼なことを?」
「いやいや! 何も、何もなかったよ、うん。
ただちょっと、こっちの気持ちも考えろって言われたくらいでね……それもそうだと反省した次第なんだ」
危ない、危ない──うまく誤魔化せただろうか。
内心冷や汗をかくフランツを、リサは訝しげに見つめた。しばらくそうしていたが、やがて意を決したように背筋を伸ばし、居住まいを正した。
それが妙にりりしく見えて、思わずどきりとする。
「フランツさま」
なにやら声までも、凛として聞こえるような……
「な、なんだね?」
「お胸、見せて下さいまし」
……ばれてる……!!
「な、な、リサ、何を言って」
「お胸! 見せて下さいましッ!」
「やめ、だ、絶対だめッ!! やめなさい!!」
掴みかからんばかりのリサから逃れるべく、フランツは寝台から飛び退った。
なんということだ、自分の軽口が恨めしい。いくらなんでもこの胸を見られたら自分は死ぬ。死んでしまう。
物理的には死なないかもしれないが、心の中の大事な部分が、けっこうな範囲で死んでしまう。
「やめません、見せて!」
「見せたくないッ」
「見せて! 見なくては何もわかりません!!」
リサの目は本気だった。
興味本位とか嫌がってるのを見て楽しむとか、そんな下品な気配はカケラもない。「何とかしなくては、絶対に何とかしなくては」と、その顔に書いてある。
「お願いフランツさま、見せて下さいまし。見なくてはいけないんです!」
声には悲壮感すら滲ませて。
それでも、自分は見せたくない──断じて見せたくはないのだが、リサがこんな顔をしているのも、同じように堪えがたい。
「……リサ」
「見せて下さいますか!?」
「あ、いやその……本当にちょっとだけな? 恥ずかしいから。あとそれから、他の人には内緒だからな?」
「もちろんです、もちろんです!」
泣きそうな顔で、リサは何度も頷いた。
こうなってはもう、見せるより他にあるまい──腹をくくれ、フランツ。男らしく、男らしくだ。
覚悟を決め、フランツは服のボタンに指を掛けた。ごくりと息を飲んだのは自分なのかリサなのか、定かではない。
乙女のように震える指先ですべてのボタンを外し、フランツは目を瞑った。
そして「えいやっ」と前をはだけた。
「……!!」
リサの反応は、すぐには無かった。
やはり駄目だったか。そりゃそうか。
駄目に決まってるよな、男の胸におっぱいなど有ってはいけないのだ──おそるおそる片方の瞼を開き、フランツはリサの様子を伺った。
「なんてことでしょう……!!」
はたして彼女は──両手で口許を隠し、目を「カッ」と見開いていた。
「なんてことでしょう、なんてことでしょう、フランツさま……!」
「ごめん、ごめんな今しまうから。怖いものを見せてしまって、まったく配慮が足ら」
「もっとちゃんと見せて!!」
「はいッ」
しまわせて、頼むからしまわせて。こんなの生まれて初めてだ……!
羞恥に震えるフランツの小ぶりな胸に、リサの細い指が遠慮がちに触れた。思わず「びくっ」としてしまい、それがいっそう恥ずかしい。
男らしさのカケラもない。
これじゃあまるで清純な乙女じゃないか。
このような反応はリサにこそふさわしい、自分がやるのは無しだ、無し!
「な、なあリサ。もうそろそろしまっていいだろうか」
「フランツさま」
「はいッ」
「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい!」
「……あ? ああ、はい」
「私がちゃんとしていれば、こんなことにならなかったのに。ごめんなさい。絶対直してみせますから、絶対に」
「でもどうやって」
「シシィと、ちゃんと話します」
話し合ってどうにかなるものなんだろうか。
そもそも、シシィは警邏隊の砦に捕えられているのだ。一通りの取り調べを終えるまで面会は出来ないだろう──だが、リサはまっすぐ顔を上げ、確信に満ちた声でこう言った。
「シシィと二人で話します。きっと大丈夫。あの子も私に会いにきます」
ついさっきまで取り乱していたのが嘘のような、力強い声で。
「だからフランツさま、心配なさらないで──どうか引き留めないで下さいまし」
「引き留め……引き留めるさ! リサ、どこへ行くつもりだ。外は雪だし、一人で出るのは危なすぎる」
「大丈夫。星神さまがお守り下さいます」
「だがシシィは、神さまなんていないと言っていたぞ。私だって信じないわけでは無いが、おまえひとりを外にやるなんて」
「フランツさま」
リサの指が、フランツの唇に触れる。
言いつのろうとした言葉は消え去ってしまった。不思議な力によって、跡形もなく。
「どうか、何も仰らないで」
リサはかすかに微笑んだ。
微笑んで立ち上がり、身支度を整えた。
「最後に一つだけ……わがまま、いいですか」
唯々諾々と従うしかないのは、何故なんだろう。
引き留めたい。
引き留めるべきだ。
それが無理なら一緒に行くべきなのに。
「羽わたの外套、一つ頂いていいですか。あの子、薄着みたいだったから」
そして小雪が降る中、リサは静かに屋敷を出て行った。
フランツは呆然とその背中を見送った。
うしろからヨセフとばあやの視線を感じたが、二人も何も言わなかった。
──言えなかったのだろう。
不思議な力によって、三人そろって大人しく見送ることしかできずにいた。
外は雪が舞っていた。
天地がわからぬほど白く塗り込められた世界に、リサの後姿は溶け込んで──
やがて、見えなくなった。