「……おっぱいだよなあ、これ……」
目覚めると、シシィの姿が無かった。
すうっと胸の底が冷えていく。指先が震えるのは、寒さのせいだけではない。
宿に荷物を置いたまま、気づけばトッドは町に飛び出していた。
抜け出したのが夜中なら、あいつは今どうしているんだ。どうやって夜を明かしたんだ──足に合わない雪靴で、厚みの足りない外套で、シシィ、おまえはいったい何処にいる。
「おい、俺の連れ見なかったか」
心当たりなど無く、トッドは昨日炭を売った商店に駆け込んだ。
「おまえの連れ? あの子どもみたいな女か」
「夜の間にいなくなったんだ、着の身着のまま。路銀には手つかずだ。無一文じゃああいつ、宿もとれない」
「ひどい顔色だぜ、トッド。落ち着けよ。おまえは路銀を取られたかったのか、取られたくなかったのか、どっちなんだ」
「違う、金の話じゃない!」
何の騒ぎだと奥からおかみが顔を出す。
どうしたのと声をかけられ、店の主人がかいつまんで説明した。二人の声が、やたら遠く聞こえる。
──こいつの連れがさ、消えちまったんだとよ。昨日一緒に来てただろ。こんくらいの、やせっぽちの娘だよ。ちょうどヨセフのやつが来てただろ。そのとき近くにいたんだが。
──うーん、ちょっとわかんないわねぇ。あの子が一人でお使いに来てて、えらいわね、って話をしたくらいしか覚えてないわ。
──そうか、それじゃあしょうがねえなあ。こいつが星菓子二つ買うっていうから、あのやせっぽちが内儀さんになるのかと思ったんだがなあ……逃げられたんだろ、トッド。違うのかい?
──あんたいくらなんでもそりゃあんまりよ。そうそう星菓子と言えばヨセフの坊やも言ってたわ。今年はリサがいるから四人ぶん頂戴って。フランツさまもようやくお嫁さんを貰うのかしらね。こんなことって今まで無かったから。
「リサ」
聞こえた名前を口にした途端、周りの音が耳に戻ってきた。
「リサって言ったな、いま」
「え? ええ、言ったわよ」
「その女、どこにいる」
フランツさまの御屋敷よ──おかみが答え終わる前に、トッドはまた駆けだした。
シシィはきっと、リサを探しにいったのだ。「明日にしろ」と言ったのに、待てなかったのだ。
なぜだ、とトッドは自問した。
あいつがリサを探していることなんて、最初の最初に分かっていたはずだろう。
一緒に探してやれば良かったじゃないか。
会わせてやれば良かったじゃないか。
なのになぜだ、俺はあいつを連れて町を出ることばかり考えていた。リサのことを、頭から締め出していた。町を出て、森に戻り、あいつを自分の家に連れて帰るんだと決めてかかっていた。
「なぜだ」
放っといてやれよ、と頭の片隅で声がする。
あいつは最初からリサに会いたがっていた。リサのことしか話さなかった。
この町の領主のところにいると知って、きっと訪ねて行ったのだろう。今頃再会を喜んで、神の家への帰途についている。
──それでさよならでいいじゃないか。
やがて小雪がちらつきはじめた。闇雲に走っていたトッドは足を止め、膝をつき、がっくりと項垂れた。
「なぜだ、シシィ」
何をこんなに、必死になっている。
あの娘が俺にとってなんだと言うのだ。一瞬すれ違っただけの、見も知らぬ子どもじゃないか。何を焦っている。何を恐れている。
そうだ、もともと出会うはずのない相手だったのだ。
探し当てたところでどうするのだ。店のおやじが言うとおり、あいつは俺のところから逃げ出したのだから。
わかっていたことだろう──シシィが求めているのは、リサなのだ。
放っといてやれ。
もう、放っといてやれ。
自分に言い聞かせ、トッドはふらつきながら立ち上がった。どれほどの時間が経っていたのか、雪はその勢いを増していた。
宿にもう一泊して、明日こそ帰ろう。一人でいい──もともと、そうだった。
降りゆく雪は視界を白く埋め尽くす。
星菓子に砂糖を振るっているみたいだ。そんなことを思って、菓子作りなど見たこともないのにと自嘲する。
その粉砂糖のような雪の中を、トッドは一頭の馬とすれ違った。
馬は荷車を引き、その上には毛布でくるまれた小柄な人影が倒れていた。
病人か何かだろうか。こんな雪の中をわざわざ運ぶなら、きっとそうなのだろう。通りには自分以外、人っ子一人いないというのに。
フランツは振り返り、目をこらした。
雪が邪魔をしてよく見えない。
よく見えないが、あれは──あの黒い髪は。血の気の失せたあの頬は。
「シシィ」
声を限りに、トッドは叫んだ。
「シシィ!!」
シシィと思しき人影が、僅かに顔を動かす──だが、答えは返ってこなかった。
ちくしょう。
ぎりりと歯噛みし、トッドは三たび駆けだしていた。
* * *
フランツの体に、異変が起きた。
それはまさしく呪いだった。
胸が苦しい。痛い。心理的なものかと初めは思ったが、すぐに気が付いた。
肉体が変わろうとしているのだ。
何も知らぬげに眠るリサの傍を離れ、フランツは自室に戻った。
湯船ですぶ濡れになった衣類を脱ぎ、乾いた服に着替える。濡れたのは主に下半身で、上半身は無事だったがそれも脱ぐ。
脱いだ姿を鏡に映し、フランツは深々と溜息をついた。
「……おっぱいだよなあ、これ……」
人と違う体になって、苦しめばいい──これを呪いと言わずして何と言う。
男である自分の胸があれよあれよと膨らみ、こぶりな乳房ができるなんて。もともとこの部分に男らしい筋肉の塊はあれど、やわらかく、それでいて張りのある脂肪の塊など無かったはずだ。
はああ、とフランツは溜息をつく。
ほんとどうしよう、これ。元に戻るんだろうか。
今はまだ「こぶりなおっぱい」くらいだからいいけれど、いや全然よくないけれど、どんどんどんどん膨らんでリサのような立派なおっぱいに育ってしまったら──いやそんなことにはならない、たぶん、きっと──だってなったら困る。ものすごく。
「はあー……本当に困ったことになっ」
「お館さまぁー」
「わーっ!!」
慌てて服を掴み体を隠す。恥じらう乙女のような格好になってしまったが、しかもそれをヨセフが「なにしてんの」と言わんばかりに見てくるが、背におっぱい、もとい背に腹は代えられない。
「な、な、なんだヨセフ、入る時はノックくらいするように言ってるだろう」
「はい、でもお館さま」
「な、なんだ」
「おばあちゃんが、あのシシィって子もうちで預かったらって」
はああ!? と思わず顔が歪む。
「なんでまた、ばあやはそんな」
「可哀想だから、って。暖かくしてご飯食べさせてぐっすり寝かせてやれば、きっと落ち着いて話し合えるからって」
それは何とも、ゾフィらしい言い分だった。
実際そうなのかもしれない。衣食住が満ち足りて人の優しさに包まれれば、あのやせっぽちの少女も機嫌を直すのかもしれない。
だが今はとてもじゃないが、そんな考えにはなれない──なんといっても呪いをかけられたのだ。
しかも即効性の。
しかもしかも、人には見せられないタチの。
「あんなびしょ濡れで、こんなに寒いのに、一人ぼっちで砦の牢屋に入れられちゃうんでしょ? 僕も可哀想だなって思うんだけど」
「しかし、しかしだな」
「ねえ、なんとかしてあげられない? リサだって目を覚ましたらそう言うんじゃないかなあ」
うーんうーんとしばらく唸り、結局結論は出なかった。
ゾフィやヨセフの言うことには一理も二理もある。だがしかし、呪いをかけられて苦しみ憤る自分の心を無視することはできない。いやむしろ、そっちを大切にしてやりたい。
「まあとにかく、わかったから。そうだ、それより“光の快速号”は? 戻ってきたのかい?」
「自分で厩舎に入ってたよ」
「あ、そう──あのな、ちょっと着替えたいから出ててほしいんだが。な?」
はーい、とヨセフは素直に退出し、フランツは膨らんでしまった胸をほっと撫で下ろした。
人と違う体で苦しみ憤る自分の心、か──もしかしたらあのシシィも苦しみ憤って、こんなことしてるのかもしれないな。
服に袖を通しボタンをすべてかけると、やはり胸元がきつかった。
フランツはまたも盛大に息をつき、リサの様子を見に部屋を出た。
* * *
リサは何かの夢を見た。
それは乳房を鷲掴みにされたとき脳裏にちらついた、過去の光景であったかもしれない。
あるいはもっと原初の、それこそ生命の起源を示唆するイメージであったかもしれない。
またあるいは赤子の時に抱かれて見た、母の笑顔であったかもしれない。
ああ、私にも母というものがあったのだわ。
リサは夢の中で目を閉じた。
次に見えたのは、よちよち歩きの幼子の手を引く、これまた幼い自分であった。
「行ってしまうの?」
と幼いリサは尋ねた。
「どうして行ってしまうの?」
「星神様が、お行きなさいと仰るの」
「どうして星神様はそのように仰るの?」
「あなたにもいずれ、聞こえるわ」
夢の中で、もう顔の思い出せないその相手は微笑んだ。
微笑んでリサの頭を撫で、こう言った。
「シシィと仲良くね」
そう言って、いなくなった。
一人。
また一人。
何もかもを思い出し、リサはふたたび目を閉じた。
──そろそろ夢から醒めるべきだわ。
目覚めを決めて瞼を開く。
視界に入ったのは、柔らかなハンカチだった。
一瞬の間を置いてリサは理解した。自分は泣きながら眠っていて、閉じた瞼から零れる涙をこのハンカチで拭われていたのだ。
リサは唇を動かした。喉が渇き、声はかすれていた。
「……フランツさま」
枕元にいたのは、親切な田舎の貴族だった。
彼は「うん」と頷き、またハンカチでリサの目元を拭った。
ごつごつした指が頬に触れ、拭う動きの優しさと相まって、リサの胸をきゅーっと締め付ける。
彼女は決意した。
この人に何もかも話そう──思い出したこと、ぜんぶ。
「フランツさま……」
「なんだい」
「お話したいことがあるの。私のこと。シシィのこと」
体を起こそうとすると、フランツはそっと背中を支え、肩にガウンをかけてくれた。
渡された白湯を一口含み、リサはまっすぐに彼を見つめた。
フランツもリサをまっすぐに見た。
打ち明けよう。この優しい人に、何もかも。
「……あの子は、私の妹です」
* * *
石で出来た牢の壁にもたれ、シシィはぼんやりしていた。
「おい、着替えないと死んじまうぞ」
先ほど自分を拘束した男が格子の向こうから声をかけてくる。
だが、動かない。
動きたくない。
「見ないでいてやるからよ、着替えな。毛でできてるからあったかいぞ」
別に着替えを見られたからどうということもないのだ。
減るものでもなし、ただ動けないだけで。
「顔、真っ青だぜ。ほんとに死んじまう」
放っといて──死ぬかどうかは知らないけれど、今はじっとしていたいの。
そう言い返そうとしたが、声が出なかった。
頭の中で、ぼんやりとそう思っただけだった。
「おい……おいおい、目ェ閉じるなよ。おまえに死なれちゃ俺だって困る。フランツだって困るだろうし、あのおっぱいの大きいお嬢さんだって困るんじゃないかね」
リサの面影がふっと瞼をよぎる。
だけどそれは、シシィの心に響かなかった。他人を見るような目でシシィを見つめ、困惑の表情を浮かべたあのリサは──私が会いたかったリサじゃ、ない。
「なあ、ちょっと待ってろよ。温かい飲み物作ってやるからよ。火鉢も持ってきてやる。着替えるんだぞ。そのままじゃ本当にお陀仏だ」
男が何か言い残して格子の前から消えていった。
だがシシィにとっては、どうだっていいことだ。
どうしてこんなことになったんだろう。
私はただリサに会いたいだけだった。
リサに会って、一緒に帰って、また一緒に暮らしたいだけだった。
寒い夜は一つの毛布にくるまって、くっついて眠りたかった。ずっとずっと、そうしてきたのに。
「なんで……」
ようやく出た自分の声が、耳に届かない。
歯がガチガチいうほどの激しい震えがおさまったと思ったら、全身の感覚がどこかに行ってしまった。
自分が座っているのか横になっているのかもわからない。
痛くて仕方なかったすべての指は、体にくっついているかどうかも定かでない。
あのときと同じだ。
リサを探して森を彷徨い、ついに倒れたあの時と。
あの時死んでしまえば、良かったのだ。
あの時死んでしまえば、こんな思いをすることはなかった。
どうして生きてるの。
なぜ助かったの。
なぜ助けたの。
ねぇ──トッド。
「死ぬな」
死なせて……
「死ぬな、シシィ」
死なせて、お願い……もう助けないで。
抱き起さないで。
指先を、温めないで。
なぜまた助けるの。
なぜここにいるの、ねぇ──トッド。
「ばか、シシィ。目を開けろ。着替えさせてやる」
「……なんで」
「時間が無い。後ろから殴って鍵を奪った。いずれ他のやつに見つかる、その前に行くぞ」
凍りついた衣服をばりばりと剥がされ、次の服を着せられる。トッドの手が素肌に触れ、燃えるような熱さにシシィはようやく瞼を開けた。
「トッド、お酒……飲んでるの……?」
「さあ、どうだろうな」
「ばかね、あんた……」
「ばかはおまえだ、シシィ。領主の家で暴れたんだろう。どうしてそんなことをした」
「……」
「ほらおぶされよ。行くぞ」
ばかだな、とシシィはぼんやり考えた。
私につきあって、なんてばかなんだろう、この男。
「リサに会いたいんだろう」
「もう、いいよ……」
「会わなきゃおまえ、死んじまうんだろ。死ななくても、死んだように生きて行くんだろ。ほら言えよ。連れてってやる。おまえのしたいようにしろ」
いいよ、おろして。自分で歩くから。
そう言いたいのに。
言葉が出ない。
乾いた衣服の内側に、すっかり失われたと思った体温がかすかに巡る。シシィを背負って立ち上がったトッドの首筋に頬が触れ、その温かさに胸が詰まった。
溶けてしまう。
凍っていたいのに。
溶かされてしまう。
そんなの、嫌なのに。
「領主の家に行く」
「……」
「ちゃんと謝るんだぞ」
「……ごめん……」
「俺じゃない。リサと仲直りしろよ。きちんと話すんだ」
「……ごめん、トッド、ごめん……ごめんなさい……」
砦の外は、まだ雪だった。
その雪の中に、シシィとトッドは消えた。