「おっぱい見せてよ」
重そうな扉が内側から開き、顔を出したのはまだ幼さの残る男の子だった。
「……どちらさま」
「リサは居る?」
「は?」
「リサは?」
ぽかんとしてる相手に、シシィは詰め寄った。
「いるんでしょ、リサ。会わせて」
男の子はしばらくぽかんとしていたが、「ハッ」としたように顔を引き締めた。
「いないよ、うちにはそんな人」
「うそ」
「いないってば。うちには僕とおばあちゃんとお館様だけだから」
「うそよ。リサをどこかに閉じ込めて隠してるんでしょ、私に会わせないように」
「えーっ!? なんでそうなるの!」
男の子は困惑の声を上げる。その表情にシシィは苛立った。
この子と話してても埒があかない。シシィは肩で少年を押しのけ、館の中へ押し入った。
「リサ!」
大声で名前を呼ぶ。リサ、お願い返事をして。
後ろから少年が慌ててついてくるが、相手をする必要はないだろう。相手をするだけの余裕もない。
「ちょっと!! やめてよ、お館様留守にしてるんだから。用があるなら客間に通すからっ」
「用があるのはリサだけよ。フランツには興味ない」
「あっ、あっ、呼び捨て」
お館様は偉いんだからね、あれでも貴族だし町の仕事もちゃんとしてるんだからねっ──少年の言葉を聞き流し、シシィは館の中を早足で進む。
「リサ!」
客間にはいない。
「リサ、どこ?」
食事の間にもいない。
「返事して!」
炊事場にもいない。
「シシィだよ、会いにきたんだよ!」
途中、暖炉の燃える居間に差し掛かったがそこにもいなかった。老女が一人、編み物の手を止めて驚いたようにこちらを見るだけだった。
シシィはそれも無視して、さらに館の中を進んだ。
どこ。
どこにいるの、リサ。何故隠れているの?
「ヨセフ、こちらのお嬢さんは?」
「わかんないんだ。リサに会わせろって言うんだけど」
「おまえ、何て答えたの?」
「いないって言った」
「ああ、そう……それはもしかしたら、失敗だったかもしれないわねえ」
後ろがごちゃごちゃうるさい。苛々する。
衣裳部屋にもいない。
寝室にもいない。
使用人の部屋にもいない。
「この家にいるんでしょ」
振り向いて問い詰めると、少年と老女は顔を見合わせた。
「雪が降ってるもん、外じゃなくて中にいるんでしょ。会わせてよ」
「……お嬢さん、お名前は?」
「そんなの何だっていいじゃない。教えて、リサはどこ?」
背中の曲がった老女はしばらく沈黙していたが、やがて小さく息をついた。
少年はその後ろに隠れるようにして、恐る恐るこちらを見ている。その様子が、ますますシシィを苛立たせる。
「たしかにね、リサという娘さんがうちにおりますよ。あなたの探してるリサかどうかは分からないけれど」
少し前にも、誰かから同じことを言われた気がする──誰だったか、ぼんやりとしか思い出せない。
思い出せないのはきっと、重要じゃないからだ。
「私のリサだよ。黒い髪で、背は私より少し高くて、美人で、おっぱいがすごく大きいの」
「……」
「いるんでしょ。ねえ、会わせてよ。一緒に帰るんだから。リサがいなきゃ」
話してるうちに、だんだんと声が上ずってくる。
老女の視線が、少年の視線が、痛い。
「リサがいなきゃ」
──リサがいなきゃ、私は、一人ぼっち。
「事情がお有りなんでしょうけどねえ……」
老女はもう一つ息をついた。
「落ち着いて話を聞かせて頂戴な。もしかしたら力になれることも、あるかもしれないわ。
さあ、客間にいらっしゃい。旦那様ももうじきお帰りだろうしリサもお風呂から上がったら」
「お風呂にいるんだ」
「着替えてこちらに来るだろうし……」
「お風呂にいるのね!?」
あ、と少年が声を上げるより早く、シシィは駆け出した。
どこに風呂場があるかは知らないが、きっと館の奥の方だろう。
リサはそこにいる。待ってて、待ってて、いま行くから。
すぐにシシィは浴室に辿り着いた。後ろから先ほどの二人が追ってくるが、そんなことは問題ではない。
シシィの平たい胸は高鳴っていた。
やっと、やっと会える。
そして勢いよく、扉を開けた。
「リサ!!」
* * *
バーン!! と盛大な音で浴室の扉が破られた。
「リサ!!」
「あっはい──え、なんで、うそ、うそ」
思わず返事をしたものの、事態が飲み込めず目を白黒させる。
なに、なに、なにごと?
なにが起きているの。
なんで知らない人がお風呂にいるの。
あっこの子、あの時図書館にいた──
「シシィ?」
恐る恐る名を呼ぶと、真っ青だった少女の頬にわずかに紅が差した。黒い眸に喜色を浮かべて、シシィは頷いた。
「うん。シシィだよ」
「シシィ……」
「良かった、思い出してくれたんだ」
違う、と口を挟めない。
放たれた浴室の扉から温かな湯気が逃げていく。リサは両腕で自分の体を抱き、身震いした──寒い、そこ、閉めて。
きつく回した腕の間で、ぎゅっと乳房が谷間を作る。その谷間に強い視線を感じ、リサは半分後ろを向いて肩まで湯に浸かった。
「リサ、ああ……凄く、きれい」
呟く声に、ぞっと悪寒が走る。シシィがゆらりと近づいてくるのが、目の端に映る。
「なんで隠しちゃうの。見せてくれればいいのに」
「い……いやよ。見せたくありません」
「どうして。『家』でもそうやって隠してた。触らせてもくれなかった」
「それは……!」
それは、あなたが──
そこから先が続かない。
それはあなたが、何だというの。なぜ私は、彼女から体を隠しているの。見せたくないのは、なぜ。
理由が喉元まで出かかっているのに、思い出せない。
「ねえ、リサ」
声のトーンを落として、シシィが一歩近づいてくる。
「帰ろうよ。『家』に帰ろう」
それは『神の家』のことなのだろうか。自分と彼女は、やっぱり『神の家』で一緒に暮らしていたのだろうか。
「どうして急にいなくなっちゃったの。すごく寂しかった。怖かった。私には、リサしかいなかったのに」
「……」
「やっぱり仲間はずれなんだ、ってすごく悲しかった。私だけ違うんだ、だからリサも私を置いて行ったんだって」
「……なんの、話」
「おっぱい見せてよ」
何を、言ってるの。
「見せて。リサのおっぱい」
「な、な、なんで、あなたいったい、何を……」
「私のと全然違う。大きくてきれい。見せてほしいの」
「い……嫌よ」
「ここじゃなくていいから。一緒に帰ろう? その後でかまわないから」
「嫌ッ」
「じゃあ誰にだったら見せるの!!」
ひっ、と息を飲む。
突然の剣幕に、身をすくめる。
「見せてくれたっていいじゃない」
この子、おかしい──普通じゃない。
「ずっと一緒にいたんだから、見せてくれたっていいじゃない」
普通が何かはわからない。でもきっと、普通の子は、こんなこと言わない。
おっぱいを見せろなどと迫らない。
「大きいし、きれいだし、星神様の御加護がいっぱいで……少しくらい見せてくれたっていいじゃない。触らせてくれたっていいじゃない。減りやしないんだから」
「そういう問題じゃ……わ、私は嫌なの、あなたには見せたくない」
「なら誰に見せるのよ! あの男!?」
「ち、ちがっ、違います!」
「うそ!!」
うそじゃない、と反駁する言葉は、遮られる。
「私には見せないのに、あの男には見せるんだ」
「……」
「リサも結局、私を捨てて行くんだね」
「……」
「リサのこと、皆好きになるもの。美人だし、おっぱい大きいし、私とは全然違うもの。私を捨てて、あの男を選ぶんだ。みんなそうやって出て行った。私は、ひとりぼっち」
「そんなこと……」
「うるさい!!」
シシィは激昂した。激昂し、詰め寄ってきた。
「なによ、そんな大きいのぶら下げて!」
「ぶ、ぶらさげ」
「ぼよんぼよんって見せつけて!」
「見せつけ、ち、ちがう」
「私にわけろ! もいでやる!!」
叫び、大股で少女が迫ってくる。
も、も、もがれる。
恐怖に凍りつき、リサは一歩も動けない。温かいはずの湯の中で、震えることしかできない。
ざぶざぶと土足で、シシィは湯をかき分けて近づいてくる。リサのばか──唇が小さく動き、小さな手を伸ばして──リサの両乳房を、むんずと掴んだ。
「痛……!」
その痛みが、乳房から背骨を伝わって、リサの全身を駆け巡る。
「あ──ああ……!!」
それは雷鳴の轟きに似ていた。
「あああ!!」
頭の中で火花が散り、稲妻のような光とともに、リサの脳裏にいくつもの光景が飛び交った。
シシィ。
シシィ。
私は、この子を、知っている──
リサの意識はそこで暗転した。
遠くから誰かの声がする。それがシシィのものなのか、フランツのものなのか──もう、わからない。
* * *
シシィと名乗る娘が来て、浴室に押し入っていった。
ヨセフとゾフィにそう聞かされ、フランツは走った。婦人の入浴中だがそれを理由に戸惑っている場合ではない──そう判断し、開きっぱなしの扉から浴室へと踏み込んだ。
「リサ!!」
呼び声に答える者はない。
浴室の薄明かりにリサの白い裸身が浮かび上がる。後から駆け込んだ警邏隊長が「おお、でかいな」と小さく唸った。
彼が唸ったのはリサのおっぱいのサイズに違いないが──問題はそこではない。
問題は、リサのおっぱいが鷲掴みにされていることだ。
「リサから手を離せ」
豊かなおっぱいに細い指を食いこませ、謎の少女はハッキリと言った。
「嫌だ」
「ならば言い直そう。リサのおっぱいから手を離せ」
「嫌だ。おまえには渡さない!」
なにをだ。リサか。おっぱいか。
どちらも渡さんッ、と意気込む後ろで、隊長が「捕縛する?」と耳打ちしてくる。一つ頷き、フランツはシシィに向き直った。
「リサもおっぱいも渡せないが、少し話をしないか──シシィ」
一歩踏み出すと、シシィが警戒したようにリサの体を抱え直す。リサはぐったりと動かない。気を失っているのだろうか。
フランツの鼓動は早鐘を打つようだった。
無事を確認したい──だがだめだ、焦るな。
シシィの注意をこちらに引きつけるんだ。
「きみにも事情があるんだろう。聞かせてくれないか」
視界の隅で、隊長が動いたのを確認する。シシィは一瞬そちらを気にしたが、フランツがもう一歩踏み込むとすぐに視線を戻した。
「きみたちは南の森の『神の家』から来たんだろう。リサの服に星神様のまじない模様があった」
「……あんなの、全然効きやしない」
「リサは記憶を失っているんだ。自分の名前以外、何もかも忘れてしまっている。自分が神仕えの娘だということも、定かじゃないんだ」
「神仕えなんて」
吐き捨てるように、シシィは言った。
「そんなの、あの『家』に住んでるってだけだ。星神様なんていない。御加護なんてない。リサにはあるかもしれないけれど、私には無かった」
「きみも神仕えの一人だろう。どうして、そんなことを」
「うるさい!!」
ものすごい剣幕で、シシィは怒鳴った。
「私にも御加護があるなら、星神様は私を一人にしないはずだ! リサを奪ったりしないはずだ! 私には何もない。もうずっとずっと、リサしかいない。私からリサを取らないで! 放っといてよ!!」
「シシィ、落ち着いて話を」
「星神様の声なんて聞こえない。神さまなんていないんだよ。御加護なんてない。恩恵なんてない。私にリサを与えて、今度は奪うんだ。与えるくせに奪うんなら、神さまなんて」
「聞いてくれシシィ、落ち着くんだ。せめてここではない場所で」
「お館さまぁーっ!」
急に聞こえたヨセフの声が、合図だった。
じりじりとシシィの後ろに回った警邏隊長が、一気に跳びかかる。
シシィはリサから手を離し、湯の中に崩れ落ちる白い裸身を、フランツは慌てて駆け寄り受けとめた。
「お館さまぁーっ、あの、リサをくるむのに毛布持ってけって、おばあちゃんが……」
ヨセフは両手に毛布を抱え、ポカンと立ち尽くしていた。
湯船では捕り物が繰り広げられ、フランツは裸のリサを抱え、這う這うの体でそこから上がったところだった。
「おお、毛布か。さすがばあやは気が利くな」
「あの、お館様、あの子」
「ああ……とりあえず後のことは隊長に任せよう。な?」
毛布を広げ、リサの体に巻きつける。見事なおっぱいにくっきりと残る赤い筋は、シシィに掴まれた跡だろうか。
──なぜこんなことを。
湯船の方に目をやると、全身ずぶ濡れの隊長がシシィを浴槽の縁に押し付け、片手を後ろに捩じり上げていた。
「確保!! おい、手ぇ貸せフランツ」
「……ヨセフ、リサをたのむ」
戸惑うヨセフにリサを託し、フランツはシシィの傍らに跪いた。
「……シシィ、私は君と話がしたい」
「離せ」
「なあ、教えてくれないか。どうして君は」
「離せ! 離せよ。離せーっ!!」
隊長がシシィの髪を掴み、がん、と浴槽に打ち付ける。
──だめだ、話にならない。
シシィは年端もいかぬ子どもだ。本当ならこんなことはしたくない。
悔しいような哀しいような、やりきれぬ気持ちを胸に押し込め、フランツはシシィの体を押さえつけた。隊長が手際よく彼女を後手に縛り上げるが、正視に堪えなかった。
「おいフランツ、馬と毛布貸してくれ。このまましょっ引いてく」
隊長の言葉に頷き、ヨセフに目配せする。フランツが言葉を発する前に、ヨセフは頷いて駆けていった。
「びしょ濡れだが仕方ねえな。そう遠くもないんだ、ほれ行くぞ」
「……だが、外は雪だ」
「しょうがねえよ、少しの間くらい我慢するさ。こいつも俺も戻ったらすぐ着替えだ。ほら立て、行くぞペチャパイ」
隊長はシシィの襟首を掴み、立ち上がらせる。浴槽から引きずり出されたシシィが、ぼそぼそと何か呟いた。
「……って……な」
「あん? なんか言ったか」
「……って言うな」
「申し開きなら砦で聞いてやるよ」
「ペチャパイって言うな!!」
ずいぶん気にしてんな、と言った隊長の方ではなく、シシィの燃える目はフランツに向いていた。
「おまえに何がわかるんだ。何も知らないで」
「シシィ……」
「私がどんなだったか、何も知らないで!」
まるで、手負いの獣だった。獣はもがき、咆哮した。
「おまえにはわからない! 私の気持ちなんかわからない! 置いて行かれる気持ちなんか、あるべきものが無いものの気持ちなんか、わかるわけがない!!」
「シシィ」
「私の名前を呼ぶな! 呪われろ。呪われろ。人と違う体になって苦しめばいい!!」
言葉は、フランツの体を貫いた。力のある言葉だった。
最後にもう一度「呪われろ」と叫び、シシィは追い立てられて出て行った。
「……かはッ」
フランツは胸を押さえ、咳き込んだ。そこだけがやたらと熱く、服をちぎってかきむしりたい衝動にかられる。
本当に呪われたのだと知るまで、然程時間はかからなかった。